照る日曇る日第1632回
「墨汁一滴」は自力で執筆できた子規だったが、ますます病は重くなり、明治35年5月5日からの日記「病床六尺」は、口述筆記に切り替えざるを得なくなった。しかし、であるがゆえに、記述の対象は前著よりも多角的に広がったので読み応えがある。
とくに興味深いのは、歌舞伎と能に関するコラムで、舞台の構造、楽器、脚本など、後者が前者に与えた影響を具体的に論じているので面白い。また能楽社会の家元制度の封建性を難じたり、将来の能を憂いて、流派の交流混淆や、ワキ師がハヤシ方を掛け持つなどの「一人多役」の試みなどを提案しているのは、現代でも或る種の説得力を持っているようだ。
また、病床六尺に伏せり身動き一つままならぬ中で、ジョージ・ワシントンの自伝を英語で面白く読んでいるのは、中江兆民と一味違う、「死病を楽しむ境地」に達した証であろうか。
さて本書でもっとも切れ味抜群の文章は、8月24日の「お嬢さんの名は南岳艸花畫缶」で終わるコラム。そしてもっとも感動的なのは、ちょうど連載100回目に当たる明治35年5月20日の記事である。
ここで子規は、毎日の原稿を中に収める封筒の上書きについて書いている。すなわち従前ならば毎日「日本新聞編集部御中」と自ら上書していたのだが、病苦の為にそれが出来なくなったので、宛名を印刷した封筒を100枚作ってくれないかと頼んだところ、社長の陸羯南はなんと300枚を送って寄越したというのである。
できれば100回を書き続けたいと願った子規に対して、300枚を届けた陸羯南の心根に奮いたった子規は、「二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。」と書いて結ぶが、コラムはあと27回しか続かなかった。
哀しいかな、ついに梅は咲かなかったのである。
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ケアマネやスクールソーシャルワーカーがヤングケアラーの支援をするてか 蝶人