去年は書かなかったけど、今年は年度末の感想を書いておきたい。なかなかまとまったことを言うのが難しいので、個別の問題は書いてもいいけど自分のまとめはあまり書きたくなかった。
僕が退職してまず思ったことは「深い心の平安」が得られたということである。これがよく判ってもらえないかもしれないので、本当は黙っていたい。でも、人が何かをしようかという時、「心の平安」だけではダメで、「時間」「お金」「健康」に加えて「突き動かされるような思い」がないと最初の一歩が出ない。何かするというのは、もちろん食事とか睡眠ではなく、例えば世界一周をするというような、本人にとって大事件であるような出来事のことである。
教員時代にはむろん「時間」がなかった。目の前にあるしなければならないことに追われて生きていたわけである。辞めれば「時間」はできるはずだが、「お金」はなくなる。また震災ボランティアに行って判ったけど、もう「健康」というか、別に病気ではないから健康に問題はないけど、「若さ」とでも言うか、何かをやるためにはもう退職が遅かったのかもしれないくらいである。
基本的には「お金」の問題は大きい。お金を節約しないと思うと、なかなか大きな旅行や演劇、コンサートなどに行けない。歌舞伎やミュージカルやオペラなんかは、まあ見なくてもいいんだけど見たいとは思う。でも控えている。舞台にお金を掛けると、温泉に行けなくなる。たまに温泉に行くのは、身体が求める感じで、特に最近は肩が痛いのでもう毎日入りたい。いい温泉に入ると、やはりかなり違う感じになる。さて財産管理だけど、僕は不動産には投資しないことにしている。東京は人が集まるから不動産投資は普通ならある程度安全な投資とも言えるだろう。でもいつ地震があるか判らないと思っていて、倒壊はしないにしても、買ったマンションにひびが入ったとか、地盤が液状化したとか、起こらないとは言えない。自分で事前によく調査しても判らないから怖いと思っちゃうのである。不動産はかなり高いし。株とか投資信託は、投資した分がチャラになる可能性はあるけど、それだけと考えれば済む。株の信用取引をしてないなら、自分が損するだけである。ところで、この金融緩和でインフレが起きるのだろうか。よく判らないのだが、インフレというのは要するに預金のマイナス金利である。インフレ可能性を考えると、インフレに連動すると考えられる国内株や国内投資信託、そして日本経済不調もありうる以上外国投資、そして絶対安全な保証付きの年金保険等、分散して退職金を運用しないといけないと思う。そう言う情勢の中で、ヨーロッパ情勢に何かあるたび株が数十万単位で減る。一方アベノミクス相場で、株は200万位は上がっている。ただし僕が持ってる株は輸出関連企業が少なく上りが少ない。
いや、映画や温泉だけでなく、そういうことも考えているんだけど、なかなかうまくは行かない。仕方ないだろう。その中で、遺産の東電株がなくなったに等しいということは大きかった。基本的には非常に安定していたし、配当も良かった。この配当はもう二度と得られないのではないかと思う。原発問題で発言している人の中に、株主が何の責任も取らなくていいのかということを言う人がいる。しかし株価が暴落し配当もなくなったということが株主の責任の取り方ではないのか。株というのは、高く売るか配当を得るために買う人が多いわけなんだから。東京都初め自治体の持っている株が多いわけで、東京都はおかげで交通事業が大赤字になってしまった。(配当を交通の収入にしていたので。)株主だけ恵まれているなどという人がなぜいるのか、僕にはよく判らない。
