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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

軍事依存経済 武器生産再開の起源③ 米国に「衷心からの感謝」

2016-05-08 14:58:07 | 平和・憲法・歴史問題について
軍事依存経済 武器生産再開の起源③ 米国に「衷心からの感謝」

米国主導による武器の生産は、日本の産業全般に影響を及ぼしました。米国が多数の軍人や技師を日本に派遣し、技術向上、生産管理、検査業務の指導を行ったからです。
「(兵器生産は)当時の関係産業部門にきわめて大きな影響を与えた。
特に品質管理、検査方式等については、アメリカ軍の持つ新しい高度のものが要求された結果、元請会社のみならず関連会社、下請会社に至るまで貴重な技術的体験を習得させることとなり、後々の発展に大いに役立った」(経団連防衛生産委員会『防衛生産委員会十年史』) 産業界は莫大(ばくだい)な特需ばかりか、最新の技術を習得する機会をも得たのです。日本の財界は米国への依存を一気に深めました。



復元された第2次世界大戦中の零式艦上戦闘機=三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室(愛知県豊山町)

兵器産業の復興
経団連防衛生産委員会と日本兵器工業会は55年、米軍と日本政府の首脳部を招き、式典とカクテル・パーティーを催しました。100万発の砲弾納入を記念するためでした。
このときの財界側あいさつが当時の雰囲気を伝えています。神戸製鋼所の浅田長平社長(当時)は、設備が近代化された意義を強調しました。
「アメリカのスペック及(およ)び図面による砲弾製造は初めてのことでもあり、当初は種々の困難や疑問に逢着(ほうちゃく)して困りましたが、幸い米軍当局の懇切なる御指導と御鞭錘(べんたつ)により、所謂(いわゆる)米国式の量産方式と検査方法に基づき、最も近代化せる設備を整え併せて技術の練磨向上に努めました結果おかげ様で生産を順次軌道に乗せることができました」
「米国極東軍司令部兵器局長リンド准将より感謝状を頂戴致しましたことは神戸製鋼所及(および)系列各社の忘れることの出来ない名誉と喜びでございました」(『十年史』)
小松製作所の河合良成社長(当時)は兵器産業を輸出産業ととらえ、東南アジアへの輸出に乗り出す意図を示しました。
「弾薬に関する限り、私共は平時におけるわが国の防衛需要を充たした上に、東南アジア諸国の要求にも応じ得るのであります」
「斯(かか)る能力がもっぱら米軍当局の示された深甚な同情、技術的な指導、啓発、ならびに一貫した親切と理解によってもたらされたものであることを、衷心からの感謝をもって憶(おも)い起すのであります」
「私共はこの事業に従事したことに柳(いささ)かの後悔も持たないばかりか、日本にとって莫大な輸出産業を完成したのであります」(『十年史』)
このように、日本の財界にとって米国は「衷心からの感謝」の対象となり、米国の戦争に武器を供給することは「名誉」「喜び」となりました。
それは「我国(わがくに)兵器産業の復興」(浅田社長)という野望の実現に直結していたからです。

新規市場の開拓
米軍特需の中で大きな意味を持った分野に航空機の修理がありました。米軍の戦闘機や練習機の分解修理作業が発注されたのです。受注したのは昭和飛行機、川崎航空機、新三菱重工業などでした。
「アメリカ軍の発注は、わが国航空機工業再開のきっかけをなしたという意味において忘れることのできないものであった」
特に重要だったのが、新三菱重工と川崎航空機が受注したジェット機の修理でした。
「当時まったく未経験の新機種に対する知識、技術を、わが国に体系的に植え付ける意味において大きな役割を果たした」(『十年史』)
日本の軍需産業はこうして復興の足がかりを得ました。その原動力は、米国のかじ取りのもとで、米国の資金と技術に依存して、米国の戦争に協力することだったのです。
一方、日本への軍事援助は米国の軍需産業界にとって新規市場の開拓という意味を持ちました。
経団連防衛生産委員会の千賀鉄也事務局長(当時)が証言しています。
「日本も米軍機のオーバーホール(分解修理)はやっていたが、ノーハウ(技術や知識)は全部アメリカの業界から入れていた。いわんや、将来ジェット機の生産になれば、ライセンス(免許)、ノーハウは当然アメリカの業界が提供することにならざるをえない」
「アメリカの業界とすれば、それによってマーケット(市場)が一つふえるという意味で歓迎した」(エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言三』)
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年5月3日付掲載


戦前の零式戦闘機は、一時期世界の先端を走ったものですが…。
戦後のアメリカのジェット機の技術に、日本は足元にも及ばないほど。
アメリカのジェット機の修理依頼は格好の仕事だったのでしょうね。
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軍事依存経済 武器生産再開の起源② 米軍特需で「新しい希望」

