あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

マーティン・スコセッシ監督の「ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」をみて

2013-10-16 10:10:04 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.574


こないだ彼等の曲をメドレーで聴いていたら、だんだんおんなじ曲のように思えて眠くなってきたのだが、この映画をみて眼が覚めました。これは、2006年にNYブロードウエイのビーコン・シアターで行われたライヴを主な素材にした音楽ドキュメンタリー映画なんです。

音楽でいちばん大事なのは、かの吉田秀和翁に倣ってわたくし的には歌詞ですが、ストーンズはそれが良くできている。曲と詞の協同では他のバンドの追随を許さないでしょう。曲を支配しているのはもちろんキース・リチャーズのギターとチャーリー・ワッツのドラムスで、私はリンゴ・スターと同様にワッツの太鼓を高く評価しているんだよ。

さらにボーカルのミック・ジャガーは、ボーカルのみならず、ダンスとパフォーマンスが素晴らしい。この天才の肉体が滅びる時、ストーンズはたんなる岩石となるだろう。

いったい何台のキャメラを使っているのか知らないが、スコセッシのキャメラワークと照明、編集は、世のライヴ映像とは全然違う鋭い切れ味を示す。ここに切り取られた映像の中のミック・ジャガーだけがミック・ジャガーである、といいたくなるほどリアルにして幻想的だ。色即是空、リアル即幻影なのだ。

コンサートが終わってメンバーを捉えようとするキャメラに向かってスコセッシが「アップ、アッップ」と怒鳴ると、それはこの由緒ある劇場を出て夜のブロードウエイの上空を舞いあがりNYぜんたいを俯瞰する。

おお、なんと素晴らしい幕切れであることよ!




ミック・ジャガーの肉体が滅ぶ時、ストーンズはたんなる岩石となるだろう 蝶人


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田和也著「其の一日」を読んで

2013-10-15 08:58:02 | Weblog


照る日曇る日第629回


伊藤博文、大隈重信、近衛文麿、福沢諭吉、下田歌子、明治天皇など、主に明治に生きた24の著名人のある日の相貌を、仏蘭西演劇の「三一致」の処方であざやかに切り取った連作掌編小説である。同じ題名の書が鴎外にあったのではないかと思ったが、そうでもなさそうだ。


冒頭の巻では、明治2年1月27日の河竹黙阿弥が、不世出の美貌の女形、3代目澤村田之助を楽屋に訪ね、彼が舞台から落下して古釘で足を踏み抜き、医師ヘボンの施術で右脚を切断した事件を自殺未遂ではなかったかと糺す噺だが、自害しそこなって初めて芸の虜となり、片脚で花道を駆け抜ける田之助の艶姿とその真実を見破った稀代の歌舞伎作者の真骨頂がみごとに活写されている。

最後に登場する近衛文麿の「其の1日」は、昭和20年2月14日で、その10か月後に戦争犯罪の容疑をかけられて服毒自殺するこの得体のしれない政治家が、昭和天皇に向かって「万世一系のため、あらゆる敵も、あらゆる味方もすべて突き飛ばして、慌てていただきたい」と進言する姿を真に迫って描いている。

いずれの人物の場合にも、著者が膨大な史実、伝記、史料を探索渉猟するなかから、ぽろりと転がり落ちた珠玉のようなエピソードをもとに、きわめて印象的な逸話が創作されており、その虚実皮膜のあわいに瞬いている文華の精髄を、私たちは心ゆくまで楽しみながら鑑賞することができよう。

おそらくは、著者会心の一冊ではないだろうか。



        「フクイチ」を忘れたき人多し秋の風  蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本周五郎著「小説日本婦道記」を読んで