退職を最終的に考えたのは2011年の正月あたりだが、その時期は東電株をかなり充てにしていた。教員免許更新制に関して裁判をすると言っていたのは、そういう原資があったからである。それが辞める直前に「3・11」が起こり、見る見る間に財産が減った。それでも裁判したいという気もしばらくはあったのだが、日本社会は「3・11」以外の問題は考えないという感じの時期がかなり続いたので、時機を逸してしまった。負けることが決まってる裁判は、時期を得て大きな問題にできる勢いがないと提訴できない。日本では裁判官の改革をしてないので、とんでもない司法判断がよくある、最近の福井事件再審取り消し決定やカネミ油症裁判のことはブログで批判した。こういう判断が出るくらいだから、よほどの決心がないと違憲訴訟なんか始められない。そのうちに安倍政権が復活するというありえないことが起こってしまった。現実的に考えれば、教員免許更新制を廃止、または見直しさせる見通しは完全に消え去ったと思われる。それどころか、道徳の教科化、教科書検定の近隣諸国条項廃止など、教育基本法改悪、教員免許更新制がなった後の具体的な仕上げ的な改悪措置を止められるかどうかも厳しい見通しを持たざるを得ない。どこまで行ってしまうのか、「教育再生」の名の下に日本の教育は完全に「上意下達」の世界になっていくと思わざるを得ない。
僕が市民運動や社会問題にかかわる人と話すと、ほとんどの人が「東京は国旗国歌問題で大変でしょう」と言われることが多い。どうしてそういうのか判らないが。新聞などの報道がそれしか書いてないからかもしれない。「現場」の実態はあまりにも知られていないから。僕が思うに、東京の教育の最大の岐路は、自己申告書(勤務評定の完成)と主幹制度の他県に先駆けての導入だったと思う。時に教員の職階制の完成が一番の問題である。このことは僕も何回か書いてるけど、また本格的に書かないといけない。昨日の東京新聞を見ると、人事異動が統括校長、校長、副校長、主幹、主任、教員の6段階に分けて発表されている。見にくくて仕方ない。これが何のためなのか、読んでる人はほとんど知らないのである。(主幹って何ですかと言う人の声を何人か聞いている。)
教員免許更新制の最大の問題は、「教員の能力」と言うものをそれだけ取り出して「資質向上」できると考えていることにある。職階制や自己申告書の思想の国家的完成版である。だから、資質向上を個人の教員に求め、それぞれ個々に目標を掲げさせ、バラバラに競って上の職階をめざせばいい教員になるという考え方になる。学校は「団体競技」なのに、チームとしての力をいかにして伸ばすかという発想はしないのである。そして現に、各教員がバラバラに頑張ろうとして、頑張り過ぎたり、頑張り切れずに切れてしまったり、お互いに責任転嫁しあったりする状況になっている。自分の学校は違うという人もいるかもしれないが、どんな学校でも昔に比べれば自由の気風が失われていっているのではないか。言われたことだけやるという作風が学校にはびこっていく。それで日本の行方が心配にならないのかと思うが、大阪の事例などを見ると、そういう「言われたことだけやる教員に育てられる、言われたことしかできない生徒」を自覚的に育成しようということなんだと僕は思ってる。そういう「衆愚」を導く「リーダー育成」の方だけしっかりやればいいと言う考えなんだと思う。
僕が不思議なのは、昔は組合で活躍していた人なんかが、管理職になってしまう場合があることだ。では何で教育行政に反対していたのか、僕には不思議なのである。初めから反組合派だった人ならともかく。中には現場を守ろうと思って管理職になる人もいるんだろうけど、ボロボロになってしまうだけである。僕は声高に言わないし、「できるんですか」などと言うから誤解されることがあるが、現にできないものはできない。僕は自分が反対だと言ったなら、主幹にはならないものだと思うんだけど、もう現場には完全に定着してしまったのかもしれない。僕が辞めたもう一つの理由は、自分がいつまで主幹にも主任にもならなくても、自分が損するだけのシステムが完成されてしまったらしいという判断である。そういう毎年毎年悪くなって行く東京の教育環境を離れたいとかなり強く思い始めたのは、いつからだろうか。60前で辞めて嘱託にもなりたくないものだと思ってきた。教員免許更新制は「きっかけ」を作ったということだろう。
