こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

副流煙というタバコの罠

2018年12月26日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

私は40代半ばまでニコチン中毒症で、毎日朝から晩まで常習的に喫煙していた。中毒からの離脱は自力でできたけど、結構時間はかかったし、いろいろ悩み、苦労もした。なんとかタバコ無しでも生きていられるということを理解し、この10年は吸っていない。最近タバコの煙、すなわち副流煙のことが心配になってきた。こちらにもニコチン、タール、一酸化炭素ほか多数の発がん物質が含まれている。何より心配なのは副流煙のせいでニコチン中毒が生じてしまうかもしれないということ。そう、副流煙にはタバコの罠が仕掛けられているということに気がついたのだ。

タバコを常習的に吸っている人から吐き出される副流煙中のニコチンを常習的に吸わされていたら、吸わされるほうもニコチンを吸収してしまうということになる。主流煙(喫煙者が吸う煙)の3倍近くのニコチンが副流煙に含まれているそうだ。そうすれば、当然のことながらニコチン中毒に陥る可能性が高い。

「俺も吸ってみようかな?」そんな感じで、喫煙者の輪は広がっていく。もしかしたら、かつての私の友人で、私がきっかけとなった人がいるかもしれないと思うと、心が痛む。もしかすると、駅のホームで毎朝私の吐き出した煙をすわされていた人の中にそういう人がいたかもしれない。

「親父が吸ってるタバコ、面白そうだな」ということで、軽くニコチン中毒になっている中坊が吸う最初の1本は親父のタバコで、それが見つかって親父に殴られる。考えてみると無茶苦茶な話だが、昔は副流煙なんて気にもしていなかった。子供のいるところで、親は絶対にタバコを吸ってはいけない。時々、タバコの煙を子供に吹きかけている親がいるが、あれは虐待だ。

「あなたの吸っているタバコ、私も吸ってみたいな」私の周りの女性喫煙者がタバコを始めたきっかけは、付き合っている喫煙者の男性のタバコが最初だったという人が少なくない。そういう女性にとって、喫煙はかつて付き合っていた男のニコチン中毒という影をニコチン中毒(=喫煙者)という形で引きずっているということになる。物理的に別れていても、ニコチン中毒という形で昔の男が潜んでいるということになる。そんなことを問いただしても認める女性などほとんどいないだろうから、有無を言わさずやめてもらうように頼むか、そのことが我慢できなけれが別れたほうがいい。

友人、親族、恋人、なんでもいいけど、そういう身近な人が振りまく副流煙の中のニコチンにも中毒症状を発症するメカニズムが隠されている。

私は今ではニコチン中毒からはほぼ離脱できている、というかニコチンがなくても生きていられるが、一体いつどこでタバコに手を出してしまうことになるかいつも不安だ。一緒に飲んでいる人が喫煙者であったりすると、その人のタバコをもらいたくなる気持ちが起こらないわけではない。アルコールはニコチンとの親和性が高いので、副流煙中のニコチンがアルコールの力で体内に吸収され、さらにアルコールのせいで前頭葉機能が抑制されて気がでかくなってしまって、「一本ちょうだい」と言って、つい吸ってしまうということは十分起こりうるのだ。

今年の忘年会はあらかた終わったところだろうけど、年明けにだって酒を飲む機会はいくらでもあるので、気をつけないといけない。ニコチン中毒でない人(非喫煙者)は、副流煙のそばすなわち喫煙者のそばにどうやったら近づかないで済むかを考えたほうがいいだろう。

ニコチン無しでもあなたは生きている

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他人を傷つければ自分も傷つく

2018年08月27日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

他人を傷つければ自分も傷つく。

でも、他人を傷つけている人は同時に自分も傷付いていることに気がつかない。

ましてや子供はいじめが互いを傷つけているということなどわかりはしない。

そして、多くのいじめっ子はそのまま大人になるが、大人になった頃いじめ(もしくはそれを黙認していた)の記憶が蘇り、自分が深く傷ついていたことを知り、傷は心の中に深く刺さったままとなる

この前、”聲の形(こえのかたち)”というアニメ映画が教育テレビ(NHK Eテレ)で放映されていた。

ろう者の方に関わるテーマということが興味深く観た。

内容はろう者の女の子をめぐる話というよりは深刻なイジメ問題の映画だった。

いじめられる側はもちろんだけど、いじめる側も傷つき重い十字架を背負うという話で、どちらかといえば”いじめられない側”にいた私には観ていて辛くなる内容だった。

新聞にもこの時期、いじめに関する記事が多く出ている。

こちらはいじめられっ子に対する救援メッセージの色あいがつよい。

私は児童心理学者ではないので詳しいことはわからないが、子供から大人になっていく過程で、誰かをいじめをしてしまうというのは避けようがないのだろうか。

そして、自我の芽生えなど精神構造の変化が加わっているからコントロールすることも難しいのかもしれない。

誰かが憎いというわけではない、誰かほんの少し異質な存在を際立たせ、いじめないではいられないということがあるのだろうか。

いじめようという心理は大人になっても続く。

卑近な例でいえば、政治家や芸能人のゴシップは”公人”であることを大義名分としたいじめにすぎない。

まあ、いじめられることと引き換えにその場に居るとも言えるが。

今さらとはいえ、私たち大人はどうしたらいじめの軽減化に貢献できるだろう。

子供たちに直接呼びかけることはできないが、パワハラとかセクハラを減らしていくこと、そういう態度を子供たちに示すことが、その一助になるかもしれない。

背中を見せて生きる

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人を思う気持ち、もしくは想像力

2018年08月13日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

先日、鎌倉の由比ヶ浜海岸にシロナガスクジラの赤ちゃんが打ち上げられ、ニュースとなった(由比ガ浜にクジラの死体 絶滅危惧種のシロナガスクジラと判明 2018年8月6日 11時52分 テレ朝news)。赤ちゃんクジラが母親とはぐれてしまったのではないかと考えられている。この時、あるSNS上である女性が、「赤ちゃんクジラ、かわいそうにお母さんとはぐれ、さぞ淋しくて辛かったでしょう」とクジラの赤ちゃんを思いやるコメントをしていた。私は、衝撃を受けた。クジラに対してでも、こうやってその気持ちを思う、これが想像力というものかと、そして私には想像力が不足しているということを思い知らされた。

先月西日本を襲った未曾有の豪雨(平成30年7月豪雨 Wikipedia)の時に、首相以下政府の重要メンバーが宴会を開いていたことが話題となった。そこに参加していた政治家のほとんどは、このような大災害になるということを想像していなかったのだろう。毎年、西日本は梅雨が終わる頃に集中豪雨があるのは私でも知っている。そういったこととあまり縁のない東京暮らしが長くなると、何か大変なことが起こるかもしれないということも想像できなくなってしまうのだろう。想像力の欠けた人が政治家になると、苦しんでいる人のことまで思いが至らず、苦しい人は余計に苦しくなる。

人を思いやる気持ち、というのはとても深いものだ。同情であれば簡単にできるけど、思いやる、その人の気持ちになる、ということは大変なことだ。いじめについてはこれまで何度も考えてきた。それでもいまだに私は意地悪なままで、人の気持ちがわからず日々悩んでいる。どうしたらいいだろうと、妻にも相談したが、こればっかりはさすがの妻でもどうしようもないようで、匙を投げられている。話し合ってわかったこととして、原因の一つは私の育てられ方にあるようだ。妻の知り合いの教育者によると、幼児期の”お砂場教育”がとても大事らしい。ここでうまく育つと、人への思いやり、共感力が高まるようだ。私がその頃どうやって育てられたのかは知らないが、あまりよその子と遊んだ覚えはない。母がそういったことに興味がなかったのか、まだ幼かったダウン症の弟にかかりきりだったからなのかはわからない。情け無いことに、私は弟の気持ちを思いやることもできない。

おそらく、この先も私は人の気持ちのわからない、冷たい人間として生きていくだろう。でも、いつも人の気持ちを思いやるということを心がけていたら、気持ちがわからないなりに多少はわかるようになるかもしれない。人を思いやる気持ち、とか想像力というのは天性のものかもしれないが、努力すれば手にすることができるかもしれない。これからでも遅くはないはずだ、その努力をしてみたいと思う。

この子たちの気持ちも

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カジノ、私は大丈夫?

2018年06月16日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

不肖コロ健、大学生時代パチスロにハマっていた。大学近くの繁華街のパチンコ屋のパチスロにはずいぶん金をつぎ込んだ。負けが込んでいるのはわかっていても、たまに大勝ちするので、それですった金を回収しているような気になる。マイナスが月に1、2万なら遊びの範囲で許されるだろうと見積もっていたが、思い返せば半分ぐらいに過小評価していたように思う。ギャンブル依存だったといまは思うが、自分なりにコントロールできていると思い込んでいた。当時から付き合っていた妻も誘って一緒にやっていたこともあった。結婚してからもしばらく一緒にやっていたが、いつの間にかやめた。それでも、一人でふらふらとパチンコ屋に何度か入った記憶はある。

数年前、海外旅行に行ったときにカジノがあってやってみた。そこそこ勝たせてもらったが、そのあとの地獄を思い出すとあまり楽しいとは思えず、4、5千円勝っていたところでやめて、食事代に充てた。お金に色はついていないけど、賭け事で勝ったお金で食べるというのはどうも楽しくなかった。

 

昨日、カジノを含む統合型リゾート実施法案というのが衆議院内閣委委員会で採決されて、いよいよ日本にもカジノが設置されることになった。今度は、どの政治家のどのつながりの人たちが得をするのかわからないが、今までなかったものを作ろうというのだから誰かが得をするのは間違いない。この先、カジノ産業が大きくなってパチンコ屋を圧倒して、駅前の一等地から消えてくれたら、この国の景観もずいぶんよくなるだろうと思うが、カジノもパチンコも両者が共存共栄、新たに多くのギャンブル中毒者が生まれるようになっては元も子もない。それとも、パチンコ屋をカジノに移行させて国で管理しようということなのか。それならそれで悪くは無いのかもしれないが・・・。

私が大学生時代に戻ったとしたら、やっぱりカジノに行くだろうと思う。入場料が6000円とかいうのなら、まずは6000円勝つまで賭ける。次に10000円ぐらい勝ったら、往復の交通費を取るまでということで、さらにつぎ込むし、カジノ内で豪勢な食事でもと思ったらあと30000円ぐらい勝たないといけない。とんとん拍子に10万円勝ったら最初からなかったものとして8万円ぐらいつっこんで、最後にはする。すったあと取り返そうとあと、4、5万はつぎ込む。胴元からお金を貸してもらえるらしいので、それであと5万。学生だから、収入は限られているから、とんでもないことになるのは火を見るよりも明らかだ。学生でなくても、若い人はこういうのにハマりやすいから大変なことになる人は増えるのでは無いだろうか。金がどこにも無ければ人のものを盗るということになんてならないでほしい。でも、最近の犯罪の変容の仕方をみると、このさき、何がどうなって行くのか心配になる。

昔、本宮ひろ志の「俺の空」という漫画の中で主人公がとんでもない額の金をかけて見事に勝つという話があった。ギャンブラーはそういう幻想に取り憑かれて、最後には身を滅ぼす。ギャンブル依存対策なんていくら立てても無駄だ。一定数の人はギャンブル中毒になる。ある意味、中毒になって金を使ってくれる人がいなくては、ギャンブル産業そのものが成り立たない。

私にとっては、タバコと同じで、かつて依存症だった者としては、また依存症のタネが復活したようで、不安になる。私はギャンブル依存になんてならない、大丈夫、なんてことは絶対に言えない。

注意深く避ける

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飲み屋もずいぶん様変わり

2018年06月02日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

昨晩、以前私がいた病理学教室の先輩と後輩と三人で、新橋にある美味しい日本酒を揃えているお店で飲んだ。それぞれ別のところで働いていて互いの利害関係はそれほどあるとはいえない仲だけど、私が辛い時期などは力づけてくれた頼りになる仲間だ。


私たちが案内されたのは四人がけのテーブルが十個ぐらいある部屋で、4、50人程度が飲んでいたが、驚いたのは男女比で、女性6割、男性4割という具合だった。女性だけのグループもいたりして、サラリーマンの聖地新橋の飲み屋も随分変わったものだと驚いた。そういえば、先日、近所(鎌倉)であったワインの試飲会に顔を出したときも、女性が7割ぐらいいた。女性でもお酒が好きな人はたくさんいるし、楽しく飲める場があったらそういうところで心置き無く飲みたいものなのだと思った。これまで、男ばかりがそういう楽しみを独占してきたとはひどい話だ。

様変わりしたといえば、タバコの煙もほとんどない。たまたまかもしれないが、その4、50人いた中で、タバコを吸っていたのは女性一人。その彼女が吸い出すまでは、当たり前のように誰もタバコを吸っていなくて、美味しいお酒と酒肴を堪能することができた。残念だったのは、その女性一人のタバコ一本の煙が部屋中に充満して、途端におかしな匂いになってしまったこと。随分タバコを吸う人が減ったものだと実感したと同時に、お店も美味しいお酒や料理を出しておけば、客足が遠のくなんて心配をしなくても良くなるのではないかと思った。ニコチンはアルコールによって吸収効率が上がって、酒量が増えるという点で、お店にとってはいいのかもしれないが。そのテーブルでも、みんな同じペースで飲んでいるのに、タバコを吸っている彼女だけ一頭抜きん出て騒いでいたのは興味深かった。

私は土曜日も仕事があるからだけど、先輩も学会があるので朝が早いということで、9時すぎにお開き。お店を出たら、新橋駅の近くの狭い道路はサラリーマンでごった返していた。飲み屋、風俗店、その他諸々の店に出入りする客や呼び込みが入り乱れていて、カオスのような状態だった。私たちおじさん三人は無事駅までたどり着いて、機嫌よく別れた。

タバコを吸わなくてもお酒はうまい

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心の闇の生み出す快感

2018年02月06日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

このまえ観た映画「スターウォーズ/最後のジェダイ」が拍子抜けだったのは、人の心の闇、ダークサイドとこれに対抗するライトサイドの戦いがほとんど描かれていなくて、ただのSFアクション映画となっていたからかもしれないと思った。あれなら、銀河英雄伝説の宇宙海戦の方がよほどいい。スターウォーズ、アナキンがダース・ベイダーになってしまった理由が愛する人のため、というあたりから心の闇の描かれ方が甘くなっているような気がする。それはさておき、私、コロ健の心の中にも闇がある。それも、とっても深くてドロドロしたもの。嫉妬、焦り、不安、怒り、いろいろな種類の心の闇がとめどもなく溢れてくる。自分でそれらを自覚すること自体不愉快になり、余計にそれらの感情が増幅される。昨日も、そのことで妻と言い合いになったりと、ここのところそんなことで心がざわつくことが多い。

そんな時、かつての同僚が「怒るのって、気持ちいい」と言っていたのを思い出した。怒りをコントロールすることは難しい、だからその場から立ち去るのだと言っていた。心の闇、といっても実体はそんな、気持ちいい、自分にとって楽しいものなのかもしれない。ある意味、中毒症状のようなものだ。”心の闇”にもなんらかの”快感物質”が分泌される仕組みがあるのだろう。”心の中の闇”を増幅させたら、快感物質が分泌されるから余計にそれを増幅させる。でも、なんとか眠ってしまえば、それらは忘れてしまう。これってタバコと同じだ。タバコの中毒症状、すなわちニコチン中毒の禁断症状はとても弱いもので、中毒とは意識できないほどだし、眠ってしまえば症状はほとんど出てこないから、朝までぐっすり眠ることができる。


快感物質、といってもヒトの体の中にある各種ホルモンは全て知り尽くされている。だから、なんらかの物質が単体で出てくるから、というよりは、ノルアドレナリンのほかに、アドレナリン、セロトニン、オキシトシンとかのホルモンのバランスが変化することで心の闇が出現するのだろう。仕組みがわかれば解決は簡単だというほどではないけれど、心の闇が快感に結びつくことを知ってしまえば、なんとなくバカバカしくなる。人を恨むことが結局は自分を慰めているだけ、正当化して存在を確かめるだけのことでしかないと自覚すると、自分の存在がとても哀れに思えてくる。怒りっぽい人なんて、いつも快感物質を出して悦に入っているだけなのかもしれない。まるで、タバコが目に沁みるとかでしかめっ面をしているのと同じだ。

映画スターウォーズの中では「フォースのバランスが崩れる」という言い回しがあったけれど、これと同じようなことが心の中で起こっているといえる。だから、あの映画は一人一人の心の中の葛藤を壮大な宇宙に置き換えているのだろうと思える。NHKのテレビアニメ「3月のライオン」で、ヒロインが猛烈ないじめにあう話がある。いじめる側は心の闇、ダークサイドが猛烈に増幅している状態が連続していて、快感物質が出まくって、楽しくて制御が効かなくなっている。でも、どこかで心の闇に対抗する思いが残っていて、いじめを止めるきっかけを求めてもがている。アニメではやがてライトサイドが勝利していじめは収束する。禁断症状に打ち勝ったのだ。でも、無理やりやめさせられたニコチン中毒はしばしば再発して、禁煙は失敗するから、いじめもまたどこかで起こるかもしれない。私自身の中の心の闇もこんな仕組みで動いているのだろう。少しでも隙があれば、大きくなろうとする私の心の中の闇を、ライトサイドが抑えている。このブログは、私の心の中のライトサイドを強くするためにとても大事なものであるのは確かだ。

心の闇に立ち向かうには勇気が要る

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悪いことは重なるもので、最後には

2017年08月20日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

夏の暑さが懐かしいと思いながらも、昨夜の大雨のおかげで気温が下がって涼しくなってよかったと喜んでいる自分がいる。
犬の散歩で近所をぐるっと一回りしてから、出かけた。今日は研究会議のため名古屋に出張だ。

と、ここまでは調子良かったのだけど、それはここまで。

そもそも出かける時、私は随分不機嫌そうな顔をしていたらしくて、妻に「そんな顔で行ったりしたら、周りの人に嫌われちゃうわよ!」とたしなめられた。

これはまずいと、作り笑いでもいいだろうと笑顔を作りながら出かけることにした。

ところが、駅に着いて、おとといネットで予約した切符を受け取ろうとしたら、券売機からは帰りの切符しか出てこない。一体どうしたことかと、確認のメールを読み直したら、なんとネットでは一昨日の切符を予約していた。
なんということだ。名古屋までの新幹線代を無駄にしてしまった。乗らなかったので、乗車券代は引かれずに済んだ。まあ、こういうこともあるし、タバコ10日分程度(400円×1.3×10)だと思えば、タバコをやめた分をこちらに払ったと考えたらあまり気にならない。それに今日の帰りの切符はある。まるまる往復分を無駄にしたのではないので良しとしよう。
それにしても、ネットでの予約をし損ねるなんて、少し前までは考えられなかったような失敗だ。

色々と細かいミスが増えている。歳のせいだとは思いたくないけど、無理は禁物だとは思う。

会議は無事に終わり、他の先生方とも和やかにお話ができた。本来業務はオーケーだったということで、まあ、良かったといえば良かった。

のだけど、そのあとも若干、ミスしてしまった。

会議は、名古屋城の近くであったので、少しだ時間が余ったので、名古屋城を見て帰ろうと思って近づいたら、入り口がある方とは逆に回ってしまった。

途中で、お堀を越えることのできるところはなくて、広いお城をぐるっと回ることに。炎天下の名古屋、5分の4周してやっと正面入り口にたどり着いたけど、その時はすでに汗だく。新幹線の時間も迫ってきて、城内見物は諦め、地下鉄で名古屋駅に向かった。

ここまでは、まずまずの運の悪さだったのだが、このあととどめを刺された。

少しでも早い列車で帰ろうと、座席の変更をした。

運よく、座席が見つかって変更した。普段なら、窓口でするのだけど、自動でできるシステムがあるというので、それを使って自分でやってみることにしたのが運の尽きだった。

乗ってみると、車両内が茶色っぽくで、心なしかネトネトしている。それに、タバコの匂いがひどい。喫煙デッキが近いのか。ビジネスホテルの禁煙フロアに泊まったはずだったのに、隣の部屋からタバコの匂いが漏れてくるような、そんな気分だ。

不思議に思いながら網棚に荷物を置いていたら、後ろの座席のおっさんがうまそうにタバコをプカーッと吸っている。そして、網棚の上には空気清浄機がある。一体、どういうことだ?この車両は一体なんなのだ?

車内を見回すと特に、このおっさんが悪いことをしているという風はない。みんな普通にしている。

背もたれの案内表示をみると、私が乗った15号車には禁煙マークが書かれていない。おかしいと思って切符を見たら喫煙マークが書いてある。

間違えて、喫煙車両の座席に変更してしまったようだ。

灰皿も無いのに、どうやって吸うのだろうと思ったら、しっかり肘掛のところについていた。そうだった、喫煙車両ってこうだった。まだ、ニコチン中毒だった十数年前にタイムトリップした気になった。

この記事を書きながら、乗っている喫煙車両内を見渡すと、子供がいないのでとても静かだ。車内はうっすらとかすみ、時折、のろしのようにタバコの煙が立ち上る。

目はしょぼしょぼするし、喉は痛い、頭痛もする。髪の毛の一本一本にタールが染み込んでくるのがわかる。新幹線を降りた頃には完全にスモーカーの体臭だ。お土産の袋に匂いがつかないで欲しいのだが、無理だろう。副流煙の害がよくわかる。

そういえば、タバコを吸っていた頃、私は喫煙車両に座っていた。昔はもっと喫煙車両も多かった(その後、喫煙デッキに近い禁煙車両を選ぶようにした)。そこでちょうど、今日の私のように間違えて喫煙車両に乗ってしまった初老の女性がいたのを思い出した。見るからに、間違えて乗ってしまったという風で、今思えば気の毒だったけど、その時は「そんな顔したって、こっちは喫煙車両をわざわざ選んで座っているんですから遠慮せずにタバコを吸いますね」という感じで、ぷかぷかやっていた。その時のバチが今頃になって当たったというわけでは無いだろうが、因果応報という気分はする。確か、彼女は車掌に交渉して禁煙車両に空席を見つけてもらって移動したはずだったが、お盆休暇の終わりの日曜の上りの新幹線で混んでいるというのと、タバコが非喫煙者にとってどれほど暴力的でひどい代物であるかを思い知ろうと、私はこのまま乗り続けることにした。

ちょうど、名古屋で乗ってから一時間近く経ったところで、多くの人がニコチン切れになってきたようで、タバコに火を点ける人が増えてきた。煙がモウモウと立ち込める居酒屋を思い出す。みんなお互いに辛いだろうに、中毒症状がすぐに、いつでも緩和できることを確保することの方が、最優先事項となっている。

ニコチン中毒に一度なると、完全離脱は無理だ。今でも中毒の再発が怖いと思うことがある。でも、今日のこれでは喫煙者に戻ろうという気には到底ならないので、これはこれでよかったのかもしれない。

あとは、網棚に載せたお土産を忘れずに降り、無事家までたどり着けたらそれで上出来としよう。

これを苦行というべきか

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PPDはタバコの数え方

2017年07月27日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル
診断申込書にタバコを3PPDって書いてあるんだけど、なんのことだろう、先生知ってる?

と、タバコを吸わない同僚病理医が、横で仕事をしていた若い病理医に尋ねている。

 元喫煙者の私にとっても初耳。聞き耳を立てていたら、その若い先生がすぐに答えた。

   ああ、それって、Pack per Dayです。

一日にタバコを何パック吸っているかっていうので、最近、呼吸器(内科・外科)の先生たち、よく使っていますよ

   へぇー、そうなんだ。

で、そのタバコ1パックって、何本なの?

 と、タバコを吸わない年長の病理医がさらに尋ねた。

あれ?タバコって、1パック何本だろう?10本かな?

なんだ、タバコの本数も知らないのか、と、タバコなんて一度も吸ったことのなさそうな二人のことを内心バカにしながら、元喫煙者の私が登場した。

1パックは基本的に20本ですね。だから、3パックだと60本。

3PPDって一日60本だから、結構な本数ですね。

でも、その(呼吸器の)医者もどうだろう。だって、ショッポ(ショートホープ)なら一箱10本だし、缶ピー(缶入りピース)なら40本だったりするし、種類によって違うから、やっぱり本数の方が正しいですよね。

などと、1.5PPD喫煙者だった頃の反動なのだろうか、タバコを吸わない人たちに向かってどうでもいいうんちくというか、喫煙者同士でしかウケない話をひとしきり話した。

あっけにとられている二人の顔に気がつき、恥ずかしくなって話はそこで切り上げた。

こんなこと知っていても、喫煙と無関係に生きていたら、普段の社会生活にはまったく役に立たない。

私はいまだにタバコに心が囚われているのだと知り愕然ともした。

ニコチン中毒は死ぬまで続くのだ。

 

それはさておき、PPDとは面白い数え方だと思った。

私が喫煙者だった頃には無かった(と思う)。一日何点何パックなどと端数が出たら少し面倒だけど、大まかな本数は一日何パック消費するかの方が概数を掴みやすい。吸っている方も、本数だと割り引いて申告してしまうけど、パック数だとすぐに出る。「1パックから2パックかな?」なんていうときは、40本近く、いやそれ以上は吸っている。

ニコチンの血中半減期がおよそ一時間。

そこで中毒症状が出てくるから一日20本というのはよく計算された本数で、それは現在も維持しているようだ。

喫煙者はニコチンによって行動までもがコントロールされている。

若い世代がタバコについての一般的な知識がないということには驚いた。

周りに喫煙者がほとんどいないということなのだろう。

喫煙を開始するきっかけは、男性であれば親や友人が吸っているからそれをもらって、女性の場合付き合っている男が吸っていてそれをもらって、ということが多い。

ニコチン中毒は連鎖して広がっていく。

今タバコを吸っている人が禁煙運動家を恨むのは筋違いで、自分にタバコを教えた人を恨んだ方がいい。

一人が中毒から抜け出せば(タバコを吸わなくなったら)、五十人は中毒にならずに済む。

問題は受動喫煙だけではない。

ニコチン中毒は伝染病と同じ!

 

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自分が、もしそうだとしたら

2016年09月22日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

例えば、雨の日。

傘を持ったら、手は1本しか使えない。では、最初から手が1本しか使えなかったらどうしよう。

車いすを自分で操っていたら、傘をさすことはできない。いったい、どうしたらいいのだろう。

目が不自由だったら、大きな水たまりも見えない。白杖も役には立たないだろう。

知的障害があったら、雨が体の熱を奪うことがわからず、歩いて出て行ってしまうかもしれない。そして風邪をひいてしまうかもしれない。

 

私は、そういうことを一生懸命考えただろうか。

体のいろんなところが、若い頃よりも自由にならなくなってきて、やっと考えるようになっただけかもしれない。

 

毎日、病気で困っている人の役に立ちたいと思って仕事をしているつもりでいたが、こんなことではだめだと思う。

 

 人のことを言う前に、まずは自分

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おもてなしの気持ちとバリアフリー

2016年09月21日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

先日の公開シンポジウムにいらした患者さんに付き添っていた人が、「東京はエレベーターが少なくて困りました」とこぼしていた。車椅子で移動するには東京はずいぶん不便なようだ。実際、私も都内での電車の乗り換えには苦労する。これが身体が不自由だったりしたらとても大変なのはよくわかる。
でも、そのことを口にしてもらうまではあまりそのことについて考えたことはなかった。




ちょうど、パラリンピックの開催中でもあったので少し考えた。パラリンピックの選手たちが日本に帰ってきた時、こんな環境でどうやって歓迎したらいいのだろう。なんとかお世話をすることはできるだろう、でも、それだけだろうか。
物理的なバリアフリーはなんとかなっても、心のバリアフリーはできているか?




障害を持った子供を育てる人に向かって、「無駄なことをするな」という人がいるそうだ。そこには意地悪な気持ちしかない。
こういう人は、ほんの一握りであってほしい。

 自分のことを考えて

 

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いろんな訳があるのだろうけど

2016年09月20日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

先日、電車で私の横に座ったお母さん、ごく普通の20代に見える。乳母車に赤ちゃん一人とそのお姉ちゃんの2人を連れていた。だが、私の隣りに座ってしばらくしたところで、かんぴょう巻きと納豆巻の入ったプラスチックパックを取り出し、パックのフタに醤油をいれ、それをつけながら2人に食べさせ始めた。前後に動く乳母車を足で押さえながら、少々子供が嫌がっても口に押し込んで、5分ほどで平らげさせていた。

よの中人それぞれだから、まあ、いいっちゃいい。電車の中で物を食べたり、食べさせたりしてはいけないという規則はない。食るのが悪いのなら、電車に乗っている酔っぱらいはその何十倍も悪いので私など極悪人になってしまう。それでも、そんな親子の姿を横目でみながら、「お子さんたちの夕食はこれで終わりですか?」と、そのお母さんに聞きたくもなった。

でも、人それぞれ、何かをするときは、想像もつかない事情があるものだ。たとえば、これが私だったとして、仕事があり、二人をどこかに預けるとする。その前に食事を済ませておく必要があって、家で食べさせて出たかったけど、食べさせる物の用意がたまたま無く、などということだった賭したらどうするだろう。

やっぱり、食べさせてしまうだろうけど、そんなことにならないように、もう少し準備するように気をつけることにする。

 例えばの話

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すべてを台無しにする匂い

2016年07月10日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

夏の暑さがやってきて、犬の散歩も早く出る。6時過ぎになってしまったけど、昨晩の大雨のおかげで、少しだけ空気はひんやりしていた。

昨日、大雨の中、お祭りが行われたという話を聞いたけど、神社の前を歩いたら、大いににぎわったのが嘘のように静かだった。

そのとき、私たちの前を自転車がすっと通り過ぎていった。あの匂いとともに。

そう、タバコの匂い。臭いなー、と思いながらその自転車と同じ方向に歩いていったら、いつまでたってもその匂いが残っている。タバコの匂いという弾幕を張られているような状態では、朝の散歩も台なしだ。

あきらめて、道を変えることにした。

タバコは吸うのは、すう人の勝手だけど、周りにはタバコの匂いが苦手な人がいるということを忘れないでほしい。夕方も、買い物に出かけたら、自分の店の前の通りで煙草を吸っている人がいた。投票所に向かうときにも、煙草を吸いながら原付に乗っている人に追い抜かされた。

それぞれの人がどういうつもりでいるのか、元喫煙者としてはよくわかる。ニコチンが切れたときに吸いたい。それは、周りの人には関係ない。自分の中毒症状を解決するのが最優先だ。ああ、あの人も、この人もニコチン切れなんだとわかる。そして、自分がどれほど周りを台無しにしているか気づいていないことも。

 わかってくれないかな、やっぱり無理だろうな

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酒が酒を飲む

2015年08月14日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

先日、ちょっと飲みすぎたのを反省していたら、こんなことわざがあることを知った。

『酒が酒を飲む』飲めば飲むほど酒を飲むのが止まらなくなって余計に飲んでしまうといった意味だろう。あまりに、的を射た表現で言葉を失った。

これまで、どれほど多くの人が酒のせいで人生を失ってきたのだろうかと思うと、あらためてその怖さを感じる。

酒の害でもっとも理不尽なのが交通事故。被害者のご冥福を心より祈るが、加害者にしても悲劇としかいいようがない。

自動車さえなければ起こらなかったことで、お酒の神様も人間がこんな機械を生み出すとは想定していなかったのだろう。人間誰しも、しらふのときであれば、まさか自分が飲酒運転で交通事故を引き起こし、人の命を奪うなど露にも思わないだろう。

事故を起こしたのち、酔いがさめたときの後悔といったらどうだろうか。いつまでも無くならない飲酒運転にまつわる報道を見聞きするたび、悲しい気持ちとなる。

酒の害でよく見るのが、アルハラ。アルコールハラスメントとして定着しつつあるが、要するにこれ、酒にまつわるトラブルすべてが含まれている。

これまた、翌朝後悔することばかりだ。けんか、言葉の暴力、セクハラ、大なり小なりなんでも派生して出てくる。私は飲酒運転をしたことはないが、ほかのことは、自信がない。皆と一緒に上手に酒が飲めるようになりたいものだ。

飲み会などには参加しないで家飲みだけで済ませていればいいということになるのだろうが、節度があればみんなで飲むのはこの上なく楽しい。それに家で飲む時だって同じく節度は必要だ。何でもかんでもだめといっても、いいことはない。

 

どこにリミッターを置いて、どう上手に飲んだらいいのか。いつまでたっても落としどころは見つからない。

 

次はセーブできました
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お酒の飲み方

2015年07月23日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

東大の学生がコンパで飲みすぎ、急性アルコール中毒で亡くなり、その遺族が一緒に飲んでいた学生たちを提訴した。

まず、亡くなった学生のご冥福を祈る。

楽しいはずの飲み会が、人の死に結びつく危険性をはらんでいる。

まったく矛盾している。

誰かが飲みすぎて、つぶれて寝てしまう。自分たちも酔っ払っていて、少々眠い。そうなると、寝ているのだか、昏睡なのかわからない。

しばらく休ませておいたら復活してくるだろうと思っているうち気がついたら亡くなっていた。

なんともやりきれない。

ここで私の昔の馬鹿話をしても仕方ないし、飲みすぎて死ぬかと思ったことがあるのは私だけではあるまい。こと酒に関して、一度たりとも酔ったことなど無く、偉そうなことが言える人間などほとんどいないのではないか。

 

だがせめて、若い人にどうしたら上手に酒を飲めるようになるかを教えることはできないだろうか。

飲酒は20歳からとなっているのを25歳からにするとか。賭け事と一緒で学生は飲んじゃダメ、とか。そんなふうにしたらどうだろう。

そんなこといっても、無理なのはわかりきっているし、学生のうちに酒の飲み方を少しずつ覚えるというのも大事。

酒は飲んでも飲まれるな。たとえ飲まれても、命を落とすほどは飲まない。

そして、いつもまわりの人の様子に気をつけていよう。わかりきっているのだけど難しい。

 

私を助けてくれた優しい仲間達に感謝
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最近あった交通事故から思うこと

2015年06月24日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

最近あった3つの交通事故。

一つめは、まだ捜査段階なのかもしれないのでわかったようなことは言えないが、北海道砂川市の一家五人が死傷したいたましい事故。飲酒運転の車が猛スピードで赤信号を無視して交差点に入り、一家の車を吹き飛ばしたらしい。これほど悲惨な事故、最近では聞いたことがない。交通事故は起こしたくて起こすわけではないというが、これは起こそうと思って起こした事故といわれても言い逃れできまい。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

 

二つめの事故は、都内のターミナル駅前で私が目撃したもの。私が横断歩道を渡り終え、歩道を歩き始めたら、車道を走って来る人がいる。私がたった今渡り終えた信号はチカチカし始めていた。と、突然車道に停まっていた車のドアが開いて、走って来た人の行く手を阻んだ。その人はドアにぶつかって転んでしまった。転ばされてしまったその人は車に向かって何か言っていたが、人の諍いはみたくなく、その場を立ち去った。目撃者としてそこにいるべきだっただろうか。さて、この場合、どちらが悪いのだろう。いくら車道とはいえ、やはり安全確認をせずにドアを開けたほうに非があるように思える。

転んだ人が大怪我しなくてよかった。

 最後は交通事故とはいえないかもしれないが、スピード超過でオービスを光らせて、それを動画投稿サイトにアップしたという男性のこと。何かしたいということに、確固たる動機は必要ない。急に思いたったのだろう。いくらそれがばかばかしいものでも、その人にはそれなりの価値があったに違いない。だが、道路にはほかの車が走っている。昔、第三京浜で200キロ以上で走る二台の車に両脇から追い越されてすごく怖かった思いをしたことがある。スピード超過は、自分と覆面パトカー、自分とネズミ獲り、オービスみたいなつもりでいる人が多いかもしれないが、ほかの車の走行にも影響を与えるということを知っておかなくてはいけない。ちなみに、件の二台、しばらく走っていたら制限速度以下で仲良く走っていた。一台は大学生らしき若者が運転していて、もう一台は赤灯を回していた覆面だった。

 車を運転していると、みんな見事に走らせているものだと驚く。高速道路など特にそう感じる。ある意味、シンクロしている訳で、素晴らしいことだ。それでもほんの数人のルール違反、一瞬の気の緩みが事故を招く。

もらい事故もあるし、自分が加害者になることもある。

さっきも、住宅街を歩いていたら、猛スピードで車が横を走り抜けていった。まず、私がそんなことをしないように気をつけたい。

自転車も安全運転で 
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