2013-10-14 08:10:36 | Weblog


「これでも詩かよ」第35番&ある晴れた日に第167回


同書の「松の花」に触発され、2013年6月6日の夜を思う詩



晴れ。風もない。だんだん暗闇が深くなってきた。
君を誘って蛍を見にゆく。

懐中電灯のあかりに照らし出されたのは、一尺くらいの長さの赤い蛇。身をよじって滑川の流れに身を潜めようとしている。

「ヤマカガシだね」と僕が言うと、
「いや、蝮だね」と、後ろからいつのまにかやってきた男が、僕らを抜き去りながら断定的にいう。

しかし、これは明らかにマムシではない。ヤマカガシも毒を持つが、さらに強い毒を持ち、近寄る敵に激しく飛びかかるマムシを、彼は実際に見たことはないのだ。

いきなり妻が私の手をつかんだ。
久しぶりに妻と手をつなぐと、その手は少女のようにちいさく、なまあたたかかった。



     闇行けばひとつふたつと蛍降る 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風立ちぬ

2013-10-13 08:50:58 | Weblog


「これでも詩かよ」第34番&ある晴れた日に第166回


Le vent se lève, il faut tenter de vivre!
風が吹いてきたね。さあ、もういっかい生き直そうじゃないの。

痩せたからだ、薄い骨に食い込むこの荷物は重いけれど、歯を食いしばって立ち上がり、目の前の地面に、新しい一歩を踏み下ろそうじゃないか。

この詩を書いた時、モンペリエの詩人ポールは、すでに五十一歳だった。

詩人ならずとも若い時には、どこかから一陣の風が吹いてきたら、なにかいいことが待っているのではないかと本当に思えたが、

五〇の坂を転げ、六〇の谷に落ちこんだら最後、台風が何回やって来たって総身に感じる何かがあるわけもない。

それでも、それゆえに、
Le vent se lève, il faut tenter de vivre!
風が吹いてきたね。さあ、もういっかい生き直そうじゃないの。

戦争をまぢかに控え、この腐った世界の未来になんの希望も見出せなくても、
それでもぼくらは、生きていかなければならないんだ。

痩せたからだ、薄い骨に食い込むこの荷物は重いけれど、歯を食いしばって立ち上がり、目の前の地面に、新しい一歩を踏み下ろそうじゃないか。

Le vent se lève, il faut tenter de vivre!
風が吹いてきたね。さあ、もういっかい生き直そうじゃないの。



曼珠沙華世界一弱き国でよし

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある国内亡命者の秘かな愉しみ

2013-10-12 09:53:27 | Weblog



「これでも詩かよ」第33番&ある晴れた日に第165回


この頃はすっかり人間嫌い、ニッポン嫌いになってしまい、その反動で草花や昆虫や動物などと馴れ親しむ機会が増えてきました。まあ国内亡命者にでもなったような気分です。

私が好きだったのは、滑川に棲んでいる天然ウナギの三郎ですが、こないだの台風18号の来襲でいつもの宿から姿を消してしまいました。恐らく今頃は、相模湾からマリアナ海溝へと長い旅に出たのでしょう。

けれども姿を消した三郎の宿のすぐ傍の土管の穴の中には、カワセミの晴子が巣を作っていて、私が「晴子や、晴子や、お前の青いドレスを見せておくれ」と声を掛けますと、「ウルルル」と鳴きながら、そのなんともいえず美しい翡翠色のドレスを見せてくれるのです。

それから私が好きなのは、近所の「太郎のお母さん」が飼っている被災地からやって来た柴犬の次郎です。彼女は以前頑丈でちょっとダックスフントに似た太郎という名前の和犬を飼っていたので、「太郎のお母さん」と呼ばれておりました。

太郎はうちの愛犬ムクと大の仲良しで、ムクが盲目になってよたよたと歩いているのを優しく見守ってくれましたが、5年ほど前に他界し、その後釜に来たのが次郎というわけです。

それからいま私が新たに好きになったのは、やはり天然ウナギの三郎の宿のあたりに最近棲みついたアオサギのサミュエルです。サミュエルは晴れた日も、曇りの日も、雨の日も、いつも自分の狩り場で、おんなじ姿勢で小魚を狙っています。

サミュエルは、以前は私が近づくと、大きな翼をにわかに広げて下流の方へ逃げましたが、この頃は、私を衛生無害な存在と認知してくれたようで、カメラを向けても逃げなくなりました。

ますます人間嫌い、ニッポン嫌いが嵩じていく私は、今日も家の傍を流れる滑川のほとりに立って、「三郎やーい、晴子やー、次郎やーい、サミュエルやーい」と声を掛けているのです。