その結果、ものすごい「心の平安」は得られた。これは辞めた人しかわからないだろう。僕は学校の授業なんか、何の未練もない。人生で初めて得られた「自由」と言ってもいい。こういう生き方があったのかという思いである。だけど、思ったことはできないものだ。本はいくら読んでも読みたい本が途切れない。だから全然片付かない。その他もろもろ。書きたいことが途切れたら、このブログもあまり書かなくていいんだけど、なかなか途切れない。この2年間、映画はよく見たと思う。特に古い映画。それは2本立ての名画座やフィルムセンターなんかの安い所に行ってるということもある。でも一番大きいのは、映画監督も俳優も、もう日本の全盛期は終わったのではないかという思いである。今の映画や演劇も見たいと思うが、小津や成瀬の映画で杉村春子を見た方が(時間が)報われる感じがする。クラシック音楽がバッハやモーツァルトやベートーヴェンなど昔の人のスコアばかりやるように、映画と言うジャンルも80年代頃に終わってしまったのではないか。今は皆が映像を発信できるということが、かえって映像の奥深い魅力をなくしたのか。それは音楽も同じか。
そうして戦後と言う社会がどこでどういう曲がり角を曲がってしまったのかと言う、社会思想史的なカギが日本の戦後映画には秘められているのではないかと思う。そういう意味で見てしまうわけだ。日本はゾンビ化していると思う。映画「桐島、部活辞めるってよ」で、映画部の顧問は生徒に身近な問題を映画にせよと迫る。それは多分進路とか恋愛とか、高校生のリアルを描けと言うことなんだろう。しかし、映画部では宇宙ゾンビの映画を作っている。彼らにとってはそっちの方がリアルなのだと思う。授業中死んでいて放課後の映画撮影で生き返る映画部の生徒は、全くゾンビ映画の方がリアルなんだと思う。そういうことは去年夏の映画評で書いたけど、その頃は安倍氏が自民党総裁に当選するとは誰も思っていなかった。実際に安倍政権が復活し、5年前にやり残したことをやるといい、「教育再生」だの「集団的自衛権の容認」とか言ってるのを見ると、まさに日本はゾンビ化してしまったと思うのである。映画部の生徒の方がリアルだったのだ。そういう真にリアルな認識ができるか。まだまだ考えるべき問題は多いようだ。
僕が退職してまず思ったことは「深い心の平安」が得られたということである。これがよく判ってもらえないかもしれないので、本当は黙っていたい。でも、人が何かをしようかという時、「心の平安」だけではダメで、「時間」「お金」「健康」に加えて「突き動かされるような思い」がないと最初の一歩が出ない。何かするというのは、もちろん食事とか睡眠ではなく、例えば世界一周をするというような、本人にとって大事件であるような出来事のことである。
教員時代にはむろん「時間」がなかった。目の前にあるしなければならないことに追われて生きていたわけである。辞めれば「時間」はできるはずだが、「お金」はなくなる。また震災ボランティアに行って判ったけど、もう「健康」というか、別に病気ではないから健康に問題はないけど、「若さ」とでも言うか、何かをやるためにはもう退職が遅かったのかもしれないくらいである。
基本的には「お金」の問題は大きい。お金を節約しないと思うと、なかなか大きな旅行や演劇、コンサートなどに行けない。歌舞伎やミュージカルやオペラなんかは、まあ見なくてもいいんだけど見たいとは思う。でも控えている。舞台にお金を掛けると、温泉に行けなくなる。たまに温泉に行くのは、身体が求める感じで、特に最近は肩が痛いのでもう毎日入りたい。いい温泉に入ると、やはりかなり違う感じになる。さて財産管理だけど、僕は不動産には投資しないことにしている。東京は人が集まるから不動産投資は普通ならある程度安全な投資とも言えるだろう。でもいつ地震があるか判らないと思っていて、倒壊はしないにしても、買ったマンションにひびが入ったとか、地盤が液状化したとか、起こらないとは言えない。自分で事前によく調査しても判らないから怖いと思っちゃうのである。不動産はかなり高いし。株とか投資信託は、投資した分がチャラになる可能性はあるけど、それだけと考えれば済む。株の信用取引をしてないなら、自分が損するだけである。