4月28日に、政府主催の「主権回復記念式典」を突然行うと言う話。去年なら、まだ60年と言う周年にあたったけれど、今年やる意味は何か。しかし、これが自民党の選挙公約にあったというのは当時は気付かなかった。この日を祝日にしようという動きも前からあって、そういう右派の言論が安倍内閣に取り入れられたということである。
1951年9月の「サンフランシスコ講和会議」で講和条約が結ばれ、翌年4月28日に発効した。そこで「主権が回復した」というのだが、この条約で沖縄県の米軍統治が認められ、長い苦難の年月が続く。だから、沖縄にとっては「屈辱の日」と呼ばれた。長いこと4月28日は「沖縄デー」になっていて、「祖国復帰運動」の記念日だった。沖縄最北端の辺戸岬(へどみさき)には記念碑があるけど、沖縄から出た船と鹿児島県最南端の与論島の船が海上で交流したものである。そういう意味で、沖縄から強い反発が出ているのもよく判るし共感もするが、「本土」の側で沖縄のことしか触れないのが気になっている。「沖縄に配慮しないのか」と言うのは正しいが、これだけでは政府に反対するのの沖縄を利用しているという感じもしてしまう。
では何を考えておくべきかと言うと、北方領土問題や在日朝鮮人・台湾人問題もあるけど、一番は日米安保をどう考えるか、憲法改正をどう考えるかと言う問題だと思う。本来は、政府主催でやるべきは「憲法記念日の式典」であるはずである。仮に改憲の立場に立つ政府だとしても、現にある憲法が施行された日に式典を行う方が正しいだろう。今は5月3日と言う日は、護憲派、改憲派がそれぞれ集会を開く「政治集会の日」になっているが、「国民の祝日」なんだから政府が主催する方が自然である。
今ここで書くのは、今後どうするべきかなどと言う大きな議論をしたいからではない。戦後史に関してあまり触れられていない問題があるので、認識をクリアーにしたいからである。だから一つ一つの問題の記述は簡単にする。まず北方領土問題。サンフランシスコ講和会議には、中国は招かれず(北京の人民共和国も、台湾に逃れた民国もどちらも招かれず。なお、その時点でアメリカは台湾を承認していたが、英国は中華人民共和国を承認していた)、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアの3国は参加したが署名しなかった。だからソ連のとの間には平和条約が存在しなかった。ソ連崩壊後もその状態が続いているので、日本は「主権回復」どころか、法的な戦争状態がまだ完全には終結していない。北方領土の島の一つ一つの帰属問題を超えて、主要交戦国の一つとまだ平和条約がないという状態をもって、「主権回復」とうたっていいのだろうか。安倍首相は記念式典後に訪ロするわけだが。
ところで、講和条約で日本は植民地を放棄した。千島や南樺太は法的には「内地」に所属したわけだが、「台湾」「朝鮮」は「外地」(つまりは植民地)として大日本帝国憲法の適用外とされた。しかし、大日本帝国の支配下にあったわけで、そこの住民は法的には「日本国籍」を持っていたわけである。日本統治下に戸籍が作られ、そこに載っている人が、諸事情で「本土」に移り住んだ場合は、「朝鮮籍」「台湾籍」という扱いとなる。台湾、朝鮮では選挙はないが、本土に移り住んだ台湾籍、朝鮮籍の人には選挙権があった。被選挙権もあり、衆議院議員になった人物もいる。
では、日本に住む旧植民地出身者の扱いはどうなったかと言うと、日本国憲法が施行される前日、1947年5月2日に、最後の勅令(大日本帝国憲法には、天皇大権として法律に代わり勅令(ちょくれい)を出す権限が決められていた)として「外国人登録令」が作られた。そこで台湾、朝鮮出身者は「当分の間、外国人とみなす」とされたのである。(外国人と言っても、何国の人かと言われたら、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も建国以前なのだから答えようがないわけだが。)