三郎やーい、晴子やー、次郎やーい、サミュエルやーいと国内亡命者叫ぶ 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DANG-KONG

2013-10-11 09:53:52 | Weblog



「これでも詩かよ」第32番&ある晴れた日に第164回



夜、風呂の中で、何年振りかでDANG-KONGを洗いながら、思う。

キングコングのDANG-KONG、マントヒヒのDANG-KONG、ニッポンザルのDANG-KONG、そしておらっちのDANG-KONG。

DANG-KONGは男根、DANG-KONGは弾痕、DANG-KONGは断婚、そしてDANG-KONGは男魂。

男子の生きる力の根源は、おのれのDANG-KONGの生命力そのものにある、のではなかろうか。

DANG-KONG。それはちょっとした刺激でどんどんどんどん大きくなってジャックの豆の木のように勇ましく天空に向かう。

DANG-KONG。しかしそれはまた原因不明のなにかによって、あっと言う間に萎んで、突如ぐにゃりと地に垂れる。

DANG-KONG。それは歳と共に若き日の勢いを失い、二度と帰らぬ旭日青天、万象惟明の栄光を懐かしむ。

キングコングのDANG-KONG、マントヒヒのDANG-KONG、ニッポンザルのDANG-KONG、そしておらっちのDANG-KONG。

DANG-KONGは男根、DANG-KONGは弾痕、DANG-KONGは断婚、そしてDANG-KONGは男魂。

匹夫の生の喜びも悲しみも、この随意筋と不随意筋とのはざまで不穏な動きをしめす一匹のDANG-KONGの秘めたる情動と俱にある。

いまのいままで、人世の根幹は大脳前頭葉の奥底でほのかに浮かぶ抽象的な観念の表象にある、と妄想していた乃公は、それが大いなる迷妄であると、はじめて悟った。

かくて今日、わたくしの性と精と生の根拠が、このしなびた器官に横たわっていると突如電撃的にかくにんした私は、改めてそいつを愛おしく握りしめたことであった。

キングコングのDANG-KONG、マントヒヒのDANG-KONG、ニッポンザルのDANG-KONG、そしておらっちのDANG-KONG。

DANG-KONGは男根、DANG-KONGは弾痕、DANG-KONGは断婚、そしてDANG-KONGは男魂。


毒水を静かに呑むや秋の海 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独メンブラン盤「ベラ・バルトーク10枚組」を聴いて

2013-10-10 08:31:17 | Weblog

音楽千夜一夜第318回


ベラ・バルトークの作品を10枚組にした独メムブランによる10枚組の廉価版セットです。

ここにはクーベリリック指揮ロイヤルフィルのオーケストラのための協奏曲やアンセルメ指揮スイス・ロマンド、カッチエン独奏のピアノ協奏曲、フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア、メニューイン独奏のバヴァイオリン協奏曲などが各ジャンルのバランスに配慮しながら要領よく収まっている。

特筆すべきは夭折したフィレンツエ・フリッチャイの素晴らしいバトンテクニックで、それは彼がベルリン・ラジオ放響を振ってトッパー、ディスカウが歌った「青髭公の城」を聴くとよくわかる。

こんな隠れた名盤があるとは夢にも思わなかった。



世を呪い我が身を呪うか夜の蝉 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャップリン監督の「ニューヨークの王様」をみて

2013-10-09 09:36:57 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.571


 某国をクーデタで追われたチャプリン王がNYに亡命してくるが、アメリカのマスメディアに翻弄されて妻のいるパリに飛ぶまでの喜劇映画であるが、今回久しぶりに再見して私が記憶していた哀愁に満ちた主題歌がどこでも鳴らないので失望した。

彼の作曲の中で私がもっとも好んで時折口笛で吹いていた「名曲」だったのに、いったいどこへ消えてしまったのだろう。それとも私の根深いアルツハイマーのせいか。

 1952年に追放されたアメリカへの風刺がこめられた作品ではあるが、そこにはなぜか憎悪はなく、あるのは深い疲労と悲しみであるように感じられる。なんだか老いたる名優が可哀想になってくる最後の出演作品だ。



