あまでうす日記

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ピーター・ヘイワース編・佐藤章訳「クレンペラーとの対話」を読んで

2021-01-08 11:47:40 | Weblog

照る日曇る日第1526回

1972年にロンドンで出版された私の大好きな音楽家、オットー・クレンペラーの対話集である。1969年の冬、クレンペラー85歳の冬にチューリッヒで行われたこのインタビュはなかなか面白くて、手に取れば時のたつのも忘れてしまう。
1933年にヒトラーが政権を奪取して総統になった時、クレンペラーは男盛りの48歳。ドイツ音楽の代表選手として大活躍をしていたが、ユダヤ人であるがゆえに祖国を捨てて21年間の亡命生活を余儀なくされた。
もとより音楽と政治は相異なる2つの世界である。さはさりながら、私はやはりドイツ音楽の体現者であるフルトヴェングラーやベームやカラヤンが、ナチスに左袒しなければ、彼ら自身や彼らの音楽も、もっともっと好きになったことだろう。
シュトラウスも同類だ。クレンペラー曰く。「R.シュトラウスはなぜドイツにとどまったか。当時ドイツには56の歌劇場があり、アメリカにはNYとサンフランシスコのたった2つしかなかったからです。彼は自ら「それでは私の収入が減ってしまう」と言ったのです。」
クレンペラーは、ワルターと同様マーラーに親炙して様々な教えを受けたが、かというてク翁はマーラーならどんな作品でも好きかというとそんなことはなく、例えば交響曲1番の終楽章が大嫌い、5番は1楽章は大好きだがスケルツオは長すぎる。アダージェットは良いがまるでサロン・ミュージックだから1度も演奏したことはない。6番も嫌いで一番好きなのは9番だという。
ユダヤ人ゆえユダヤ教徒だったクレンペラーは、のちにカトリックに宗旨替えするが、その理由がふるっている。「私はモーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトのような人たちがカトリックなんだから悪いわけがないと考えました」だって。
ヒトラーを逃れてロスに定住したクレンペラーは、同胞の作曲家シェーンベルクが加州大学に職を得るのに助力したが、その頃の逸話からひとつ。
クレンペラーがロスフィルを振ってブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェ氏による管弦楽編曲版を演奏したとき、オケマネがこう言ったそうだ。「なぜ人がシェーンベルクにはメロディーがないというのか分からない。あの曲はとてもメロディックだ」。

  蛇苺その蛇の語が気になりて美味と聞きつつまだ口にせず 蝶人
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