指田文夫著「黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避」(現代企画室、1900円)を読んで、大変に面白かったし啓発されたので、是非紹介したいと思う。
黒澤明(1910~1998)は戦後日本映画を代表する映画監督だったが、没後15年経ってその存在感が薄くなってきた感がある。2010年は生誕百年で記念上映も行われたが、近年は小津安二郎や成瀬巳喜男などに比べて言及の機会も減っている。日本人の「日常生活」を描いた小津や成瀬は、今見ると「忘れられた日本人」を発見する面白さがある。黒澤映画の魅力は大がかりなアクションだったが、大規模な特撮や3D映画がつくられる現代では「七人の侍」や「用心棒」の魅力も薄れる。録音が悪い映画が多い上、時代劇では歴史用語や言い回しが若い人には理解できなくなった。
黒澤明は戦時中の1943年に「姿三四郎」でデビューし、圧倒的な好評を得た。翌年に戦意高揚映画の「一番美しく」を撮る。戦後になると、「わが青春に悔いなし」のような民主主義啓蒙映画を撮り、1948年の「酔いどれ天使」では闇市を舞台に戦後のエネルギーを描く。出発は純粋なアクションの面白さで見せ、「思想性はない」と言われたこともある。「羅生門」や「生きる」などでも、ヒューマニズムや真実の不可知性などを描いたに止まるとされた。
(黒澤明監督)
「黒澤天皇」などとまで言われた完璧主義で有名で、「七人の侍」の長期撮影は伝説となっている。「赤ひげ」を初め「用心棒」や「天国と地獄」などの主演者三船敏郎を見ると、豪快で存在感たっぷりの大人物が多い。本人も身長183センチの長身で、性格もそういう豪快型に思われてしまいやすいが、この本によれば実は繊細な心情のタイプで、自己処罰の感情を抱き続けた人物だという。
1949年に「静かなる決闘」という、ほとんど取り上げられない映画がある。一応ベストテンに入ったが、黒澤映画では失敗作と言われた。著者はこの映画を後年になって見た時の違和感をもとに、黒澤明と東宝映画の戦時中と戦後を調べ始める。そのミステリーにも似た謎解きが面白い。史料の博捜(はくそう=広範囲にわたって探すこと)が素晴らしい。様々な証言と史料から浮かび上がるのは、東宝が会社として黒澤を兵役に就かせないように工作し、結果的に黒澤は軍隊経験がなかった。日本人男性のほとんどが兵隊にとられ、映画関係者も多くが徴兵された中で、この「軍隊経験のないこと」が黒澤の負い目となり、そのことへの「自己処罰意識」が戦後の黒澤映画の基調にあるとする。
もちろんいくら探しても、徴兵猶予の文書と言うものはない。そういう「工作」があったとしても、裏で行われたわけである。その意味では実証はできない。しかし、この本により、東宝が実質的に軍需企業だったことと、黒澤明の戦後映画に「自己処罰」のテーマが隠れていることは、納得できた。晩年に「夢」という不思議な映画があった。黒澤が見た夢を映像化したという触れこみの映画の中に、戦死した兵隊の呪縛のような夢がある。戦争体験のない世代では、いくら戦争に関心があっても夢に見たりはしないだろう。戦場体験のない黒澤がそういう夢を見るのは、やはり最後の最後まで戦争で死んだ者たちへの負い目意識があったと思う。それは戦争に行った行かないだけではなく、内地にいても空襲で死んだ者もいるわけで、戦死した人々の代わりに生かされて戦後を生きたという意識は、多くの戦争世代の人間にあったものだ。
東宝が軍需企業だったというのは、単に戦争映画を作ったという意味ではない。女性映画で知られた松竹が戦争映画は得意でなかったのに対し、新興の東宝映画は軍に密着した。1942年暮れに米英との開戦1周年記念の「ハワイ・マレー沖海戦」を作ったことは有名である。後に「ゴジラ」を作ることになる円谷英二による特撮で、今でも「見るに耐える」傑作になったことは間違いない。しかし、実はもっと直接に軍の企画した映画を東宝は作り続けていた。「航空教育資料製作所」と題した組織が作られ、軍の教材映画が量産されていたのだという。教官もどんどん戦地に送られ、人材不足の軍としては、「教材映画」が欲しかったのである。
東宝は山中貞雄という逸材を戦争で失った。天才と言われた山中を東宝が引き抜き、前進座の俳優を使って「人情紙風船」を作った。しかし、東宝ではその一本のみを残して山中は日中戦争に応召し戦病死してしまう。この痛恨事に懲りて、「姿三四郎」を作った黒澤を手放さずに済むように、東宝は軍との親密なルートを使って工作したのではないか、と著者は推測する。黒澤は戦争協力映画「一番美しく」を撮ることになり、生産能力向上に全力を傾ける女性工員を迫力を持って描いた。(この映画の主演女優の矢口陽子と結婚した。)裏に何があったかはともかく、この「軍隊には行かず、戦争協力映画を作った」ことが心の傷になったというのは、僕には十分納得できる。