   さらばチャプリン お前の山高帽とステッキはどこへ行った 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独メンブラン盤「ジョージ・セル10枚組」をきいて

2013-10-08 09:34:07 | Weblog

音楽千夜一夜第317回


名人セルの、主に1950年代の録音を集めた独メムブランによる10枚組の廉価版セットで、ロイヤル・コンセルトヘボウやクリーブランド、ロンドンフィルなどを振ったドボルザーク、モザール、シューマン、ベートーヴェン、ハイドン、シューベルト、メンデルスゾーンなどの演奏が聴ける。

いずれからも彼独特の精巧で折り目正しい音楽が聴こえてくるが、その大半がライヴなので、スタジオ録音とは違ったその折々の感興がこぼれてくるのが好ましい。

シューマン、ハイドンも良いが、私はロベール・カサドシュを独奏者に迎えたモザールのピアノ協奏曲の24番と26番を楽しんでききました。



ジョージ・セルより秘法を伝授されしジェームズ・レヴァイン巧みにヴェルディのアリア歌わす 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤野可織著「爪と目」を読んで

2013-10-07 08:47:41 | Weblog


照る日曇る日第627回


芥川賞を受賞した「爪と目」は、ざっくり要約すれば、継母に反抗する娘がどたんばで恐るべき仕返しをするという、親の因果が子に報いるという平成版びっくり残酷話であるが、その道行自体よりも、著者独特の生理的な感受性と、登場人物の一人であるその継母を「あなた」という2人称で設定したことの違和感と意外性が際立つという奇妙な小説である。

世に行われている小説の大半は、なぜだか1人称か3人称で語られている。この小説も基本的には3人称で進行しているのだが、本来は3人称で語られるべき「継母」にだけあえて「あなた」という2人称をあえて導入したことが、この継母の性格の異様さを浮き彫りにするという効果をもたらし、それが今回の受賞につながったと思われる。

いわば瓢箪から駒の、ポール・ヴァレリーのいわゆる「方法的制覇」が、この快挙を生んだのだろう。

しかしこの作者の本領はむしろ受賞後に書かれた「しょう子さんが忘れていること」に発揮されていて、脳梗塞をおこしてリハビリ病院に入院している孫まであるしょう子さんのベッドに、夜な夜な忍び込む青年との喜びと嫌悪感が複雑に入り混じった俗情の輝きこそ、作者がいちばん描きたかったことなのだ。

恐らくこの人が世間や他人たちに対していっちょまえに空高くそびえさせている異和感と嫌悪感の壁こそ、じつは彼女が真実の愛とまじわりを芯から恋焦がれていることのあかしなのである。



           秋深し日に三百頓の汚染水 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『善悪の彼岸に』

2013-10-06 10:36:12 | Weblog


「これでも詩かよ」第31番&ある晴れた日に第163回


東方隆三世、南方軍茶利夜叉 西方大威徳、
北方金剛夜叉明王、中央大聖大動明王

真っ赤な曼珠沙崋が、美しく咲いている
善悪の彼岸に、毒々しく咲いている

衆院院選で選挙違反を犯した徳州会が、いま厳しく裁かれようとしている。
震災で市民を助けた山口組、台湾を占領した日本帝国、
地上に存在するいかなる組織も、善と悪の二つの側面を内部に秘めているのだろうか?

善悪不二、陰陽不二、浄穢不二
私の心は惑う 私の心は激しく惑う

数年前に自転車で道路下の民家の階段に転落して右手を骨折した妻。
救急車がかけつけたのは、徳州会が経営する湘南鎌倉病院だった。
この地方ではろくな病院がないので、救急車はほとんどここに患者を搬送する。

東方隆三世、南方軍茶利夜叉 西方大威徳、
北方金剛夜叉明王、中央大聖大動明王 

ここは最新型の設備と優秀なスタッフ、巨大な治療入院施設を兼ねそなえ、地元ではなくてならない大病院である。

その大病院が犯罪の巣となった。
あの親切な皮膚科の医師やリハビリ担当の笑顔の親切な看護師さんも、その犯罪に加担していたのだろうか?

