
再び、エピローグからの抜粋です。
p.310 在宅で死を看取るとは家族(家族に限らず周りの近しい
人たち)に「面倒」をかけながら、高齢者は最期の「願いを
叶えて」今生に別れを告げること。
一方で、子供や孫たち家族や周りの者たちは「面倒」を
見ながら、人が死ぬとはどうなっていくことなのかを学び、
暮らしの中で死への恐れを緩和させる機会を持つことになる
こうして死を看取るまでの体験を通して、私たちは仏教でいう
生きとし生けるものが逃れることのできない「生老病死」という
「苦」を乗り越えていく精神的な逞しさを身に着けていくのだと
思います。
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(中略)病院における医療の基本はいうまでもなく治療もしくは
延命です。残された時間のない終末期に大事にすべきはなんなのか。
一分一秒でも長く生かすために、もはや修復不能を宣告されている
肉体にさらなる医療処置を施したいと思うのか。だれのため、
なんのために?
自分が臨終の高齢者だとしたら、家族の気休めのために最後の願いが
踏みにじられ、病院へ送られ、医療の力で死を先延ばしされてしまう
のはちょっと受け入れがたいと思います。
p.311 もちろん一方で、死を看取った体験がなければ、終末が近くなると
苦しむのではないか、病状が急変したらどうしよう・・・・・など
死への不安が膨らみ、安全、安心という医療信仰ゆえに、医療に
すがってしまうというのはわからなくもありません。
高齢者の「最期まで自宅」の願いは、高齢者自身の遠慮、根強い医療信仰、
未経験分野への漠然とした不安・・・・・ いくつものハードルを越えなければ
実現できないのが現実です。
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中村仁一医師に関する話より
p.312 老人ホームの医師として、多くの自然死を見つめてきた
体験から「人は穏やかに自然に死ねる仕組みを持っている」
という信念を持ち、四半世紀も前からできるだけ医療とかかわらない
在宅自然死を提唱してこられました。
そして、在宅で自然死を遂げるためには、本人の決心、
希望以外に「信念」と「覚悟」が必要だと強調しておられます。
私自身の体験からも看取る者、看取られる者双方に
「信念」と「覚悟」が不可欠だとの思いを強くしています。
だとするなら、高齢者の「最期の願い」が叶えられず、踏み
にじられてしまうのは、高齢者自身にその「信念」と「覚悟」が
ないからだとも言えそうです。
つまり、「最期まで自宅」の願いが叶えられないのは、
高齢者自身にその責任があるのではないでしょうか。
高齢者が変わらないかぎり、状況は一向に変わらないのでは
ないかと感じています。
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今、元気そのものの私でも、たまに関節が痛むときには弱気になり、
本当に在宅で行けるのかしら?と、懐疑的になることがあります。
また、著者の田中さんのように、自分が介護する立場になった時、
夜中に何度も起こされて、辛抱強くトイレに付き合ったり、
汚れた布団の始末をする夜が長く続いたとしたら??
プロの介護者なら、日中目いっぱい働いて、夜はぐっすり眠れます。
でも24時間付きっきりの家族で、寝不足の日が続くとしたら????
実家の母も、パーキンソン病だった父の介護が長引いて寝不足になり、
「1時間でイイから、ぐっすり眠りたい!」と喘いでいました。
今の介護保険で「夜間セデーション」がうまく機能するなら、
私でも頑張れそうだし、そういう方向に運動する必要を感じています。
もっともっと声をあげ、情報を求めて、学び続けようと思います。