戦時中の東宝の有価証券報告書などを使い、戦時の東宝の特徴を分析するのも新鮮である。(案外気づかれていないが、戦争中も株式市場は機能していた。)そうして軍需でうるおった東宝は、戦後になるとその分の人材が過剰になり、復員者を含めて多くの人員整理が必要となった。これがかの「軍艦だけが来なかった」と言われた(つまり米軍の戦車は来た)、有名な「東宝争議」が他社以上に激しくなった一因だという。なるほど。
東宝の会社としての話が長くなったが、黒澤の「静かなる決闘」は三船の医者が戦場で手術中に梅毒に感染し、戦後の日本で婚約者にも告げられず悩むという話である。僕も見たときにいくら何でも不自然な感じを持った。今は公開された時代背景と別に、たまたま見る機会があって見るわけだが、並べてみると次の傑作「野良犬」と「自己処罰」という共通点がある。(拳銃を盗まれた新米警官の三船が、戦後の東京を歩き回って拳銃を探し回るという、ドキュメンタリー的刑事物語の元祖になった映画である。)その戦争の意識は、実は「醜聞」「羅生門」「生きる」と通底しているとされる。映画により、語り口がうまいとかうまく行っていないの違いはあるが。時代との関わりでは論じられてこなかった「羅生門」や「生きる」などの傑作にも、黒澤の秘められた思いが読み取れるというのである。
(「静かなる決闘」)
詳しい作品分析は本書に譲るが、その結果見えてくるのは、「誰も、戦争責任を取らなかった戦後の日本で、黒澤明は積極的に作品のなかで自分の戦争責任をとろうとした。それが彼の作品の倫理性である。」結論として言えば、「黒澤明は、近代以降の日本と日本人が、最大の歴史的事件として経験した太平洋戦争を、内面化し、映画化した、多分唯一の映画作家である。その映画は「平家物語」のごとく、国民的記録として永遠に残るに違いない。」という。「七人の侍」や「生きる」の面白さと感動は、現代の「平家物語」だったのか。なんだか深く納得できる部分が多くの人にあるのではないか。
著者の指田さんは「大衆文化評論家指田文夫のさすらい日乗」というブログで毎日のように、映画や演劇などの情報を発信している。このブログにもたびたびコメントで教示頂いている方である。
黒澤明(1910~1998)は戦後日本映画を代表する映画監督だったが、没後15年経ってその存在感が薄くなってきた感がある。2010年は生誕百年で記念上映も行われたが、近年は小津安二郎や成瀬巳喜男などに比べて言及の機会も減っている。日本人の「日常生活」を描いた小津や成瀬は、今見ると「忘れられた日本人」を発見する面白さがある。黒澤映画の魅力は大がかりなアクションだったが、大規模な特撮や3D映画がつくられる現代では「七人の侍」や「用心棒」の魅力も薄れる。録音が悪い映画が多い上、時代劇では歴史用語や言い回しが若い人には理解できなくなった。
黒澤明は戦時中の1943年に「姿三四郎」でデビューし、圧倒的な好評を得た。翌年に戦意高揚映画の「一番美しく」を撮る。戦後になると、「わが青春に悔いなし」のような民主主義啓蒙映画を撮り、1948年の「酔いどれ天使」では闇市を舞台に戦後のエネルギーを描く。出発は純粋なアクションの面白さで見せ、「思想性はない」と言われたこともある。「羅生門」や「生きる」などでも、ヒューマニズムや真実の不可知性などを描いたに止まるとされた。
(黒澤明監督)
「黒澤天皇」などとまで言われた完璧主義で有名で、「七人の侍」の長期撮影は伝説となっている。「赤ひげ」を初め「用心棒」や「天国と地獄」などの主演者三船敏郎を見ると、豪快で存在感たっぷりの大人物が多い。本人も身長183センチの長身で、性格もそういう豪快型に思われてしまいやすいが、この本によれば実は繊細な心情のタイプで、自己処罰の感情を抱き続けた人物だという。
1949年に「静かなる決闘」という、ほとんど取り上げられない映画がある。一応ベストテンに入ったが、黒澤映画では失敗作と言われた。著者はこの映画を後年になって見た時の違和感をもとに、黒澤明と東宝映画の戦時中と戦後を調べ始める。そのミステリーにも似た謎解きが面白い。史料の博捜(はくそう=広範囲にわたって探すこと)が素晴らしい。様々な証言と史料から浮かび上がるのは、東宝が会社として黒澤を兵役に就かせないように工作し、結果的に黒澤は軍隊経験がなかった。日本人男性のほとんどが兵隊にとられ、映画関係者も多くが徴兵された中で、この「軍隊経験のないこと」が黒澤の負い目となり、そのことへの「自己処罰意識」が戦後の黒澤映画の基調にあるとする。
