軍事依存経済 武器生産再開の起源③ 米国に「衷心からの感謝」
米国主導による武器の生産は、日本の産業全般に影響を及ぼしました。米国が多数の軍人や技師を日本に派遣し、技術向上、生産管理、検査業務の指導を行ったからです。
「(兵器生産は)当時の関係産業部門にきわめて大きな影響を与えた。
特に品質管理、検査方式等については、アメリカ軍の持つ新しい高度のものが要求された結果、元請会社のみならず関連会社、下請会社に至るまで貴重な技術的体験を習得させることとなり、後々の発展に大いに役立った」(経団連防衛生産委員会『防衛生産委員会十年史』) 産業界は莫大(ばくだい)な特需ばかりか、最新の技術を習得する機会をも得たのです。日本の財界は米国への依存を一気に深めました。

復元された第2次世界大戦中の零式艦上戦闘機=三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室(愛知県豊山町)
兵器産業の復興
経団連防衛生産委員会と日本兵器工業会は55年、米軍と日本政府の首脳部を招き、式典とカクテル・パーティーを催しました。100万発の砲弾納入を記念するためでした。
このときの財界側あいさつが当時の雰囲気を伝えています。神戸製鋼所の浅田長平社長(当時)は、設備が近代化された意義を強調しました。
「アメリカのスペック及(およ)び図面による砲弾製造は初めてのことでもあり、当初は種々の困難や疑問に逢着(ほうちゃく)して困りましたが、幸い米軍当局の懇切なる御指導と御鞭錘(べんたつ)により、所謂(いわゆる)米国式の量産方式と検査方法に基づき、最も近代化せる設備を整え併せて技術の練磨向上に努めました結果おかげ様で生産を順次軌道に乗せることができました」
「米国極東軍司令部兵器局長リンド准将より感謝状を頂戴致しましたことは神戸製鋼所及(および)系列各社の忘れることの出来ない名誉と喜びでございました」(『十年史』)
小松製作所の河合良成社長(当時)は兵器産業を輸出産業ととらえ、東南アジアへの輸出に乗り出す意図を示しました。
「弾薬に関する限り、私共は平時におけるわが国の防衛需要を充たした上に、東南アジア諸国の要求にも応じ得るのであります」
「斯(かか)る能力がもっぱら米軍当局の示された深甚な同情、技術的な指導、啓発、ならびに一貫した親切と理解によってもたらされたものであることを、衷心からの感謝をもって憶(おも)い起すのであります」
「私共はこの事業に従事したことに柳(いささ)かの後悔も持たないばかりか、日本にとって莫大な輸出産業を完成したのであります」(『十年史』)
このように、日本の財界にとって米国は「衷心からの感謝」の対象となり、米国の戦争に武器を供給することは「名誉」「喜び」となりました。
それは「我国(わがくに)兵器産業の復興」(浅田社長)という野望の実現に直結していたからです。
新規市場の開拓
米軍特需の中で大きな意味を持った分野に航空機の修理がありました。米軍の戦闘機や練習機の分解修理作業が発注されたのです。受注したのは昭和飛行機、川崎航空機、新三菱重工業などでした。
「アメリカ軍の発注は、わが国航空機工業再開のきっかけをなしたという意味において忘れることのできないものであった」
特に重要だったのが、新三菱重工と川崎航空機が受注したジェット機の修理でした。
「当時まったく未経験の新機種に対する知識、技術を、わが国に体系的に植え付ける意味において大きな役割を果たした」(『十年史』)
日本の軍需産業はこうして復興の足がかりを得ました。その原動力は、米国のかじ取りのもとで、米国の資金と技術に依存して、米国の戦争に協力することだったのです。
一方、日本への軍事援助は米国の軍需産業界にとって新規市場の開拓という意味を持ちました。
経団連防衛生産委員会の千賀鉄也事務局長(当時)が証言しています。
「日本も米軍機のオーバーホール(分解修理)はやっていたが、ノーハウ(技術や知識)は全部アメリカの業界から入れていた。いわんや、将来ジェット機の生産になれば、ライセンス(免許)、ノーハウは当然アメリカの業界が提供することにならざるをえない」
「アメリカの業界とすれば、それによってマーケット(市場)が一つふえるという意味で歓迎した」(エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言三』)
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年5月3日付掲載
戦前の零式戦闘機は、一時期世界の先端を走ったものですが…。
戦後のアメリカのジェット機の技術に、日本は足元にも及ばないほど。
