高田文夫編
『江戸前で笑いたい』
志ん生からビートたけしへ
発行所:筑摩書房
を読んでいます。
本書の中で、ラサール石井さんが、コント55号の欽ちゃんと二郎さんの関係について、
SMクラブの女王様に取材したとき聞いた話を土台にして記しています。
基本的には、欽ちゃんがツッコミ役、二郎さんがボケ役なのでしょう。
ところが、舞台では、この役割のチェンジがあれでけの“笑い”が展開されたようです。
以前ほんもののSMクラブの女王様に取材したときに聞いた話だが、
SM関係というのは表裏一体で、どちらかが主導権を握っているのかわからなくなるときがあるそうだ。
Mというのは被虐的でありながら実はわがままで、自分にあったプレイでなければ興奮しないという。
Sはそれを一生懸命考えてやらなければいけない。
だから女王様というのは馬鹿ではではできないそうだ。
しかしそう考えると、奉仕しているのは実はSのほうなのではないかとも思える。
つまり苛めるSと苛められるMの間には、実はまったく逆の関係も存在しているようだ。
SがMによって動かされ、奉仕させられているとも言えるわけである。
このことは55号にも当てはまる。
ボケる二郎さんの挑発があったからこそ、
欽ちゃんがあれほどサディスティックなまでにつっこめたのであり、
Mである二郎さんがSである欽ちゃんの能力をそこまで引き出していたとも言える。
だから当時のコント55号の、ヒューマニズムやペーソスを一切感じさせない乾いたナンセンスな部分は、欽ちゃんよりもむしろ二郎さんが担っていたのではないだろうか。
そうやって考えれば、お笑いのコンビというものには皆こうやったSM的な相互作用が働いていると言える。
そしてまたこういった理想的なSM関係を持ったときに、そのコンビは最強の力を発揮するのである。
だからM(=ボケ)である二郎さんを失ったとき、欽ちゃんはS(=ツッコミ)としての力を100パーセント発揮できず、その笑いの質は変わっていかざるを得なかったのであろう。
ラサール石井氏の文に触れて、半世紀ほどの昔、カウンセリングの勉強を始めた頃のことが思い出されました。
田舎から上京。
その頃、巷ではほとんど「カウンセリング」など、知られていない時代でした。
先輩の先生方は、
クライエント・センターか?
カウンセラー・センターか?
熱く議論していましたねー。
臨床的な人間関係は、一方的な関係、上下関係ではないこと確かです。
言ってみれば、「力動的な“只今”に現象する真実の関係」。
「カウンセリングの道は厳しい」
先師・五十嵐先生の言葉です。
SMも、コントも関係がありませんが、
“人間関係参窮の道”は、厳しくもあり、楽しいですね。