あまでうす日記

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新潮日本古典集成新装版・伊藤博之校注「歎異抄 三帖和讃」を読んで

2020-10-19 15:16:46 | Weblog

照る日曇る日第1481回

「歎異抄」で有名なのは「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」という「悪人正機説」だが、どうもここでいう悪人とは、悪い奴というより、頭がいいので考えすぎる迷えるインテリゲンチャン、善人とは、善良な人間というより、我々と同じようなあんまり頭の良くない、悩み多き一般人ということらしい。

親鸞の考えでは、人間は誰でも「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀如来の計らいのお陰であんじょう往生できることになっている(他力本願)のだが、そこへ頭のいい連中がしゃしゃり出てきて、妙に自力で悟りを開こうなどとあがけば、「下手な考え休むに似たり」というわけで、地獄に落とされることはなくても、一等地ではない2等、3等の極楽地帯にしか到着できない、ということになる。

要するに主義主張、貴賎、富貴、階級、男女の区別なく平等に昇天できるという有難くて便利な宗教観である。

この説の源泉は、親鸞法然源信以前の浄土論を唱えた天親、曇鸞、善導などの浄土思想にあるが、それを否定し、憎悪する既存の他宗の反対運動のお陰で親鸞は師の法然共々4年間の島流しという法難に耐えねばならなかった。
しかし親鸞の浄土真宗は、「命終」してからの極楽往生というよりも、この生きる死ぬかの地獄のような現世で「称名」すれば、その瞬間に確実に往生できるとするリアルな幻想によって、過酷な「現実を生き抜く力」を民に与えることができたのである。


 これからの教育はAIに勝てる競争力を身につけることだと某僧ほざけり 蝶人
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