列島厳寒の先週土日(23、24)は、家にいて大相撲を見ていた。木曜日にサンハウス(精神福祉作業所)の仕事で武蔵五日市まで行って陶芸。翌金曜日は、サンハウスで仕事の後、新文芸坐で「新しい土」と「河内山宗俊」。帰ってから、原節子追悼上映のブログを書きながら、U23男子サッカーのアジア選手権(リオ五輪予選)の準決勝イラン戦を見た。これじゃ、疲れて一日休むしかない。というか、日替わり上映の新文芸坐に行くから、寒い土曜日は休息日と事前に決めて、延長戦までテレビでずっと見ていたわけである。特に書かないけど、スポーツ中継はよく見ているのである。
翌日はゆっくり休んで、寝ながら新聞をじっくり読む。新聞を取ってなくて、この快楽を味わえない人は残念だなあ。昼近くに起きあがり、パスタをゆで、玉ねぎをじっくり炒めて、輪切り唐辛子をたっぷり入れた激辛パスタを作る。激辛パスタは家では誰も食べないから、自分で作るわけである。で、食べたら何だか睡眠が足りていない気がして、また少しウトウトしてると、もう3時ごろ。で、起きだしてテレビで大相撲を見た。ケーブルテレビを止めたから、地上波でやってるスポーツしか今は見られない。
今回はちょっと趣を変えて、大相撲の話を書こうと思うけど、長くなりそうだから2回に分ける。だから、まず最初はダラダラと日常を書いてみた。相撲の話を書くのは、一言でいうと「琴奨菊のファン」なのである。今回の優勝は、誰も知る通り「日本出身力士として10年ぶり」だった。だからと言って、そのことであんまり大騒ぎするのも何だなあと思って、すぐに書かずに一段落した今ごろになって書いている。だけど、この「日本出身力士が優勝できなかった」ことをどう見るか、考えるか。それも書いておきたいと思う。ナショナリズム的言辞に足を取られたくはないけど、日本人の「大衆感情」からあまり離れてしまいたくもない。そういう観点からの「練習問題」である。
さて、僕は小さい頃から相撲が好きだった。というか、60年代に育った男子は大体そうだろう。野球と相撲とプロレス。それと「鉄腕アトム」や「鉄人28号」。テレビは(64年の東京五輪を機に)ほとんどの家に普及していた。もちろん白黒テレビである。子ども達が皆同じものを見ていた時代だった。当時は大鵬や柏戸の時代である。僕は大型の力士が力や勢いで勝ったり、逆に小兵すぎる力士が逆転で勝つのは、あんまり好きではなかった。鍛えた力士が技能と敢闘精神を生かして、誠実に取り組んで勝ちきるような取組が好きだった。思えば、これは僕の映画の好みと似ていて、人間の感性の仕組みはそうそう変わらないのである。だから、柏戸より大鵬が好きなわけだが、でも大鵬は強すぎた。あんまり強すぎるとつまらない。これはV9中のジャイアンツにも感じたことである。だから、応援したのは佐田の山だった。出羽の海部屋で、大鵬、柏戸、栃の海に続き、1965年に横綱になった力士である。(全く同じ理由で、ジャイアンツではなくアンチ・ジャイアンツになり、自民党佐藤政権ではなく、社会党支持者になった。単に強いのが嫌いということで。)
60年代は日本映画の観客数が次第に減っていった時期だが、同じように相撲人気もそれ以前(栃錦、若乃花時代)よりかげってきたと言われていた。高度成長に伴う社会の変化、娯楽の多様化が大きいと思うが、同時に「強すぎる横綱」がいると、盛り上がりが欠けてくるという面もあると思う。後の北の湖や千代の富士なんかにも当てはまる部分がある。70年代以後には、僕もちょっと相撲から気持ちが遠ざかった。ファンだった横綱玉の海が1971年秋に急逝したことが大きい。僕も高校から大学生になると、相撲や野球、あるいは大河ドラマや朝の連続ドラマを見なくなっていった。ヒマもないし、意識としてもゴダールやフェリーニなど映画に心が向いているんだから、相撲どころではない。
