軍事依存経済 武器生産再開の起源① 米のアジア戦略に追随
第2次世界大戦後、政府が引き起こした戦争の惨禍を反省し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)安全と生存を守ると宣言した日本は、米国の政策転換によって再軍備の道へと急旋回しました。このとき、米国に「衷心からの感謝」をささげたのが日本の軍需産業でした。財界が当時まとめた文書は、米国につき従う日本の異常性の起源を生々しく記録しています。
1946年8月に発足した経済団体連合会(経団連)は、朝鮮戦争(50年勃発、53年休戦)に伴う「米軍特需」に対応するため、52年に防衛生産委員会を立ち上げました。同会が64年に発行した『防衛生産委員会十年史』(『十年史』)は、一度解体された日本の軍需産業が復活を遂げるいきさつを、当事者の言葉で子細に記述しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/18/c3774a56a1e866f738e914687a3e27d2.jpg)
経団連会館=東京都千代田区
非軍事化を論難
戦後、日本は実質的に米国の単独占領のもとに置かれました。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の上部機構は米国の組織であり、もっぱら米国の国策に沿って占領政策を行いました。
終戦直後の米国の対日政策は、日本経済の徹底した「非軍事化」を基調としました。日本から軍国主義を永久に除去することを求め、「再軍備を可能にするような産業は許されない」と規定したポツダム宣言(45年8月14日に日本受諾)に合致する政策でした。
この政策を振り返り、『十年史』は激しく論難しました。
「基礎産業部門に対してすら、苛酷きわまる制限措置を課することをきめ、ついに日本経済の半永久的な弱体化政策にまで移行するに至った」
武器生産を担当する国内唯一の産業団体として53年に発足した日本兵器工業会は、さらにあけすけでした。61年に発行した『日本の防衛産業』で、戦時中の武器生産への無反省ぶりをあらわにしたのです。
「過去80年間、国をあげて営々と築きあげた陸・海軍の軍事力は、一片の命令で容赦なくうち砕かれた。この実情を眼前に眺めた国民の胸中には、これから何年たったら昔の姿にかえるであろうかと、悲愁の感がこみあげた」
“反共の防壁”に
しかし米国はまもなく、日本をアジア戦略の軍事拠点とする政策に転じました。ソ連との対立激化や中国革命の前進が背景にありました。中国共産党が内戦に勝利する見通しが濃厚となり、中国国民党政権を米国の同盟者として育成する政策が破綻したのです。
48年1月、ロイヤル米陸軍長官は日本の経済的自立をはかって「新たな全体主義戦争の脅威に対する防壁の役目」を果たさせると演説しました。
日本を極東における“反共の防壁”にするという意思表示でした。ポツダム宣言と日本国憲法を公然と踏み破る道でした。
日本の財界は進んで米国に追随しました。経団連防衛生産委員会の千賀鉄也事務局長(当時)が、そのころの財界を覆っていた気分を語っています。
「国際的な動きからいえば、中国の革命があり、ソ連はご承知のような(『社会主義』を名乗る)状態です。加えて朝鮮半島が二つに分かれるというふうな問題にまで発展したわけです」
「もうアメリカしかないということですよ」(エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言三』)
(つづく)(8回連載です)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年4月27日付掲載
日本の軍需産業の復活。それはアメリカの要請でした。
これこそ、アメリカからの押し付け軍拡。
第2次世界大戦後、政府が引き起こした戦争の惨禍を反省し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)安全と生存を守ると宣言した日本は、米国の政策転換によって再軍備の道へと急旋回しました。このとき、米国に「衷心からの感謝」をささげたのが日本の軍需産業でした。財界が当時まとめた文書は、米国につき従う日本の異常性の起源を生々しく記録しています。
1946年8月に発足した経済団体連合会(経団連)は、朝鮮戦争(50年勃発、53年休戦)に伴う「米軍特需」に対応するため、52年に防衛生産委員会を立ち上げました。同会が64年に発行した『防衛生産委員会十年史』(『十年史』)は、一度解体された日本の軍需産業が復活を遂げるいきさつを、当事者の言葉で子細に記述しています。
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経団連会館=東京都千代田区
非軍事化を論難
戦後、日本は実質的に米国の単独占領のもとに置かれました。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の上部機構は米国の組織であり、もっぱら米国の国策に沿って占領政策を行いました。
終戦直後の米国の対日政策は、日本経済の徹底した「非軍事化」を基調としました。日本から軍国主義を永久に除去することを求め、「再軍備を可能にするような産業は許されない」と規定したポツダム宣言(45年8月14日に日本受諾)に合致する政策でした。
この政策を振り返り、『十年史』は激しく論難しました。
「基礎産業部門に対してすら、苛酷きわまる制限措置を課することをきめ、ついに日本経済の半永久的な弱体化政策にまで移行するに至った」
武器生産を担当する国内唯一の産業団体として53年に発足した日本兵器工業会は、さらにあけすけでした。61年に発行した『日本の防衛産業』で、戦時中の武器生産への無反省ぶりをあらわにしたのです。
「過去80年間、国をあげて営々と築きあげた陸・海軍の軍事力は、一片の命令で容赦なくうち砕かれた。この実情を眼前に眺めた国民の胸中には、これから何年たったら昔の姿にかえるであろうかと、悲愁の感がこみあげた」
“反共の防壁”に
しかし米国はまもなく、日本をアジア戦略の軍事拠点とする政策に転じました。ソ連との対立激化や中国革命の前進が背景にありました。中国共産党が内戦に勝利する見通しが濃厚となり、中国国民党政権を米国の同盟者として育成する政策が破綻したのです。
48年1月、ロイヤル米陸軍長官は日本の経済的自立をはかって「新たな全体主義戦争の脅威に対する防壁の役目」を果たさせると演説しました。
日本を極東における“反共の防壁”にするという意思表示でした。ポツダム宣言と日本国憲法を公然と踏み破る道でした。
日本の財界は進んで米国に追随しました。経団連防衛生産委員会の千賀鉄也事務局長(当時)が、そのころの財界を覆っていた気分を語っています。
「国際的な動きからいえば、中国の革命があり、ソ連はご承知のような(『社会主義』を名乗る)状態です。加えて朝鮮半島が二つに分かれるというふうな問題にまで発展したわけです」
「もうアメリカしかないということですよ」(エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言三』)
(つづく)(8回連載です)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年4月27日付掲載
日本の軍需産業の復活。それはアメリカの要請でした。
これこそ、アメリカからの押し付け軍拡。