尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」

2013年04月11日 22時01分53秒 |  〃  (新作外国映画)
 ミヒャエル・ハネケ監督の「愛、アムール」という映画は、昨年のカンヌ映画祭最高賞(パルムドール)を受賞した作品である。アカデミー賞でも外国語映画賞を受賞したほか、なんと作品賞や主演女優賞、監督賞、脚本賞などにノミネートされた。外国作品がノミネートされるのは非常に珍しい。特に主演女優のエマニュエル・リヴァは史上最高齢の85歳でノミネートされた。

 という立派な映画なのだが、一見した時には「受け入れがたい」と思う人が日本では多いのではないだろうか。それは昨年公開されたペドロ・アルモドバル監督の「私が、生きる肌」のような受け入れ難さとはまた違う。筋立てもそうだけど、細部の細々とした事実への疑問、芸術と言うよりもむしろ福祉政策への疑問などがいっぱい浮かんできてしまうのである。そこで、自分に見落としがあるのではないかと思い、もう一回見てみた。その結果、この映画が非常にうまく仕組まれた、優れた映画であることが再確認できた。しかし、この映画の基本的世界、展開には僕は納得できない。映画内でも娘のイザベル・ユペールは納得していないように描かれているが、僕も同じような感じ。

 映画の中身に入る前に、僕および多くの日本人に疑問だと思う部分がある。フランスには介護保険はないのか。そして、フランスでは介護、看護を頼む場合、一回ごとに個別に支払いをするのか。それでは領収書はどうなるのか。所得の申告はどうするのか。日本の生活者が見れば、すぐ疑問にとらわれ映画に熱中できなくなると思うが、パンフに解説がない。そういうことこそ教えてもらいたい。日本だったら、まず介護保険の領分の話であり、在宅介護はいいけど、こういう風な個人的な夫婦の問題であってはならない。そういう風に思ってきた問題を「愛の極致」みたいに言ってもらっては困る、と僕は思ってしまうのである。

 これはある二人の成功した音楽関係者の老夫婦の物語である。他には娘役のイザベル・ユペールの他、その夫、弟子のピアニスト、買い物を頼む老夫婦、看護師など何人か登場するが、ほとんどは二人だけである。場所もパリの老夫婦の高級マンションにほぼ限られている。ただ部屋はかなり多く、カメラは静かにドラマを見つめることが多く(ラスト近くになると、パンも多くなるが、最初の頃はほとんどカメラが動かない)、非常に静かな映画だが、画面は常に緊迫している。その緊張感に満ちた世界は魅惑的で、やはりこの映画は非常に成功した映画だと判る。

 その老夫婦を演じた俳優は、妻がエマニュエル・リヴァ(1927~)、夫がジャン・ルイ・トランティニャン(1930~)で、どちらも80歳を超えている。特にエマニュエル・リヴァは確かに奇跡的な名演で、素晴らしいの一語。この人は、1959年のアラン・レネ監督「二十四時間の情事」(ヒロシマ・モナムール)で主演して、岡田英次と「私はヒロシマを見た」「君は見なかった」とやり取りしたあの女優である。その後は映画より舞台で活躍してきたらしいが、数年前に59年当時の広島の写真がみつかり日本でも写真展を開き来日した。吉田喜重回顧上映がパリで行われた時に、「秋津温泉」を見に行って岡田茉莉子と知り合う話が岡田茉利子の自伝に出てくる。そういう日本との縁も深い女優が、もう胸乳も露わに「老い」を演じ切る壮絶な演技には驚き入るしかない。

 夫のジャン・ルイ・トランティニャンは「男と女」の主役だったハンサムな名優だったが、もう80歳を超えていたのか。ある種かたくなな老人を演じきっている。70年前後の「Z」「暗殺の森」「狼は天使の匂い」なんかでも渋い名演を見せ、アラン・ドロンなどのような人気スターというよりも、どちらかと言うとアートシネマの主役が似合った人である。トリュフォーの遺作「日曜日が待ち遠しい」も忘れられない。そういう映画的記憶を背負った二人の名老優が人生の最期を演じる。それだけですごい。監督は前作「白いリボン」でカンヌのパルムドールを得たハネケ。(つまり、ハネケ監督は今村昌平、クストリッツァ、ダルデンヌ兄弟に続きパルムドール2回の記録となった。)期待はいやがうえにも高まる。

 映画はある閉ざされた部屋を警察(だと思うが)が壊していく場面から始まる。老女の死体がある。老人の映画だとは大体知ってみているので、いわゆる「孤独死」のような話かと思う。続いて音楽会のシーン。映画は観客ばかり映し、ピアニストを映さない。一体なんなんだという場面である。続いて老夫婦が帰宅すると、カギが壊されている。空き巣か?その真相は明らかにされない。このように謎めいたシーンから始まり、観客は何が何だかというようにミスリードされていく。ハネケの映画は常にそうだけど、「隠された記憶」(カンヌ監督賞)など最後までよく判らないままで、それも困る。「愛、アムール」はそこまで不親切な映画ではなく、一見普通の老夫婦の片方が病気になり、どんどん悪くなり、困った状況になるという「老老介護」の状況を教える社会派映画のごとき展開をしていく。この映画では、妻が病気になる。病院は二度と嫌だと言うから、夫がかいがいしく世話をする。これは普通逆である。夫の方が年上の夫婦の方が多いうえ、酒やたばこの影響も妻より夫の方に高い場合が多いから、夫が先にガンや脳出血、肝臓病などになることが多いだろう。でも夫が倒れると、身体的に非力な妻だけでは入浴などの介護が難しい、否応なく外部に頼むか、子どもがいれば子供に頼むしかないだろう。妻だけで自宅介護するというのは、やりたくてもできない。この映画の妻が成功したピアノ教師であるらしいことも含めて、「都合のいい設定」を仕組んでいる。それをいかに「仕組まれた都合よさ」に見せないようにするか。そこが腕の見せ所である。

 そうやって「夫の介護」をずっと見せておいて、最後に近くなって突然ハネケの長年の主題「暴力」がやはり現れてくる。それをどう見るかだけど、どうも「人間が身体の自由を失い、言語の自由を失い、表現の自由を失い…」そうやって「人間の尊厳」が失われていき、これでは「真の人間」ではないという感じで、娘にも見せたくないという感じになっていく。でもどうなんだろう、「神様に近づいた」「子供の頃に戻った」と日本なら考えるところ、欧米では「人間ではなくなった」と考えているのではないか。どうしてもそう思ってしまうのだが。そういう意味では、技術的には素晴らしいし、是非見るべき映画なんだけど、作品世界が成立する思想そのものに違和感を持ってしまう映画と言うといいだろうか。

 さて、夫はどうなったのか?2回見ると、ヒントは描かれていたように思った。ところで、この「愛、アムール」という邦題はどうなの?「馬から落ちて落馬した」みたいな名前だと思うけど。
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