もちろんいくら探しても、徴兵猶予の文書と言うものはない。そういう「工作」があったとしても、裏で行われたわけである。その意味では実証はできない。しかし、この本により、東宝が実質的に軍需企業だったことと、黒澤明の戦後映画に「自己処罰」のテーマが隠れていることは、納得できた。晩年に「夢」という不思議な映画があった。黒澤が見た夢を映像化したという触れこみの映画の中に、戦死した兵隊の呪縛のような夢がある。戦争体験のない世代では、いくら戦争に関心があっても夢に見たりはしないだろう。戦場体験のない黒澤がそういう夢を見るのは、やはり最後の最後まで戦争で死んだ者たちへの負い目意識があったと思う。それは戦争に行った行かないだけではなく、内地にいても空襲で死んだ者もいるわけで、戦死した人々の代わりに生かされて戦後を生きたという意識は、多くの戦争世代の人間にあったものだ。
東宝が軍需企業だったというのは、単に戦争映画を作ったという意味ではない。女性映画で知られた松竹が戦争映画は得意でなかったのに対し、新興の東宝映画は軍に密着した。1942年暮れに米英との開戦1周年記念の「ハワイ・マレー沖海戦」を作ったことは有名である。後に「ゴジラ」を作ることになる円谷英二による特撮で、今でも「見るに耐える」傑作になったことは間違いない。しかし、実はもっと直接に軍の企画した映画を東宝は作り続けていた。「航空教育資料製作所」と題した組織が作られ、軍の教材映画が量産されていたのだという。教官もどんどん戦地に送られ、人材不足の軍としては、「教材映画」が欲しかったのである。
東宝は山中貞雄という逸材を戦争で失った。天才と言われた山中を東宝が引き抜き、前進座の俳優を使って「人情紙風船」を作った。しかし、東宝ではその一本のみを残して山中は日中戦争に応召し戦病死してしまう。この痛恨事に懲りて、「姿三四郎」を作った黒澤を手放さずに済むように、東宝は軍との親密なルートを使って工作したのではないか、と著者は推測する。黒澤は戦争協力映画「一番美しく」を撮ることになり、生産能力向上に全力を傾ける女性工員を迫力を持って描いた。(この映画の主演女優の矢口陽子と結婚した。)裏に何があったかはともかく、この「軍隊には行かず、戦争協力映画を作った」ことが心の傷になったというのは、僕には十分納得できる。
戦時中の東宝の有価証券報告書などを使い、戦時の東宝の特徴を分析するのも新鮮である。(案外気づかれていないが、戦争中も株式市場は機能していた。)そうして軍需でうるおった東宝は、戦後になるとその分の人材が過剰になり、復員者を含めて多くの人員整理が必要となった。これがかの「軍艦だけが来なかった」と言われた(つまり米軍の戦車は来た)、有名な「東宝争議」が他社以上に激しくなった一因だという。なるほど。
東宝の会社としての話が長くなったが、黒澤の「静かなる決闘」は三船の医者が戦場で手術中に梅毒に感染し、戦後の日本で婚約者にも告げられず悩むという話である。僕も見たときにいくら何でも不自然な感じを持った。今は公開された時代背景と別に、たまたま見る機会があって見るわけだが、並べてみると次の傑作「野良犬」と「自己処罰」という共通点がある。(拳銃を盗まれた新米警官の三船が、戦後の東京を歩き回って拳銃を探し回るという、ドキュメンタリー的刑事物語の元祖になった映画である。)その戦争の意識は、実は「醜聞」「羅生門」「生きる」と通底しているとされる。映画により、語り口がうまいとかうまく行っていないの違いはあるが。時代との関わりでは論じられてこなかった「羅生門」や「生きる」などの傑作にも、黒澤の秘められた思いが読み取れるというのである。
(「静かなる決闘」)
詳しい作品分析は本書に譲るが、その結果見えてくるのは、「誰も、戦争責任を取らなかった戦後の日本で、黒澤明は積極的に作品のなかで自分の戦争責任をとろうとした。それが彼の作品の倫理性である。」結論として言えば、「黒澤明は、近代以降の日本と日本人が、最大の歴史的事件として経験した太平洋戦争を、内面化し、映画化した、多分唯一の映画作家である。その映画は「平家物語」のごとく、国民的記録として永遠に残るに違いない。」という。「七人の侍」や「生きる」の面白さと感動は、現代の「平家物語」だったのか。なんだか深く納得できる部分が多くの人にあるのではないか。
著者の指田さんは「大衆文化評論家指田文夫のさすらい日乗」というブログで毎日のように、映画や演劇などの情報を発信している。このブログにもたびたびコメントで教示頂いている方である。