善悪不二、陰陽不二、浄穢不二
私の心は惑う 私の心は激しく惑う

東方隆三世、南方軍茶利夜叉 西方大威徳、
北方金剛夜叉明王、中央大聖大動明王 

真っ赤な曼珠沙崋が、美しく咲いている
善悪の彼岸に、毒々しく咲いている


自閉症の息子が「自閉症って何?」と聞く 私が「私とは何?」と問うように 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『江戸の秋』

2013-10-05 09:30:23 | Weblog

「これでも詩かよ」第30番&茫洋物見遊山記第136回&ある晴れた日に第162回



チョンチョン、チョンチョン、チョーンと柝の音が入って、三味線がチチンと爪弾かれ、太鼓がドドドドドロンと野太い不気味な音で転がったら、もうそこは江戸の秋の深い闇だ。

西暦2003年10月3日は、10月歌舞伎公演の初日である。
午前零時、私は半蔵門の国立劇場の3階B席12列57番に座っていた。

ここは大向うの常連たちの指定席だが、隣の青年が素人のくせに一拍遅れて「高麗屋、高麗屋!」と声を掛けるのが、ちとうるさい。 

「一谷嫩軍記」の序幕「陣門」の幕が上がり、続く「組討」では熊谷次郎直実が、海の中を平家の船まで騎馬で逃げようとする平敦盛を、大声で「返せ戻せ!」と呼びとめる。

舞台中央には寄せては返す須磨の海。沖合遥かにはゆるゆる移動する三艘の平家の船。
泡立つ海に馬ごとざんぶと乗り入れ、平家の若武者を追う源氏の闘将直実の勇姿が、見事な遠近法の世界に躍動する。

やがて浜辺に戻った敦盛の首を取ろうとすれば、それはなんと直実の息子、小次郎。松本幸四郎が実の子染五郎の首を泣く泣く取るという趣向に、観客は紅い涙を絞っている。


幸四郎の「一六年は一昔。ああ夢だ、夢だ」の大嘆息で、二幕「生田森熊谷陣屋」の幕が降りると、観客はヤンヤ、ヤンヤの大拍手。

幸四郎は相変わらず喉が狭苦しく、中音部の科白がよく聞こえないのが難だが、直実役とはニンが合い、いつもながらの優等生の折り目正しい生真面目さで、最後まで背筋を伸ばして消えてゆく。

ところが「一谷」が終わったあとの「春興鏡獅子」が、じつは本日いちばんの御馳走で。

前半の女小姓、後半の獅子と染五郎は両役で渾身の踊りを披露するが、まだまだ芸の途上にあるということで、染五郎よりも彼にからむ金太郎、團子の二人の子役の可愛らしさに、満場は満足、満足。

初日ゆえに馬の引っ込みが遅れて立ち往生するなどのトラブルもあったけれど、そんなこたあどうでもよろしい。踊りの背後で奏される唄、三味線、笛、小鼓、太鼓の名人芸とアンサンブルの素晴らしさよ!

それはウイーンとベルリンとミラノのオーケストラを全部集めたよりも激しく、美しく、痛切にまた懐かしく、私の総身に響き渡るのだった。

チョンチョン、チョンチョン、チョーンと柝の音が入って、三味線がチチンと爪弾かれ、太鼓がドドドドドロンと野太い不気味な音で転がったら、もうそこは江戸の秋の深い闇だ。


◎本公演は東京国立劇場にて10月27日(日)まで公演中。 


      五輪ではバラバラ状態のわが国も台風十八号に対しては一体となれる 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「能を読む」第4巻「信行と世阿弥以後」を読んで

2013-10-04 09:54:30 | Weblog


照る日曇る日第626回


梅原猛、観世清和監修による「能を読む」シリーズの最終巻は、異類とスペクタルという副題が付けられているように、「風流能」を取り上げている。

能は観阿弥・世阿弥に代表される思弁的な問答劇である「劇能」を中心として発展してきたが、室町末期に入ると、世阿弥以後の観世信光、金春禅鳳、観世長俊らに代表される活劇チャンチャンバラバラ風の派手で歌舞伎的でもある「風流能」が人気を博するようになった。