でも、まあこの頃には何回か大相撲を生で見ている。父の関係で升席が回ってくるという経験をしているのである。今の両国国技館(1985年初場所から)だけでなく、その前の蔵前国技館時代にも足を運んでいるはずだ。(今はもう眼が悪くなったから、野球もサッカーもみんなテレビで見た方がいいやという気分だけど。)でも、1983年に結婚した後に、「テレビのない生活」という実験をしていた。新聞では見ていたけど、やはりスポーツニュースの思い出は少なくなる。それだけでなく、日航機事故とか天安門事件、ベルリンの壁崩壊もテレビで見てない。(85年8月の日航機事故は、そもそもヤマギシの特講に夫婦で行ってたから、事故そのものをリアルタイムでは知らなかった。)
91年2月に父が死に、8月に実家に戻ることになった。その家は今度はテレビが4台あった。もうテレビなしなどと気張って見ても仕方ないから、テレビ番組もビデオで録画して授業で使うようになった。その頃から「若貴ブーム」だから、テレビ生活に戻って相撲ファンが再燃したのである。まあ、テレビで見てるだけだが。21世紀になると、自分は夜間定時制勤務になったから、そういう意味では休日以外にはリアルタイムでは相撲を見られない。特に横綱戦がある5時半以後は、ちょうど授業である。だけど、その頃は夜に「大相撲ダイジェスト」という番組があり、それがなくなるとNHKで「大相撲全取組」という番組ができた。深夜だから、普通は見られないが、逆に勤務時間が変わったおかげで、リアルタイムではないけど、むしろ細かく幕内力士を知ることができるようになったのである。
ということで、今回は自分と相撲の思い出だけを書いた。21世紀最初の頃のひいき力士は大関栃東(現・玉ノ井親方)だった。10年前の「最後に優勝した日本出身力士」と言われ続けてきた人である。技能派の敢闘タイプで、それも僕の好みだが、何と言っても僕の家から歩いて10分ぐらいのところに玉ノ井部屋があるのである。こういうのが、相撲にとっては大きい。それを抜きにして、相撲は語れないと思う。「それ」というのは、ご当所意識、愛郷心のようなものである。東京にある部屋はたまたまそこに土地が見つかっただけのようなもので、住んでる方もたまたま親がそこに一軒家やマンションを買っただけみたいなもんである。それでも、他の部屋より応援意識が出てくるわけである。だけど、僕が昔から一番好きだったのは、佐渡ヶ嶽部屋の力士である。その話は次回。
翌日はゆっくり休んで、寝ながら新聞をじっくり読む。新聞を取ってなくて、この快楽を味わえない人は残念だなあ。昼近くに起きあがり、パスタをゆで、玉ねぎをじっくり炒めて、輪切り唐辛子をたっぷり入れた激辛パスタを作る。激辛パスタは家では誰も食べないから、自分で作るわけである。で、食べたら何だか睡眠が足りていない気がして、また少しウトウトしてると、もう3時ごろ。で、起きだしてテレビで大相撲を見た。ケーブルテレビを止めたから、地上波でやってるスポーツしか今は見られない。
今回はちょっと趣を変えて、大相撲の話を書こうと思うけど、長くなりそうだから2回に分ける。だから、まず最初はダラダラと日常を書いてみた。相撲の話を書くのは、一言でいうと「琴奨菊のファン」なのである。今回の優勝は、誰も知る通り「日本出身力士として10年ぶり」だった。だからと言って、そのことであんまり大騒ぎするのも何だなあと思って、すぐに書かずに一段落した今ごろになって書いている。だけど、この「日本出身力士が優勝できなかった」ことをどう見るか、考えるか。それも書いておきたいと思う。ナショナリズム的言辞に足を取られたくはないけど、日本人の「大衆感情」からあまり離れてしまいたくもない。そういう観点からの「練習問題」である。