2016-05-08 10:36:13 | 平和・憲法・歴史問題について
軍事依存経済 武器生産再開の起源② 米軍特需で「新しい希望」

米国は朝鮮戦争が始まった1950年、連合国軍総司令部(GHQ)を通じて日本に警察予備隊をつくらせ、52年には本格的な武器の生産を解禁しました。日本の経済力や軍事力を活用して「アメリカの直接的負担を軽くする」(経団連防衛生産委員会『防衛生産委員会十年史』)という狙いがありました。
米国が警察予備隊に求めたのは朝鮮戦争へ出動した在日米軍の穴埋めでした。急きょ募集された隊員は米軍の兵器を貸与され、米軍指揮官の指示で訓練されました。当時の警察予備隊総隊総監だった林敬三氏は回想して嘆きました。
「米軍将校によって指揮されて、米軍将校のもとにおける日本の隊員という形の部隊ができることは将来のためにきわめて適当でないことだという感じを持ちながら、それをながめていた」(防衛庁『自衛隊十年史』)



武器製造が禁じられた時期に三菱重工業がつくっていたジェラルミン製の鍋やパン焼き器=三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室(愛知県豊山町)

巨額の武器発注
52年には米軍から日本企業への大規模な武器の発注が始まり、総額520億円を超す特需となりました。
日本企業が受注したのは、81ミリ迫撃砲弾63万発(大阪金属工業、小松製作所)、105ミリ榴弾各種75万発(神戸製鋼所)、75ミリ無反動砲弾19万8千発(住友金属工業)などでした。
『防衛生産委員会十年史』は「日本に兵器工業の基盤を植え付けることによって、極東ならびに東南アジア地域における兵站(へいたん)基地的な役割を果たさせようとの意図を米国が持っていたと指摘します。
経団連防衛生産委員会の千賀鉄也事務局長(当時)の証言は、より臭体的です。
「朝鮮動乱で米軍のストックがなくなったんですよ。米軍はそうとう弾薬を使いましたから、極東の米軍の弾薬庫は枯渇したに違いない」
「朝鮮動乱もさることながら、アメリカはむしろインドシナ戦争に対する軍事援助に日本の軍事生産力をできるだけ活用しようという考え方だった」
「防衛生産に関する日本政府の施策はあとを追っかけていった―いうならば、物事は他律的に進んだ」
「日本政府が知らないあいだに、事態は進んでしまったんです」(エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言三』)インドシナ戦争は46年から54年まで、ベトナム民主共和国の独立を認めないフランスが再侵略を図った戦争でした。米国は全面的な軍事援助を行い、航空機、戦車、弾薬などを提供しました。

日本の頭越しに
こうしたアジアでの戦争を有利に展開するために、日本の軍需産業を解体する政策から育成する政策へと、米国は百八十度転換したのです。事態は日本企業への直接の発注という形で、日本政府の頭越しに進められたのでした。
米軍からの特需によって、日本の軍需産業はにわかに息を吹き返しました。
「荒れるに任せてあった旧軍工廠(こうしょう)や民間工場は約70億円といわれる巨額の設備投資により整備され、四散した技術者は集められ、全力をあげてこれに応じた。受注会社は有力な金属加工関係13社、火薬関係10社と、これに関連する多数の会社が参加し、従業員の総数は3万人を超すと推測された」(日本兵器工業会『日本の防衛産業』)
米国は終戦直後、日本の軍需工場の機械や設備を「賠償有権国に移し有益に使用させる」方針でした。これらの賠償指定についても米国は、「いち早く解除して、どうぞやってください」(千賀氏)と、武器生産を促す態度に転じました。
第2次世界大戦中に日本の武器生産の中心を担った軍工廠も民間企業に貸与され、後に払い下げられました。
「当時でいうと、小松製作所の枚方工場は軍の工廠ですよ。それから、大同製鋼が弾薬つくっていた高蔵工場が名古屋にあった。あれも賃貸、そのあと払下げですよ」(千賀氏)
米国の対日政策に対する日本の財界の恨み節は、拍手喝采にとってかわりました。
「現実は10年も20年もの遠いことではなく、僅(わず)か5年にして(失った軍事力への)この感傷を消し飛ばし新しい希望が(ママ)よみがえらせた」(『防衛産業』)
「アメリカの緊急調達は、戦後彪大(ぼうだい)な遊休設備を擁して苦況にあえいでいたわが国の企業に対して、まさに立上がりの重要なきっかけを提供した」(『十年史』)(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年4月28日付掲載


日本の軍需産業の再出発は、米軍のための弾丸作りからスタート。
それでも、大変な特需だったのですね。
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