アメリカのジェット機の修理依頼は格好の仕事だったのでしょうね。
米国主導による武器の生産は、日本の産業全般に影響を及ぼしました。米国が多数の軍人や技師を日本に派遣し、技術向上、生産管理、検査業務の指導を行ったからです。
「(兵器生産は)当時の関係産業部門にきわめて大きな影響を与えた。
特に品質管理、検査方式等については、アメリカ軍の持つ新しい高度のものが要求された結果、元請会社のみならず関連会社、下請会社に至るまで貴重な技術的体験を習得させることとなり、後々の発展に大いに役立った」(経団連防衛生産委員会『防衛生産委員会十年史』) 産業界は莫大(ばくだい)な特需ばかりか、最新の技術を習得する機会をも得たのです。日本の財界は米国への依存を一気に深めました。

復元された第2次世界大戦中の零式艦上戦闘機=三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室(愛知県豊山町)
兵器産業の復興
経団連防衛生産委員会と日本兵器工業会は55年、米軍と日本政府の首脳部を招き、式典とカクテル・パーティーを催しました。100万発の砲弾納入を記念するためでした。
このときの財界側あいさつが当時の雰囲気を伝えています。神戸製鋼所の浅田長平社長(当時)は、設備が近代化された意義を強調しました。
「アメリカのスペック及(およ)び図面による砲弾製造は初めてのことでもあり、当初は種々の困難や疑問に逢着(ほうちゃく)して困りましたが、幸い米軍当局の懇切なる御指導と御鞭錘(べんたつ)により、所謂(いわゆる)米国式の量産方式と検査方法に基づき、最も近代化せる設備を整え併せて技術の練磨向上に努めました結果おかげ様で生産を順次軌道に乗せることができました」
「米国極東軍司令部兵器局長リンド准将より感謝状を頂戴致しましたことは神戸製鋼所及(および)系列各社の忘れることの出来ない名誉と喜びでございました」(『十年史』)
小松製作所の河合良成社長(当時)は兵器産業を輸出産業ととらえ、東南アジアへの輸出に乗り出す意図を示しました。
「弾薬に関する限り、私共は平時におけるわが国の防衛需要を充たした上に、東南アジア諸国の要求にも応じ得るのであります」
「斯(かか)る能力がもっぱら米軍当局の示された深甚な同情、技術的な指導、啓発、ならびに一貫した親切と理解によってもたらされたものであることを、衷心からの感謝をもって憶(おも)い起すのであります」
「私共はこの事業に従事したことに柳(いささ)かの後悔も持たないばかりか、日本にとって莫大な輸出産業を完成したのであります」(『十年史』)
このように、日本の財界にとって米国は「衷心からの感謝」の対象となり、米国の戦争に武器を供給することは「名誉」「喜び」となりました。
それは「我国(わがくに)兵器産業の復興」(浅田社長)という野望の実現に直結していたからです。
新規市場の開拓
米軍特需の中で大きな意味を持った分野に航空機の修理がありました。米軍の戦闘機や練習機の分解修理作業が発注されたのです。受注したのは昭和飛行機、川崎航空機、新三菱重工業などでした。
「アメリカ軍の発注は、わが国航空機工業再開のきっかけをなしたという意味において忘れることのできないものであった」
特に重要だったのが、新三菱重工と川崎航空機が受注したジェット機の修理でした。
「当時まったく未経験の新機種に対する知識、技術を、わが国に体系的に植え付ける意味において大きな役割を果たした」(『十年史』)
日本の軍需産業はこうして復興の足がかりを得ました。その原動力は、米国のかじ取りのもとで、米国の資金と技術に依存して、米国の戦争に協力することだったのです。
一方、日本への軍事援助は米国の軍需産業界にとって新規市場の開拓という意味を持ちました。
経団連防衛生産委員会の千賀鉄也事務局長(当時)が証言しています。
「日本も米軍機のオーバーホール(分解修理)はやっていたが、ノーハウ(技術や知識)は全部アメリカの業界から入れていた。いわんや、将来ジェット機の生産になれば、ライセンス(免許)、ノーハウは当然アメリカの業界が提供することにならざるをえない」
「アメリカの業界とすれば、それによってマーケット(市場)が一つふえるという意味で歓迎した」(エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言三』)
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年5月3日付掲載
戦前の零式戦闘機は、一時期世界の先端を走ったものですが…。
戦後のアメリカのジェット機の技術に、日本は足元にも及ばないほど。
アメリカのジェット機の修理依頼は格好の仕事だったのでしょうね。