劇団新派が「東京物語」を上演している。小津安二郎監督の映画の舞台化で、山田洋次の脚本、演出。2年前にやはり小津の名作「麦秋」を新派で舞台化している。その時は見ていないが、今回は三越劇場に見に行った。劇場も、新派の公演を見るのも初めて。映画の「東京物語」は昨年、30数年ぶりに見直してこのブログにも書いている。(聖「東京物語」、36年ぶり)。そのような経緯があって、舞台も見たくなったのである。今年初めての観劇。
映画と一番違うのは、場所が長男の家に限定されていること。これは動かせないセットを作る必要上の工夫で、映画のようにカメラが動き回ることができない以上、すぐれた着想である。だから、老母は長男の家で倒れて亡くなることになっている。映画では香川京子が演じた尾道に残っている末娘はカット。大阪にいる三男が末息子で4人兄弟という設定。老夫婦が上京して子供たちを訪ねるが、実の息子・娘よりも、次男の妻が一番親切に応対してくれた、というストーリーの根幹はもちろんそのまま生かされている。
新派の二枚看板は水谷八重子と波乃久里子だが、水谷八重子は映画で東山千栄子が演じた母親、波乃久里子杉は映画で村春子が演じた長女を、それぞれ演じている。杉村春子と波乃久里子の演技の質は少し違う。杉村春子はきつい実務的タイプを自在に演じているのに対し、波乃久里子は「可愛い女」タイプなのでセリフで強い調子を出している。水谷八重子の母親役は立派で映画よりもいいかもしれないが、東山千栄子のふくよかで丸い感じは薄れている。別に映画と比べるだけが大事なわけではないが、映画と舞台、それぞれ日本を代表する名優が演じているので、どうしても考えてしまう。
しかし、この物語には母と長女よりも、父と次男の妻の方が大事である。父親の安井昌二は新派を支えてきた名男優だけど、笠智衆のとぼけた味わいは求められない。もっとまじめな感じになってしまう。映画で原節子が演じた役は新派の若手幹部瀬戸真純。ずいぶん頑張っているけど、原節子の聖なるイメージは求められないのは仕方ない。
次男の妻(紀子)は出身が石巻とされている。これは映画にはない。他のセリフには関係してこないけれども、東日本大震災をイメージした設定ではないか。紀子と言う役は「死者を忘れない」という設定を求められている。また、長男の家は映画では、足立区と墨田区の堺のあたり、東武線堀切駅あたりと推定されている。(川本三郎さんによれば。)それが葛飾区金町に変更された。だから近くの川は荒川ではなく江戸川になる。この変更はよく判らない。柴又に近づけたサービスかな。
映画との違いばかり書いているが、物語が同一である以上、仕方ない。舞台の方が素晴らしいのは、長男の家のセットで、舞台美術の力。舞台と言う閉じられた空間があって、そこに生身の俳優を出し入れする醍醐味。一方、熱海の温泉で眠れなかったシーンなどが、セリフでしか表現できない。もちろん劇場と予算があれば、裏が熱海の温泉旅館になっている回り舞台を作ることもできるが、ごく少ないシーンのためにそこまではできないだろう。でも映画では熱海が出てくるので、語る必要もなく映像で二人のいらだちが伝わる。
「死者を忘れずにいることの意味」という、この物語の根幹のテーマに関しては、もう知ってて見ているし、原節子がスクリーンで語る映画に比べると、舞台は遠いのでどうも今一つ心に入って来なかった。戦争からずいぶんたって作られたということもあるだろう。「召集令状の赤紙が来た」というセリフがあるが、当時だったらこんな説明的なセリフでなく、単なる「赤紙が来た」で終わるだろう。それで判らない人はいないのだから。時間が経って、過去の物語を舞台化することは難しいなと感じた。名優の安定したアンサンブルを見る愉しみは充分味わえるのだけど。
映画と一番違うのは、場所が長男の家に限定されていること。これは動かせないセットを作る必要上の工夫で、映画のようにカメラが動き回ることができない以上、すぐれた着想である。だから、老母は長男の家で倒れて亡くなることになっている。映画では香川京子が演じた尾道に残っている末娘はカット。大阪にいる三男が末息子で4人兄弟という設定。老夫婦が上京して子供たちを訪ねるが、実の息子・娘よりも、次男の妻が一番親切に応対してくれた、というストーリーの根幹はもちろんそのまま生かされている。
新派の二枚看板は水谷八重子と波乃久里子だが、水谷八重子は映画で東山千栄子が演じた母親、波乃久里子杉は映画で村春子が演じた長女を、それぞれ演じている。杉村春子と波乃久里子の演技の質は少し違う。杉村春子はきつい実務的タイプを自在に演じているのに対し、波乃久里子は「可愛い女」タイプなのでセリフで強い調子を出している。水谷八重子の母親役は立派で映画よりもいいかもしれないが、東山千栄子のふくよかで丸い感じは薄れている。別に映画と比べるだけが大事なわけではないが、映画と舞台、それぞれ日本を代表する名優が演じているので、どうしても考えてしまう。
しかし、この物語には母と長女よりも、父と次男の妻の方が大事である。父親の安井昌二は新派を支えてきた名男優だけど、笠智衆のとぼけた味わいは求められない。もっとまじめな感じになってしまう。映画で原節子が演じた役は新派の若手幹部瀬戸真純。ずいぶん頑張っているけど、原節子の聖なるイメージは求められないのは仕方ない。
次男の妻(紀子)は出身が石巻とされている。これは映画にはない。他のセリフには関係してこないけれども、東日本大震災をイメージした設定ではないか。紀子と言う役は「死者を忘れない」という設定を求められている。また、長男の家は映画では、足立区と墨田区の堺のあたり、東武線堀切駅あたりと推定されている。(川本三郎さんによれば。)それが葛飾区金町に変更された。だから近くの川は荒川ではなく江戸川になる。この変更はよく判らない。柴又に近づけたサービスかな。
映画との違いばかり書いているが、物語が同一である以上、仕方ない。舞台の方が素晴らしいのは、長男の家のセットで、舞台美術の力。舞台と言う閉じられた空間があって、そこに生身の俳優を出し入れする醍醐味。一方、熱海の温泉で眠れなかったシーンなどが、セリフでしか表現できない。もちろん劇場と予算があれば、裏が熱海の温泉旅館になっている回り舞台を作ることもできるが、ごく少ないシーンのためにそこまではできないだろう。でも映画では熱海が出てくるので、語る必要もなく映像で二人のいらだちが伝わる。
「死者を忘れずにいることの意味」という、この物語の根幹のテーマに関しては、もう知ってて見ているし、原節子がスクリーンで語る映画に比べると、舞台は遠いのでどうも今一つ心に入って来なかった。戦争からずいぶんたって作られたということもあるだろう。「召集令状の赤紙が来た」というセリフがあるが、当時だったらこんな説明的なセリフでなく、単なる「赤紙が来た」で終わるだろう。それで判らない人はいないのだから。時間が経って、過去の物語を舞台化することは難しいなと感じた。名優の安定したアンサンブルを見る愉しみは充分味わえるのだけど。