自力整体でいきいき歩き: 狛 雅子

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健康「いろはガルタ」  《ん》

2008-02-24 22:59:32 | Weblog
    《ん》  んだば、 どんな方法が??

 明日からの北欧研修旅行に向けて3冊目の本「つらい介護から やさしい介護へ」を読了。
先の2冊「モア---ある高齢者の生き方」と「福祉の国は教育大国-デンマークに学ぶ生涯教育」
の時と同様、いえ、さらに深いため息と焦燥感に襲われました。

 先の2冊では、モアやデンマークの他の高齢者たちの「自分の人生や老後は自分で決めて
頑張るという哲学・人生観は、それを培う教育があってのこと」だと理解できました。
初等教育から高齢者の学校運営まで、多額の税金が使われるのですから、無駄がないように
徹底的な議論がつくされ、国民全てが関心を持って監視しているようです。現場の教師や
行政サイドからはもちろん、生徒からも常にフィードバックがあり、改善が続けられています。

 介護に関しても同じです。介護される人のQOLと介護労働者の健康管理や質の向上・
教育体制が常に見直され、より高い方向を目指す体質・理念が分かります。何故、このような
高い理念が国民に浸透しているのか?これが私の最大の関心事でしたが、その答えを 
「福祉の国からのメッセージ」(小島ブンゴード孝子&澤渡夏代 共著・丸善ブックス)
の中に見つけたような気がします。抜粋(P.8~)すると、

 「・・・・グルンドヴィ(偉大な牧師・詩人・教育者・思想家)は、当時(19世紀半ば)
デンマークの主要産業であった農業に携わる若い農民達に、農業技術だけではなく、
デンマーク人としての自覚を高める教育(歴史・言語・文学など)や神と人間の関係を説くこと
を唱えました。・・・・・自分の国に対する認識を高め、歴史の過去からアイデンティティーを
見出し、それにより個人が自立する。そして自立した個人が、共同社会の中で、個人の責任を
果たす。
 これが彼の基本的な考え方です。これはキルケゴールの考え方とかなり似たものですが、
共同社会の存在を認め、個人と社会は相互に影響しあうという点が、キルケゴールとは違う
ところでしょう。」

 「現在のデンマークの社会福祉制度の基本的な考え方は、<社会が個人に代わって、
弱者を助ける>ことにあります。つまり個人が義務を果たす(例えば税金を収める)ことに
対して、社会が責任を持つ(例えば福祉行政を行う)訳で、個人の上に社会が存在しています。

 これは社会主義というか社会民主主義的な考え方とも言えるでしょう。ただ社会福祉制度が
進むと、国民が個人の義務や責任を忘れ、自分の権利ばかり主張するという状態に陥る
危険性が出てきます。」

 不思議なことに私個人の感覚としては、グルンドヴィが説いたのと同じものが昔の日本にも
あったような気がします。それはお天道様に恥じない行動規範と生活様式で、哲学とは
言い難いかもしれませんが、結構、文化として根付いていたのではないでしょうか。

 それが、戦後何故かスッポリと抜け落ちて、教育現場どころか、一番ひどいのが行政と
政治家のような気がするのです。もちろん偉大な理念を持って取り組まれている方も
あったのでしょうが、国全体のレベルを押し上げるには全く力不足であったということでは
ないでしょうか?


 4冊の本を通して感じることは、デンマークでは「行政が人間性・個々の尊厳を重んじて、
支える」ということです。それに比べると、日本の福祉行政のおそまつなこと!

 まず、介護の現場の問題で、「辛くても時間がかかっても、残存能力を生かして、
自分で出来ることに挑む」という自由は、日本にはないようです。効率を重んじるせいか?
親切が過ぎるのか?という以前に、どこまでどうすればお互い(介護される人:する人:
社会で支える側と行政)がWin-Winになれるのか?という議論が抜け落ちていて、
税金が垂れ流し状態のような気がしてなりません。

 もっと憤りを覚えるのは、介護労働者が効率を求められるあまり機器の使用に消極的
(安全に装着・操作するためには時間がかかるから)なため、自分の力で被介護者を
持ち上げてしまいがちだという現実です。

 「・・・その持ち上げ行為で自分の身体に損傷が生じたならば、介護労働者はその仕事を
一時的あるいは半永久的に継続できなくなります。正すところ、日々の作業における数秒・
数分の時間差と、介護労働者の健康と、どちらを重視するかということになるでしょう。
デンマークでは、後者を選択したのです。」(85p.)

 「日本国内に若い介護労働者が相当数いるが、これらの人たちが過酷な労働に耐えられ
ずに数年で離職していくケースが少なくない。これは悪循環で、労働力の無駄遣い。
現在ある労働力をいかに確保し続けることができるか、そのための働き甲斐のある職場、
安全で健康な職場をどうやって作っていくことができるか、その対策なしの介護サービスは、
どうしても片手落ちに思えてなりません。つまるところは、介護労働者の安全・健康の確保なく
して、どうやって利用者の安全・健康の確保を保障できるかということであると思います。」
(139p.)


(あるセミナーでの会話から)「(介護の現場に)アームレストをはずせる車椅子が一台も
ない。リフトもない。どうすればよいか??」という発想は、諦めから出発した発想のように
思えてなりません。あきらめから出発してよい解決方法が見つかるでしょうか?
ここでは発想を少し変えて、多少価格が高くなっても、この機能を備えた車椅子が1台でも
あれば、いかに介助が利用者・介助者双方にとり楽になるかを上司に説明し、
試しに購入してもらうよう努力して・・・・」「ほんの少しのアイデアでも、使えるものは
使ってみる。ほんの少しの投資でも、できるところから始めてみる。
本書が、日本の介護現場にそのような気運が生まれるきっかけになれば・・・・」

 今日はもう、殆ど小島ブンゴード孝子さんの著書の丸写しになってしまいましたが、
それだけ物凄い重みがある、ということです。

 ないないづくしの現場でも、自分や相手(介護の場合は利用者)の双方への愛
(大事に思う気持ち)と、試してみる勇気があれば、何かを思いつくはず。どんなケースでも
諦めないで、常に「どんな方法があるだろう?」と前進していきたいものです。

 *今日のタイトル「んだば・・・」は盛岡弁で、「そのような条件ならば」と現況を
  把握・理解した上で、前向きに対処しようとるす言葉と捉えて使いました。

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