月曜日から再開した読書。
まずは9月に中断していたレ・ミゼラブルの最終巻(5/5)を開いた。
読書メーターを見直すと、4巻を読み終えたのが8月で、かれこれ3ヶ月のあいだ小説とかそういった類いの読み物には一切触れていなかったようだ。
もちろん、新聞や雑誌のコラム、エッセイ、ブログでも作家ブロガーさんのそういったものを読んでいたが、そもそも本は紙で読むのが好きな私にとって、ページをめくる感触に代わりうるものはない。
そのレ・ミゼラブルだが、3ヶ月も放っておいたので、物語の筋はすっかり忘れていただろうと思っていたが、案外覚えていた。
私のこの年になっての短期記憶ははそう馬鹿にしたものではなさそうだ。
この有名な物語はフランス革命後に民衆が自由と権利を勝ち取っていく過程を描いた群像小説であり、ユゴーの思いが詰まっていて、出版されてからの100年以上のあいだ、世界中の多くの人に支持されている。
そんな小説だからご存じの方は多いと思うし、とらえ方もいろいろなはずだ。
今の時代に生きる私には、この世界のヨーロッパ民主主義、米国民主主義、日本の民主主義と中国共産党の対峙する理由がよく分かるという意味で大変興味深い。
クライマックスとなる4巻、5巻にはパリでの民衆の暴動が描かれている。
暴徒の指導者であるアンジョルラスという若者が行った演説に感銘を受けたのでその一部を書き留めておきたい。
なお、ネタバレにはならないので未読の方もご安心ください。
「市民諸君、諸君は未来を想像しているか?・・・・・・・・・平等とは、・・同じ高さの植物をさすのではない。
・・・・・・政治上では、すべての投票が同じ重みを持つこと、宗教上では、すべての良心が同じ権利を持つことである。
・・・・・・・・同等の学校から平等な社会が生まれる。
・・・・・・・市民諸君、十九世紀は偉大だが、二十世紀は幸福になるだろう。
そのころは、もう・・・・・・征服や、侵略や、武力による各国の争いや、・・・・・・飢えも、搾取も、貧苦のための売春も、失業による悲惨も・・・恐れる必要は無くなるであろう。(以下略)。」(新潮文庫 佐藤朔訳 ユゴー レ・ミゼラブル (五))
文庫本では5ページに及ぶ長広舌である。
コロナ対策のマスクの強制をヨーロッパの人間はなぜあそこまで拒絶するのかが、この物語を読んできてやっとわかった。
それはその一部でも、たとえ一時的であるにしても公権力に自らの権利を委ねてしまったら何が起こるかを彼らはよく知っているに違いない。
また、アメリカ人、とくに共和党支持者に多いようだ、が嫌がるのは、自由が侵害されるという観点からで権利意識の質は若干異なるが、やはり自分たちで築き上げてきた価値観だ。
一方、中国にも中国共産党の指導に基づく民主主義、すなわち"中国的民主主義”があるそうだが、そもそも民主主義とはお上が作ることなのだろうか?
それはさておき、先の大戦での敗北とともに米国によって"移植"された民主主義を日本人はうまい具合にアレンジしてきた。
でも日本人には、お上が言うことに従うばかりで自主性はあまりない。
ルールとは上に決めてもらったことだけで、自主的なルールというか規範というのは、特に最近失われつつある。
それは高度成長期を経て、世界のトップに立った途端、精神的、文化的に進歩することを忘れ、平成の30年間のうちに、"いい加減"がまかり通る並の国となってしまったのを見れば一目瞭然だろう。
マスクに限らず、改憲論議にしてもその先に何があるのかが、国民的関心事となっていない。
政治家はそのことを皆に分かってもらうことに心を砕くべき時だ。
さて、話をレ・ミゼラブルに戻すと、残念ながら、アンジョルラスの思い描いた、まともだけれどもささやかな幸福は二十一世紀になっても一向に見えてこないどころか、その萌芽すら無い。
それでも、私たち一人一人がこの国の未来、世界の未来を考えていく努力を怠ってはならない。
打ったところがけっこう痛い