太田久紀著
『唯識の心と禅』
中山書房仏書林 平成20年11月1日 第二刷発行
の中で次の箇所が目にとまった。
衛藤即応先生は、生涯を道元禅師の教え・禅学・仏教学という広い領域にわたって仏道を求められた先生でございました。
『私は禅に参究して、…一般の研究者の如く…学問的興味からの研究ではなく…所謂の研究といふよりは寧ろ私には学修といふ方が適当であった。』(『宗祖としての道元禅師』岩波書店)
「仏教の研究というのは、参究だよ」と生涯おっしゃり続けました。
研究と参究はどこが違うのか。
研究は、客観的に突き放して組織的に研究する。
それに対して、参究とは、自己の問題として受け止めていく。仏教からは、そういう己の行き方、己の進むべき方向、そういうものを与えられる。そういうものを学習する。それが、先生の生涯の姿勢でした。参究という言葉。学び修める。学んだものを己の中の生活の中で、修めていくという方向を離れらたことはなかった。
衛藤先生の言葉を借りて、「教育というのは、参究だよ」と言いたい。
長いこと教育現場で、研究授業・授業研究ということに関係してきた。
振りかかえると、、研究授業・授業研究は、授業を客観的に研究するするものがほとんどだった。
学校でも、研究授業・授業研究から参究授業・授業参究を大事にしてもらいたいものだ。
教育現場の先生方が、毎日の授業を、自己の問題として取り組むところから本物の教育改革が実現するように思えてならない。
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