そして、1952年4月28日、まさに講和条約発効の日に、その「登録令」は効力を失い、「外国人登録法」に切り替えられた。しかし、内容は変わらない。(この外国人登録法は、2012年7月9日に、新入管法施行により失効した。新法は正式には、「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法律」)多くの植民地旧宗主国では、植民地に独立を与える時点で国籍決定の自由を与えている。だから本国に住んでいる人の中には、イギリスやフランスの国籍を取得した人がたくさんいる。でも日本はそういう対応を取らず、一方的に全員を外国人扱いとしてしまった。日本は国籍取得を血統主義(親が日本国籍なら、子も日本国籍)としているので、日本にはまだ数多くの「在日韓国・朝鮮人」がいるわけである。一方的に国籍離脱を強行したため、戦死、戦傷した台湾、朝鮮出身旧日本兵に対する恩給が支払われないままになったという不条理も起こった。
そういうような問題もあるけれど、一番大きいのは日米安保条約の存在だろう。日米地位協定の内容など、本当に主権が回復しているのかという感じもあるけど、そういう問題の前に日米安保自体が問題なのではないか。日本を占領していた軍が講和で帰国するのが「主権回復」なのではないか。前日まで「占領軍」だった米軍が、翌日から「進駐軍」と名を変えて、安保条約で合法的に日本に居続けるというのでは、どこが「主権回復」なのだろうか。それは講和会議の吉田茂全権も判っていて、講和条約は「超党派」で署名したいということで、自由党(吉田の所属した当時の与党)以外に、国民民主党や参議院の緑風会からも署名している。しかし、講和会議直後に行われた安保条約の調印式では吉田茂しか署名しなかった。後の首相池田勇人が同行していたが、「君の将来に傷がつくかもしれない」と吉田一人が署名したというのは有名なエピソードである。左翼はもちろん安保に反対だが、右翼から見ても憲法改正、再軍備、自主国防がスローガンだから、日米安保は多くの日本人の疑問とするところだった。歴史的に定着してしまった感のある日米安保で、僕も現時点では「直ちに廃棄する」という主張をしないのだが、素朴に考えてそれまでの占領軍に「これからも守ってもらう」と言うこと自体に、なんだかおかしい、本当に独立したのかという思いを持つ国民が多かったのである。
では、それなのになぜ安倍首相を初め、現時点では「保守派」が「主権回復」を言い立てるのだろうか。それはつまり憲法改正ということだろう。1952年4月に主権回復したということでは、占領下にできた日本国憲法は主権の制限下にできた「欠陥憲法」だというリクツを言いたいのだろう。これが僕には判らない。全く価値観が共有できない。まず、その後「主権回復」後に憲法改正をしなかったのは、保守勢力が改正したかったのに国民世論が反対してできなかったのであり、まさに主権回復後の国民の意思により現行憲法が続いてきたわけである。
しかし、安倍首相はじめ保守派の中ではそう見えていない。憲法改正が「国会の3分の2で発議」とハードルが高いために改正できなかっただけだと思っているわけである。3分の1程度の社会党支持者のせいで改正できなかった「屈辱の歴史」と見えているわけである。でも、もし50年代に憲法9条が改正され、自衛隊が国防軍となり集団的自衛権が認められていたらどうなっていただろう。ベトナム戦争に日本も参戦し、多くの「国防軍」兵士が戦死していたのである。ベトナム戦争には、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンも参戦している。当然、集団的自衛権を認めるアメリカの同盟国たる日本軍も、アメリカの要求を拒めるはずがない。かつて仏印進駐の経験があり地理が判る旧軍関係者は喜んで参戦しただろう。また、イラク戦争にもアメリカ、イギリスとともに参戦しただろう。当時の小泉政権はブッシュ大統領の開戦を強く支持していたから、憲法の制約がなければ参戦する方が自然である。