さて、僕は小さい頃から相撲が好きだった。というか、60年代に育った男子は大体そうだろう。野球と相撲とプロレス。それと「鉄腕アトム」や「鉄人28号」。テレビは(64年の東京五輪を機に)ほとんどの家に普及していた。もちろん白黒テレビである。子ども達が皆同じものを見ていた時代だった。当時は大鵬や柏戸の時代である。僕は大型の力士が力や勢いで勝ったり、逆に小兵すぎる力士が逆転で勝つのは、あんまり好きではなかった。鍛えた力士が技能と敢闘精神を生かして、誠実に取り組んで勝ちきるような取組が好きだった。思えば、これは僕の映画の好みと似ていて、人間の感性の仕組みはそうそう変わらないのである。だから、柏戸より大鵬が好きなわけだが、でも大鵬は強すぎた。あんまり強すぎるとつまらない。これはV9中のジャイアンツにも感じたことである。だから、応援したのは佐田の山だった。出羽の海部屋で、大鵬、柏戸、栃の海に続き、1965年に横綱になった力士である。(全く同じ理由で、ジャイアンツではなくアンチ・ジャイアンツになり、自民党佐藤政権ではなく、社会党支持者になった。単に強いのが嫌いということで。)
60年代は日本映画の観客数が次第に減っていった時期だが、同じように相撲人気もそれ以前(栃錦、若乃花時代)よりかげってきたと言われていた。高度成長に伴う社会の変化、娯楽の多様化が大きいと思うが、同時に「強すぎる横綱」がいると、盛り上がりが欠けてくるという面もあると思う。後の北の湖や千代の富士なんかにも当てはまる部分がある。70年代以後には、僕もちょっと相撲から気持ちが遠ざかった。ファンだった横綱玉の海が1971年秋に急逝したことが大きい。僕も高校から大学生になると、相撲や野球、あるいは大河ドラマや朝の連続ドラマを見なくなっていった。ヒマもないし、意識としてもゴダールやフェリーニなど映画に心が向いているんだから、相撲どころではない。
でも、まあこの頃には何回か大相撲を生で見ている。父の関係で升席が回ってくるという経験をしているのである。今の両国国技館(1985年初場所から)だけでなく、その前の蔵前国技館時代にも足を運んでいるはずだ。(今はもう眼が悪くなったから、野球もサッカーもみんなテレビで見た方がいいやという気分だけど。)でも、1983年に結婚した後に、「テレビのない生活」という実験をしていた。新聞では見ていたけど、やはりスポーツニュースの思い出は少なくなる。それだけでなく、日航機事故とか天安門事件、ベルリンの壁崩壊もテレビで見てない。(85年8月の日航機事故は、そもそもヤマギシの特講に夫婦で行ってたから、事故そのものをリアルタイムでは知らなかった。)
91年2月に父が死に、8月に実家に戻ることになった。その家は今度はテレビが4台あった。もうテレビなしなどと気張って見ても仕方ないから、テレビ番組もビデオで録画して授業で使うようになった。その頃から「若貴ブーム」だから、テレビ生活に戻って相撲ファンが再燃したのである。まあ、テレビで見てるだけだが。21世紀になると、自分は夜間定時制勤務になったから、そういう意味では休日以外にはリアルタイムでは相撲を見られない。特に横綱戦がある5時半以後は、ちょうど授業である。だけど、その頃は夜に「大相撲ダイジェスト」という番組があり、それがなくなるとNHKで「大相撲全取組」という番組ができた。深夜だから、普通は見られないが、逆に勤務時間が変わったおかげで、リアルタイムではないけど、むしろ細かく幕内力士を知ることができるようになったのである。
ということで、今回は自分と相撲の思い出だけを書いた。21世紀最初の頃のひいき力士は大関栃東(現・玉ノ井親方)だった。10年前の「最後に優勝した日本出身力士」と言われ続けてきた人である。技能派の敢闘タイプで、それも僕の好みだが、何と言っても僕の家から歩いて10分ぐらいのところに玉ノ井部屋があるのである。こういうのが、相撲にとっては大きい。それを抜きにして、相撲は語れないと思う。「それ」というのは、ご当所意識、愛郷心のようなものである。東京にある部屋はたまたまそこに土地が見つかっただけのようなもので、住んでる方もたまたま親がそこに一軒家やマンションを買っただけみたいなもんである。それでも、他の部屋より応援意識が出てくるわけである。だけど、僕が昔から一番好きだったのは、佐渡ヶ嶽部屋の力士である。その話は次回。