今日は計画停電がなく、久しぶりに落ち着いた時間を過ごせました。それでも日用品の買い物に行っている母からは物がないという報告を受け、被災地のことを思えばこんなもので済んでいるだけでもありがたいとはいえ、やはりこの震災の影響が完全になくなるまでには時間がかかることは痛感しています。納豆が復活して、納豆好きの父がしばらくは毎朝納豆が食べられる環境が復活するなど、改善はしてきていますが。
今日はオフネタですが、昨年ついに新たなポジションであるCBで一年間レギュラーでプレーして、いよいよFWをやれば全ポジション制覇か?というベテラン、山田暢久選手のネタにします。もっとも、暢久のFWはまったくの未知のポジションではなく、1995年に暢久の才能を見抜いたオジェックがいろいろなポジションで起用したときに、ちょっとだけFWもやってはいますが。
暢久というのは不思議な選手で、厳しい自己管理をしているという噂は聞きませんし、DFで出ているときに相手の個人技を食らうと、比較的諦めが早くあまり追わないといった弱点も明らかになっているのに、それでもどこかのポジションを自分のものにして、シーズンが終わったらきっちり結果を出している選手です。
暢久は1994年入団と、浦和の中では断トツの古株で、今やその次は鈴木啓太(2000年入団)とすっかり世代交代した浦和で、今でも当たり前のように試合に出ています。浦和を選んだ理由が「弱いチームだからすぐに出られそう」という理由だったところは、結構本音を言う暢久らしいコメントです。
そんな暢久も、一度だけ移籍を真剣に考えたことがありました。それは1999年のJ2降格のときで、当時は代表入りの野心を持っていた暢久にとってはJ2でプレーするというのは受け入れがたいことだったかもしれません。しかし、何とか1年でJ1に復帰しようと、岡野あたりがチームメイトみんなに電話を掛けて、チームに残って欲しいと懇願したこともあって、暢久は残り、現在まで浦和でプレーしています。
一度はトップ下をやってみたいという夢もブッフバルト監督が叶え、ポンテからのボールを動き回って引き出す、暢久なりのトップ下像は見せました。ペトロが暢久をどこで使うかは注目していましたが、フィンケ時代と同じCBだったことには多少驚きもあります。しかし、確かにDF陣の中では一番パスがうまいこともあって、最終ラインからの組み立てを意識するなら暢久は必要という考えもわかります。
ここまで来たら、あとはギドの持っている、浦和最年長出場記録(36歳)を塗り替えて欲しいというのが、私の希望です。
今日はオフネタですが、昨年ついに新たなポジションであるCBで一年間レギュラーでプレーして、いよいよFWをやれば全ポジション制覇か?というベテラン、山田暢久選手のネタにします。もっとも、暢久のFWはまったくの未知のポジションではなく、1995年に暢久の才能を見抜いたオジェックがいろいろなポジションで起用したときに、ちょっとだけFWもやってはいますが。
暢久というのは不思議な選手で、厳しい自己管理をしているという噂は聞きませんし、DFで出ているときに相手の個人技を食らうと、比較的諦めが早くあまり追わないといった弱点も明らかになっているのに、それでもどこかのポジションを自分のものにして、シーズンが終わったらきっちり結果を出している選手です。
暢久は1994年入団と、浦和の中では断トツの古株で、今やその次は鈴木啓太(2000年入団)とすっかり世代交代した浦和で、今でも当たり前のように試合に出ています。浦和を選んだ理由が「弱いチームだからすぐに出られそう」という理由だったところは、結構本音を言う暢久らしいコメントです。
そんな暢久も、一度だけ移籍を真剣に考えたことがありました。それは1999年のJ2降格のときで、当時は代表入りの野心を持っていた暢久にとってはJ2でプレーするというのは受け入れがたいことだったかもしれません。しかし、何とか1年でJ1に復帰しようと、岡野あたりがチームメイトみんなに電話を掛けて、チームに残って欲しいと懇願したこともあって、暢久は残り、現在まで浦和でプレーしています。
一度はトップ下をやってみたいという夢もブッフバルト監督が叶え、ポンテからのボールを動き回って引き出す、暢久なりのトップ下像は見せました。ペトロが暢久をどこで使うかは注目していましたが、フィンケ時代と同じCBだったことには多少驚きもあります。しかし、確かにDF陣の中では一番パスがうまいこともあって、最終ラインからの組み立てを意識するなら暢久は必要という考えもわかります。
ここまで来たら、あとはギドの持っている、浦和最年長出場記録(36歳)を塗り替えて欲しいというのが、私の希望です。