ところで、この金融緩和でインフレが起きるのだろうか。よく判らないのだが、インフレというのは要するに預金のマイナス金利である。インフレ可能性を考えると、インフレに連動すると考えられる国内株や国内投資信託、そして日本経済不調もありうる以上外国投資、そして絶対安全な保証付きの年金保険等、分散して退職金を運用しないといけないと思う。そう言う情勢の中で、ヨーロッパ情勢に何かあるたび株が数十万単位で減る。一方アベノミクス相場で、株は200万位は上がっている。ただし僕が持ってる株は輸出関連企業が少なく上りが少ない。
いや、映画や温泉だけでなく、そういうことも考えているんだけど、なかなかうまくは行かない。仕方ないだろう。その中で、遺産の東電株がなくなったに等しいということは大きかった。基本的には非常に安定していたし、配当も良かった。この配当はもう二度と得られないのではないかと思う。原発問題で発言している人の中に、株主が何の責任も取らなくていいのかということを言う人がいる。しかし株価が暴落し配当もなくなったということが株主の責任の取り方ではないのか。株というのは、高く売るか配当を得るために買う人が多いわけなんだから。東京都初め自治体の持っている株が多いわけで、東京都はおかげで交通事業が大赤字になってしまった。(配当を交通の収入にしていたので。)株主だけ恵まれているなどという人がなぜいるのか、僕にはよく判らない。
退職を最終的に考えたのは2011年の正月あたりだが、その時期は東電株をかなり充てにしていた。教員免許更新制に関して裁判をすると言っていたのは、そういう原資があったからである。それが辞める直前に「3・11」が起こり、見る見る間に財産が減った。それでも裁判したいという気もしばらくはあったのだが、日本社会は「3・11」以外の問題は考えないという感じの時期がかなり続いたので、時機を逸してしまった。負けることが決まってる裁判は、時期を得て大きな問題にできる勢いがないと提訴できない。日本では裁判官の改革をしてないので、とんでもない司法判断がよくある、最近の福井事件再審取り消し決定やカネミ油症裁判のことはブログで批判した。こういう判断が出るくらいだから、よほどの決心がないと違憲訴訟なんか始められない。そのうちに安倍政権が復活するというありえないことが起こってしまった。現実的に考えれば、教員免許更新制を廃止、または見直しさせる見通しは完全に消え去ったと思われる。それどころか、道徳の教科化、教科書検定の近隣諸国条項廃止など、教育基本法改悪、教員免許更新制がなった後の具体的な仕上げ的な改悪措置を止められるかどうかも厳しい見通しを持たざるを得ない。どこまで行ってしまうのか、「教育再生」の名の下に日本の教育は完全に「上意下達」の世界になっていくと思わざるを得ない。
僕が市民運動や社会問題にかかわる人と話すと、ほとんどの人が「東京は国旗国歌問題で大変でしょう」と言われることが多い。どうしてそういうのか判らないが。新聞などの報道がそれしか書いてないからかもしれない。「現場」の実態はあまりにも知られていないから。僕が思うに、東京の教育の最大の岐路は、自己申告書(勤務評定の完成)と主幹制度の他県に先駆けての導入だったと思う。時に教員の職階制の完成が一番の問題である。このことは僕も何回か書いてるけど、また本格的に書かないといけない。昨日の東京新聞を見ると、人事異動が統括校長、校長、副校長、主幹、主任、教員の6段階に分けて発表されている。見にくくて仕方ない。これが何のためなのか、読んでる人はほとんど知らないのである。(主幹って何ですかと言う人の声を何人か聞いている。)
