尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大島渚の映画④国際的監督として

2013年04月02日 01時10分51秒 |  〃  (日本の映画監督)
 大島渚の最後の映画群について。この時代の大島渚はあまり高く評価していないので、簡単に確認しておくことにしたい。

 1972年の「夏の妹」以後、大島は創造社を解散して、独自の道を歩み始めた。フランスのプロデューサー、アナトール・ドーマンと組んで「フランス映画」を作るというやり方である。ドーマンはゴダールやアラン・レネ等の映画を作っていた人で、この後に「ブリキの太鼓」「パリ、テキサス」などの傑作を生み出す。そういう国際的製作者と組んで世界市場を目標にしてアートシネマを作る路線は日本映画に大きな刺激を与えた。その功績は大きい。しかし、ベルナルド・ベルトルッチなんかを見ても、40代半ばで「ラスト・エンペラー」が世界的評価を得たあたりから、つまらなくなって行く。やはり自分の所属する文化の中で問題意識を共有して作った作品の方が面白いと僕は思う。

 1976年の「愛のコリーダ」をどう評価をすればいいのか、僕にはよく判らない。いや、よくできてるし、立派な作品である。「わいせつ」だと言えば、「いい意味でわいせつだ」と言えると思うし、「悪い意味でのわいせつ映画」とはみじんも思わない。次の「愛の亡霊」とともに藤竜也2部作だが、藤竜也の「男の色気」は「凄すぎる」という言葉しか浮かばない。この映画の基になっているのは、もちろん有名な阿部定事件。どういう事件かは、大筋では日本人は皆知っている。映画ファンであれば、前年のロマンポルノ、田中登監督「実録・阿部定」を見ていたはずである。(その後、98年に大林宣彦「SADA」も作られ、ベルリンで国際批評家連盟賞を受賞している。)世界の観客は、ほとんど事件の行く末を知らずに見ているだろうが、日本人もそういう白紙の状態でこの映画を見たら、印象は大分違うのだろうか。僕に関して言えば、「愛のコリーダ」の松田英子、「SADA」の黒木瞳より、「実録・阿部定」の宮下順子の方が好みで、最初に見た田中登作品が一番印象深い。
(「愛のコリーダ」)
 この映画は、日本初の「本格的ハードコアポルノ」だった。フィルムは撮影したままフランスに送られ、フランスで現像された。そういう経緯から完全な「フランス映画」扱いをされ、キネマ旬報では外国映画ベストテンで8位に入選している。外国映画は「タクシードライバー」「カッコーの巣の上で」「トリュフォーの思春期」「バリー・リンドン」「狼たちの午後」「ナッシュビル」「アデルの恋の物語」と言う大豊作年で、それに次ぐ8位だから、相当の評価と言えるだろう。(タクシー、カッコーより凄いとは誰も言わないだろう。なお、9位は「フェリーニの道化師」。)しかし、言語、文化的には完全な日本映画であり、日本映画扱いだったら何位になっただろうか。この年の1位は「青春の殺人者」、続いて「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」「大地の子守歌」「不毛地帯」「犬神家の一族」「あにいもうと」…と続いている。1位だったのではないかと思う。

 78年の「愛の亡霊」はカンヌ映画祭監督賞。撮影に日本を代表する名手、宮島義勇を迎えて、非常に美しい凝った映像が心に残る映画である。この時期の大島作品で一番好きな映画で、その年の僕のベストワン。地方の村で、車引きの田村高廣吉行和子の夫婦が仲睦まじく住んでいたが、兵隊帰りの藤竜也が吉行和子に恋慕し、不倫の恋が殺人へ。そしてどうなるか…。阿部定事件と違い、車屋儀三郎なんて言われても知らないから、どうなるのかドキドキしてみることになる。映画の中では不倫の二人は26歳差となっているが、吉行は1935年生まれ、藤は1941年生まれだから、年上は年上だが、26歳差という感じはしない。それだけは映画を見て不自然だけど。亡霊というところがどうかと言えば言えるけど、非常に美しい怪異譚だと思う。
(「愛の亡霊」)
 続いて83年の「戦場のメリークリスマス」。カンヌで受賞が期待されたが、実際は今村昌平「楢山節考」がパルムドールで、大島は無冠に終わった。まあ「楢山」も今村のベスト5に入らないが、あえて選べば「戦メリ」よりはふさわしいと思う。(僕は監督賞のタルコフスキー「ノスタルジア」が最高賞だと思う。)原作は南アフリカ生まれのアフリカーナ―、ヴァン・デル・ポスト「影の獄にて」で、第2次大戦中の日本の捕虜収容所体験を描いている。主人公にデヴィッド・ボウイ、所長に坂本龍一、「粗暴な軍曹」にビートたけしという配役で、日欧の文化的衝突を描く。そこが面白いと言えば面白いけど、このテーマに関しては様々な言説をすでに読んでいるので、解説を絵解きされるような気がしてくる。一番有名な「戦場にかける橋」と比べても、製作者の考え方や意図がよくつかめない。小さな事件の中に、大きな見取り図を描き、後は観客が考えるべきという言い方もできるか。
(「戦場のメリークリスマス)」
 87年の「マックス・モン・アムール」は、シャーロット・ランプリングが出ている。しかし、人間とチンパンジーの恋愛という、なんでそういう映画を作るのか、僕には全く意図が判らない映画だった。テーマの問題性を共有できないので、全然面白くない。映画にとって、俳優の魅力や撮影、音楽などの力は大きいが、「テーマ」、映画世界の内容そのものを共有できることが一番大切と判る映画だ。

 最後の映画となったのは、2000年公開の「御法度」(ごはっと)。新選組に美少年松田龍平が入隊してきて、心落ち着かぬ面々を描く歴史秘話である。同性愛を正面から描いた大島唯一の映画だが、あまりピンとこない。松田龍平はいいんだけど、懸想する浅野忠信や田口トモロヲがなぜ執着するかがよく判らない。恋愛映画ではないから描かないというような態度で、新撰組内部の統率問題ばかりが描かれる。そこがあまたある「新撰組映画」の中でも際立った特徴だが、面白いと言えるほどの視点だろうか。その間の隊内情報がセリフや字幕で説明されてしまうのも興をそぐ。崔洋一の近藤勇、ビートたけしの土方歳三は、ミスキャストではないのか。生の本人のイメージが強すぎて、見ていてどうしても近藤、土方に思えないのである。面白い点もいっぱいある映画なのだが、闘病中で創作力の衰えが否めないのではないか。当時から僕はもう大島映画をは見られないのではないかと心配だった。
(「御法度」)
コメント
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