このように、ベトナムやイラクで多くの日本人が戦死していた方が良かったという考えにどれだけの人が賛成するのだろうか。「主権回復」=「主権制限下の憲法は改正すべき」の行く着くところは、そういう戦後認識だと僕は思う。
1951年9月の「サンフランシスコ講和会議」で講和条約が結ばれ、翌年4月28日に発効した。そこで「主権が回復した」というのだが、この条約で沖縄県の米軍統治が認められ、長い苦難の年月が続く。だから、沖縄にとっては「屈辱の日」と呼ばれた。長いこと4月28日は「沖縄デー」になっていて、「祖国復帰運動」の記念日だった。沖縄最北端の辺戸岬(へどみさき)には記念碑があるけど、沖縄から出た船と鹿児島県最南端の与論島の船が海上で交流したものである。そういう意味で、沖縄から強い反発が出ているのもよく判るし共感もするが、「本土」の側で沖縄のことしか触れないのが気になっている。「沖縄に配慮しないのか」と言うのは正しいが、これだけでは政府に反対するのの沖縄を利用しているという感じもしてしまう。
では何を考えておくべきかと言うと、北方領土問題や在日朝鮮人・台湾人問題もあるけど、一番は日米安保をどう考えるか、憲法改正をどう考えるかと言う問題だと思う。本来は、政府主催でやるべきは「憲法記念日の式典」であるはずである。仮に改憲の立場に立つ政府だとしても、現にある憲法が施行された日に式典を行う方が正しいだろう。今は5月3日と言う日は、護憲派、改憲派がそれぞれ集会を開く「政治集会の日」になっているが、「国民の祝日」なんだから政府が主催する方が自然である。
今ここで書くのは、今後どうするべきかなどと言う大きな議論をしたいからではない。戦後史に関してあまり触れられていない問題があるので、認識をクリアーにしたいからである。だから一つ一つの問題の記述は簡単にする。まず北方領土問題。サンフランシスコ講和会議には、中国は招かれず(北京の人民共和国も、台湾に逃れた民国もどちらも招かれず。なお、その時点でアメリカは台湾を承認していたが、英国は中華人民共和国を承認していた)、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアの3国は参加したが署名しなかった。だからソ連のとの間には平和条約が存在しなかった。ソ連崩壊後もその状態が続いているので、日本は「主権回復」どころか、法的な戦争状態がまだ完全には終結していない。北方領土の島の一つ一つの帰属問題を超えて、主要交戦国の一つとまだ平和条約がないという状態をもって、「主権回復」とうたっていいのだろうか。安倍首相は記念式典後に訪ロするわけだが。
ところで、講和条約で日本は植民地を放棄した。千島や南樺太は法的には「内地」に所属したわけだが、「台湾」「朝鮮」は「外地」(つまりは植民地)として大日本帝国憲法の適用外とされた。しかし、大日本帝国の支配下にあったわけで、そこの住民は法的には「日本国籍」を持っていたわけである。日本統治下に戸籍が作られ、そこに載っている人が、諸事情で「本土」に移り住んだ場合は、「朝鮮籍」「台湾籍」という扱いとなる。台湾、朝鮮では選挙はないが、本土に移り住んだ台湾籍、朝鮮籍の人には選挙権があった。被選挙権もあり、衆議院議員になった人物もいる。
では、日本に住む旧植民地出身者の扱いはどうなったかと言うと、日本国憲法が施行される前日、1947年5月2日に、最後の勅令(大日本帝国憲法には、天皇大権として法律に代わり勅令(ちょくれい)を出す権限が決められていた)として「外国人登録令」が作られた。そこで台湾、朝鮮出身者は「当分の間、外国人とみなす」とされたのである。(外国人と言っても、何国の人かと言われたら、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も建国以前なのだから答えようがないわけだが。)