教員免許更新制の最大の問題は、「教員の能力」と言うものをそれだけ取り出して「資質向上」できると考えていることにある。職階制や自己申告書の思想の国家的完成版である。だから、資質向上を個人の教員に求め、それぞれ個々に目標を掲げさせ、バラバラに競って上の職階をめざせばいい教員になるという考え方になる。学校は「団体競技」なのに、チームとしての力をいかにして伸ばすかという発想はしないのである。そして現に、各教員がバラバラに頑張ろうとして、頑張り過ぎたり、頑張り切れずに切れてしまったり、お互いに責任転嫁しあったりする状況になっている。自分の学校は違うという人もいるかもしれないが、どんな学校でも昔に比べれば自由の気風が失われていっているのではないか。言われたことだけやるという作風が学校にはびこっていく。それで日本の行方が心配にならないのかと思うが、大阪の事例などを見ると、そういう「言われたことだけやる教員に育てられる、言われたことしかできない生徒」を自覚的に育成しようということなんだと僕は思ってる。そういう「衆愚」を導く「リーダー育成」の方だけしっかりやればいいと言う考えなんだと思う。
僕が不思議なのは、昔は組合で活躍していた人なんかが、管理職になってしまう場合があることだ。では何で教育行政に反対していたのか、僕には不思議なのである。初めから反組合派だった人ならともかく。中には現場を守ろうと思って管理職になる人もいるんだろうけど、ボロボロになってしまうだけである。僕は声高に言わないし、「できるんですか」などと言うから誤解されることがあるが、現にできないものはできない。僕は自分が反対だと言ったなら、主幹にはならないものだと思うんだけど、もう現場には完全に定着してしまったのかもしれない。僕が辞めたもう一つの理由は、自分がいつまで主幹にも主任にもならなくても、自分が損するだけのシステムが完成されてしまったらしいという判断である。そういう毎年毎年悪くなって行く東京の教育環境を離れたいとかなり強く思い始めたのは、いつからだろうか。60前で辞めて嘱託にもなりたくないものだと思ってきた。教員免許更新制は「きっかけ」を作ったということだろう。
その結果、ものすごい「心の平安」は得られた。これは辞めた人しかわからないだろう。僕は学校の授業なんか、何の未練もない。人生で初めて得られた「自由」と言ってもいい。こういう生き方があったのかという思いである。だけど、思ったことはできないものだ。本はいくら読んでも読みたい本が途切れない。だから全然片付かない。その他もろもろ。書きたいことが途切れたら、このブログもあまり書かなくていいんだけど、なかなか途切れない。この2年間、映画はよく見たと思う。特に古い映画。それは2本立ての名画座やフィルムセンターなんかの安い所に行ってるということもある。でも一番大きいのは、映画監督も俳優も、もう日本の全盛期は終わったのではないかという思いである。今の映画や演劇も見たいと思うが、小津や成瀬の映画で杉村春子を見た方が(時間が)報われる感じがする。クラシック音楽がバッハやモーツァルトやベートーヴェンなど昔の人のスコアばかりやるように、映画と言うジャンルも80年代頃に終わってしまったのではないか。今は皆が映像を発信できるということが、かえって映像の奥深い魅力をなくしたのか。それは音楽も同じか。
そうして戦後と言う社会がどこでどういう曲がり角を曲がってしまったのかと言う、社会思想史的なカギが日本の戦後映画には秘められているのではないかと思う。そういう意味で見てしまうわけだ。日本はゾンビ化していると思う。映画「桐島、部活辞めるってよ」で、映画部の顧問は生徒に身近な問題を映画にせよと迫る。それは多分進路とか恋愛とか、高校生のリアルを描けと言うことなんだろう。しかし、映画部では宇宙ゾンビの映画を作っている。彼らにとってはそっちの方がリアルなのだと思う。授業中死んでいて放課後の映画撮影で生き返る映画部の生徒は、全くゾンビ映画の方がリアルなんだと思う。そういうことは去年夏の映画評で書いたけど、その頃は安倍氏が自民党総裁に当選するとは誰も思っていなかった。実際に安倍政権が復活し、5年前にやり残したことをやるといい、「教育再生」だの「集団的自衛権の容認」とか言ってるのを見ると、まさに日本はゾンビ化してしまったと思うのである。映画部の生徒の方がリアルだったのだ。そういう真にリアルな認識ができるか。まだまだ考えるべき問題は多いようだ。