雪はさいたまでは10cmほどです。明日暖かくなる予報なので溶けることを期待して、今日はオリンピックのスノーボード、スロープスタイルという新競技を見ていました。簡単にいえばスノボで下りながら3回ジャンプを繰り出す競技ですが、途中には階段の手すり(本当にコース上に作ってある!)を滑り降りたり、ジャンプしながら巨大マトリョーシカ像にタッチしたりと、まるで氷上のスタントマンです。引退後はスタントマンで食っていけそうです。
今日は大雪で自宅に缶詰めなので、ブログを書くことでストレスを解消しようと思います。いつものオフネタのレッズ選手の思い出は、DF坪井慶介選手です。森脇がなぜ自分の応援歌がないか気にしていましたが、実は浦和一筋のベテランの坪井慶介にも応援歌はなぜかありません。
坪井はJリーグ通算得点は2点ですが、その2点は2003年の駒場スタジアムのG大阪戦です。怪しくなってきた記憶をたどれば、2点ともセットプレーで、坪井のヘディングのゴールで追い付いて引き分けに持ち込んだ価値ある得点でした。
今は坪井はベンチ暮らしになっていますが、福岡大を卒業して浦和に入った当時はJリーグ全体でも有名な選手でした。当時のオフト監督が3バックのマンツーマンを採用することに決め、相手2トップをどこまでも追い回せるDFを探していました。
スピードが売り物の坪井はオフトの要求にぴったりくる選手でした。内舘とストッパーに並んでマンツーマンを実行した坪井は、一枚もイエローカードをもらわずにシーズンを終え、CBの選手としては異例のフェアプレー個人賞を受賞しています。
代表キャリアは40試合ありますが、そのほとんどはジーコ監督時代です。当時、日本には坪井のようにスピードを武器にするストッパーは少なく、宮本のカバーリングを生かすためのストッパーとして坪井は重用されました。2006年ドイツW杯の豪州戦にも出場しましたが、試合中に足をつって途中交代と苦い記憶だったと思います。
坪井の最大の金字塔は、2007年の浦和のACL優勝だと思います。当時のオジェック采配では右ストッパーだった坪井は、海外の長身FW相手に放りこまれるアーリークロスの対応要員でした。全北(韓国)のゼ・カルロ、城南(韓国)の金東ヒョン、セパハン(イラン)のイラク代表FWなどの強力な相手に、上背で劣っても相手の体のバランスを崩そうとジャンプのタイミングを工夫して、アジアチャンピオンになってクラブW杯に出るという、サポーターとしては夢のような経験をさせてもらいました。
その後は、パスセンスに難ありという弱点があるので、監督によって使われたり使われなかったりしています。ただ、大卒で浦和一筋のキャリアを考えると幹部候補生だと思います。是非、残りのキャリアをいいものにして、何らかの形でずっと浦和に関わって欲しいと思います。
坪井はJリーグ通算得点は2点ですが、その2点は2003年の駒場スタジアムのG大阪戦です。怪しくなってきた記憶をたどれば、2点ともセットプレーで、坪井のヘディングのゴールで追い付いて引き分けに持ち込んだ価値ある得点でした。
今は坪井はベンチ暮らしになっていますが、福岡大を卒業して浦和に入った当時はJリーグ全体でも有名な選手でした。当時のオフト監督が3バックのマンツーマンを採用することに決め、相手2トップをどこまでも追い回せるDFを探していました。
スピードが売り物の坪井はオフトの要求にぴったりくる選手でした。内舘とストッパーに並んでマンツーマンを実行した坪井は、一枚もイエローカードをもらわずにシーズンを終え、CBの選手としては異例のフェアプレー個人賞を受賞しています。
代表キャリアは40試合ありますが、そのほとんどはジーコ監督時代です。当時、日本には坪井のようにスピードを武器にするストッパーは少なく、宮本のカバーリングを生かすためのストッパーとして坪井は重用されました。2006年ドイツW杯の豪州戦にも出場しましたが、試合中に足をつって途中交代と苦い記憶だったと思います。
坪井の最大の金字塔は、2007年の浦和のACL優勝だと思います。当時のオジェック采配では右ストッパーだった坪井は、海外の長身FW相手に放りこまれるアーリークロスの対応要員でした。全北(韓国)のゼ・カルロ、城南(韓国)の金東ヒョン、セパハン(イラン)のイラク代表FWなどの強力な相手に、上背で劣っても相手の体のバランスを崩そうとジャンプのタイミングを工夫して、アジアチャンピオンになってクラブW杯に出るという、サポーターとしては夢のような経験をさせてもらいました。
その後は、パスセンスに難ありという弱点があるので、監督によって使われたり使われなかったりしています。ただ、大卒で浦和一筋のキャリアを考えると幹部候補生だと思います。是非、残りのキャリアをいいものにして、何らかの形でずっと浦和に関わって欲しいと思います。