そして、1952年4月28日、まさに講和条約発効の日に、その「登録令」は効力を失い、「外国人登録法」に切り替えられた。しかし、内容は変わらない。(この外国人登録法は、2012年7月9日に、新入管法施行により失効した。新法は正式には、「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法律」)多くの植民地旧宗主国では、植民地に独立を与える時点で国籍決定の自由を与えている。だから本国に住んでいる人の中には、イギリスやフランスの国籍を取得した人がたくさんいる。でも日本はそういう対応を取らず、一方的に全員を外国人扱いとしてしまった。日本は国籍取得を血統主義(親が日本国籍なら、子も日本国籍)としているので、日本にはまだ数多くの「在日韓国・朝鮮人」がいるわけである。一方的に国籍離脱を強行したため、戦死、戦傷した台湾、朝鮮出身旧日本兵に対する恩給が支払われないままになったという不条理も起こった。
そういうような問題もあるけれど、一番大きいのは日米安保条約の存在だろう。日米地位協定の内容など、本当に主権が回復しているのかという感じもあるけど、そういう問題の前に日米安保自体が問題なのではないか。日本を占領していた軍が講和で帰国するのが「主権回復」なのではないか。前日まで「占領軍」だった米軍が、翌日から「進駐軍」と名を変えて、安保条約で合法的に日本に居続けるというのでは、どこが「主権回復」なのだろうか。それは講和会議の吉田茂全権も判っていて、講和条約は「超党派」で署名したいということで、自由党(吉田の所属した当時の与党)以外に、国民民主党や参議院の緑風会からも署名している。しかし、講和会議直後に行われた安保条約の調印式では吉田茂しか署名しなかった。後の首相池田勇人が同行していたが、「君の将来に傷がつくかもしれない」と吉田一人が署名したというのは有名なエピソードである。左翼はもちろん安保に反対だが、右翼から見ても憲法改正、再軍備、自主国防がスローガンだから、日米安保は多くの日本人の疑問とするところだった。歴史的に定着してしまった感のある日米安保で、僕も現時点では「直ちに廃棄する」という主張をしないのだが、素朴に考えてそれまでの占領軍に「これからも守ってもらう」と言うこと自体に、なんだかおかしい、本当に独立したのかという思いを持つ国民が多かったのである。
では、それなのになぜ安倍首相を初め、現時点では「保守派」が「主権回復」を言い立てるのだろうか。それはつまり憲法改正ということだろう。1952年4月に主権回復したということでは、占領下にできた日本国憲法は主権の制限下にできた「欠陥憲法」だというリクツを言いたいのだろう。これが僕には判らない。全く価値観が共有できない。まず、その後「主権回復」後に憲法改正をしなかったのは、保守勢力が改正したかったのに国民世論が反対してできなかったのであり、まさに主権回復後の国民の意思により現行憲法が続いてきたわけである。
しかし、安倍首相はじめ保守派の中ではそう見えていない。憲法改正が「国会の3分の2で発議」とハードルが高いために改正できなかっただけだと思っているわけである。3分の1程度の社会党支持者のせいで改正できなかった「屈辱の歴史」と見えているわけである。でも、もし50年代に憲法9条が改正され、自衛隊が国防軍となり集団的自衛権が認められていたらどうなっていただろう。ベトナム戦争に日本も参戦し、多くの「国防軍」兵士が戦死していたのである。ベトナム戦争には、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンも参戦している。当然、集団的自衛権を認めるアメリカの同盟国たる日本軍も、アメリカの要求を拒めるはずがない。かつて仏印進駐の経験があり地理が判る旧軍関係者は喜んで参戦しただろう。また、イラク戦争にもアメリカ、イギリスとともに参戦しただろう。当時の小泉政権はブッシュ大統領の開戦を強く支持していたから、憲法の制約がなければ参戦する方が自然である。
このように、ベトナムやイラクで多くの日本人が戦死していた方が良かったという考えにどれだけの人が賛成するのだろうか。「主権回復」=「主権制限下の憲法は改正すべき」の行く着くところは、そういう戦後認識だと僕は思う。