本巻ではその信光の代表作である「安宅」「道成寺」「船弁慶」をはじめとする35作品に懇切丁寧な解説、詞章、注解、現代語訳が施されており、読むだけでその流麗な能舞台が脳裏におのずと立ち上がってくるような幻覚に襲われる。

この浩瀚な書物のちょうど真ん中へんには、あの有名な「羽衣」が置かれているが、たまたま私が、「東遊びの、数々に、東遊びの、数々に、その名も月の、色人は、三五夜中の、空にまた、満願円満、国土成就、七宝充満の、宝を降らし、国土にこれを、ほどこしたまふ」という終曲を黙読していたとき、まさしくそのくだりを、毎日毎日飽きもせず、いまから半世紀も前に、丹波の田舎町で、繰り返し繰り返し謡っていた祖父小太郎のその声音が、あざやかに蘇ってきたのだった。


          日月は短歌の日その他の日は短歌にあらざる日 蝶人



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャップリン監督の「殺人狂時代」をみて

2013-10-03 07:50:59 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.563


チャプリンが次々に見境なしに熟女を殺しては金を盗むが、とうとう悪事が発覚してギロチンに送り込まれという話ですが、原案はなんとオーソン・ウエルズだという。

確かに婦女連続殺人事件はスキャンダラスだし、殺される女性のキャラクターもそれぞれユニークで面白いのですが、犯行の動機がさっぱりわからん。30年勤めた銀行を30年の不況で解雇されたのを逆恨みして、いったい誰がこんなだいそれた犯罪にのめりこむものだろうか。

ひょっとしてチャプリンは、オーソン・ウエルズにいっぱい喰わされたまくらのではなかろうかと、思う奇妙奇天烈な映画でした。


夢の中で殺人を犯したりめざめては両の手をじっと見つめる 蝶人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小澤征爾指揮サイトウキネン管のラベル、ガーシュインを視聴して

2013-10-02 09:50:09 | Weblog


音楽千夜一夜第316回


長らく病気療養中であった小澤征爾がようやく今年の松本音楽祭に出てきて、ラベルの「子どもと魔法」とガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を振った。

 彼は昔からラベルのこの愛すべき一幕物オペラを得意としていたおり、とっくの昔に自家薬籠中のものとしていたから、いわば安全運転しているようなものだったが、特筆すべきはロラン・ペリーの演出で、みる者を忽ちにして童心に帰らせるような幻想的なイメージの展開は、やや生硬な音楽の流れを忘れさせてくれるようだった。

ないものねだりではあるが、全盛時代の指揮者がパリのオーケストラを振ったならと思わずにはいられない舞台であった。

引退したはずの大西順子トリオを担ぎ出した「ラプソディー・イン・ブルー」は、予想を裏切らないぶっつけ本番のスリリングな演奏だった。はじめは処女の如く大人しかった大西のピアノが徐々に滑らかさを取り戻し、超名人揃いのベース&ドラム共々オケに割って入り、古式蒼然たるオケを向こうに回して自在な即興の限りを脱兎の如く披露すると、小澤&サイトウキネンも得たりや応と死力を尽くす。

いずれがあやめかカキツバタ、いずれが吉野か山桜か、いずれがジャズでクラシックか、丁々発止と渡り合いながら、なんとかきゃんとかのるかそるかのフィニッシュにもつれ込んだのであーる。

幸か不幸かカデンツアが長すぎるなどいくつかの瑕瑾はあったものの、そんなことより大西と小澤がいっさいの予定調和的演奏を排し、年甲斐もなく向う見ずな爆走に駆けたところが何よりの収穫であり、ここ数年のサイトウキネンの無風状態に強烈な一石を投じたといえよう。

こんな熱いコラボレーションが出来るのなら、どうして死に損ないゾンビ集団のデュトワ&N響のかわりにこの夏のザルツブルク音楽祭に招かれなかったのかと不思議でしょうがないなあ。


   いつまでモンゴル人ばかりに名をなさしめるのかまっことだらし無き日本人力士 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする