公衆の中で、人々が周囲を完全に気にしなくなったのは、ソニーのウォークマンの出現に始まる。
人はずいぶん以前から、視覚を限定することによって個の世界に入るということをしていた。
電車内で、公園で、本に没頭すれば、自分だけがその世界に入ることができた。
でも、聴覚をふさぐことはできないできなかった。耳栓をしても音は入ってくる。暗闇の中でも、音だけは聞こえていた。だから、完全な個の世界というものは存在しなかった。
だが、ウォークマンの出現で個の世界が出現した。
ウォークマンは、耳栓をしても塞ぐことのできない周囲の音を遮断するために、耳から好きな音を送り込んだ。そして、周囲との断絶が作り上げられた。こうして、人々は公衆の中での個を得た。自分だけの世界。
音楽を聞きながら、本、マンガ、新聞を読めば、完全に自分だけの世界を作ることができる。
しばらく、それが続いた。
人々は、公衆の中で周囲を気にすることが徐々に減っていった。私もそうだった。高校生の頃出現したウォークマンを、電車内で大音量で聞いていた。その期間が20年ぐらい続いた。ウォークマンは小型化され、カセットテープ、CD、MDなどいろいろなものができた。iTuneの出現は驚きだったが、それも媒体の変化に過ぎない。
やがて、携帯ゲーム機が出現し、電車内でもこれに没頭する人が増えた。
これで、個の世界は完成したと思っていたのだが、まだ完成はしていなかった。
次に出現したのは携帯電話だった。それもメール。口を開いてしゃべる代わりに、指でしゃべるという方法を獲得した。
耳にイヤホン、手(目+口)に携帯となった。目の前の他人は、当たり前だが関係ない。それよりも遠くにいる仲間の方が大切である。これで、個の世界はほぼ完成した。
口を開けて相手もいないのにしゃべるのは今のところ間抜けに見える。しばらくは、この方式が続くのではないだろうか。
携帯はネットと融合して、スマートフォンになった。今では電車に乗っている人の半分はスマホをいじっている。
ゲームに没頭している人はもちろんそうだが、メール、FB、ブログいろいろな方法で情報交流をしている人もいる。
無数の個が、集まっている世界。
今まではそんな当たり前のことに気がついていなかったが、実社会はそのようなところだ。この様な機器の出現により、そのことが鮮明になった、ともいえる。
人はずいぶん以前から、視覚を限定することによって個の世界に入るということをしていた。
電車内で、公園で、本に没頭すれば、自分だけがその世界に入ることができた。
でも、聴覚をふさぐことはできないできなかった。耳栓をしても音は入ってくる。暗闇の中でも、音だけは聞こえていた。だから、完全な個の世界というものは存在しなかった。
だが、ウォークマンの出現で個の世界が出現した。
ウォークマンは、耳栓をしても塞ぐことのできない周囲の音を遮断するために、耳から好きな音を送り込んだ。そして、周囲との断絶が作り上げられた。こうして、人々は公衆の中での個を得た。自分だけの世界。
音楽を聞きながら、本、マンガ、新聞を読めば、完全に自分だけの世界を作ることができる。
しばらく、それが続いた。
人々は、公衆の中で周囲を気にすることが徐々に減っていった。私もそうだった。高校生の頃出現したウォークマンを、電車内で大音量で聞いていた。その期間が20年ぐらい続いた。ウォークマンは小型化され、カセットテープ、CD、MDなどいろいろなものができた。iTuneの出現は驚きだったが、それも媒体の変化に過ぎない。
やがて、携帯ゲーム機が出現し、電車内でもこれに没頭する人が増えた。
これで、個の世界は完成したと思っていたのだが、まだ完成はしていなかった。
次に出現したのは携帯電話だった。それもメール。口を開いてしゃべる代わりに、指でしゃべるという方法を獲得した。
耳にイヤホン、手(目+口)に携帯となった。目の前の他人は、当たり前だが関係ない。それよりも遠くにいる仲間の方が大切である。これで、個の世界はほぼ完成した。
口を開けて相手もいないのにしゃべるのは今のところ間抜けに見える。しばらくは、この方式が続くのではないだろうか。
携帯はネットと融合して、スマートフォンになった。今では電車に乗っている人の半分はスマホをいじっている。
ゲームに没頭している人はもちろんそうだが、メール、FB、ブログいろいろな方法で情報交流をしている人もいる。
無数の個が、集まっている世界。
今まではそんな当たり前のことに気がついていなかったが、実社会はそのようなところだ。この様な機器の出現により、そのことが鮮明になった、ともいえる。