イランを離れて活動を続けるモフセン・マフバルバフ監督の新作「独裁者と小さな孫」が公開されている。見たのは年末の事なんだけど、やっぱり触れておきたい。欠点もあるけれど、詩的なイメージの喚起力の素晴らしさとテーマの重要性からして、大事な作品だと思う。
とある国に独裁者の大統領がいる。イルミネーションで輝く首都だけど、大統領が電話で一言、消せと言えば首都は真っ暗になる。孫がいて、孫にも電話させる。小さな孫の命令で首都は真っ暗になる。でも、何というひどい祖父なんだろう。まあ、独裁者の後継者教育なのかもしれないけど、小さい時からこんな教育を受けていたら、人間性がゆがんでしまう。だけど、この冒頭のエピソードの大都会の夜景が、点いたり消えたりする映像は素晴らしい。
ところで、最後に孫が点けろと電話しても、首都は真っ暗のままで、銃声も聞こえてくる。反政府の革命運動もあるらしい。翌日には、大統領の家族(夫人や次男など)は「外国視察」に旅立つ。大統領も同行するように家族は勧めるが、「事態は掌握している」として残る。小さな孫もお祖父ちゃんと残ると言い張り、残ってしまう。だけど、事態は急展開していて、もはや大統領は官邸に戻ることができない。首都に掲げられた大統領の写真は火が点けられている。自動車も銃撃され、運転手は逃げ出し、大統領はバイクを奪って、孫と逃げ出す。床屋を脅かし、変装するが、ラジオでは大統領に賞金が掛けられていると伝える。昔馴染みの娼婦を訪ねるが、結局逃げ出すしかない。
その間、事態を飲み込めない孫は、「大統領と呼ぶな」と言われても、つい「大統領」と呼びかけてしまう。大統領はゲームをしてるんだとごまかすけど、子どもはなぜ逃げるのか判らない。幼なじみのマリアと遊びたいとごねて、大統領を困らせる。大統領は逃げて、逃げて、やがて釈放された反政府派に紛れ込んで逃げていく。そこで聞く「大統領の悪事」に知らないふりをしながら。だけど、最後の最後に…。という最後の展開は書かないことにする。
その逃亡劇、そして孫とのやり取りが結構スリリングで、いつバレるのか、あるいはバレないのかと見ていくことになる。でも、いつものマフバルバフ映画と同じように、この大統領の悪事の全貌には迫らない。いろいろと被害を受けた国民の声を聞き、大統領への憎しみを聞くことになるが、それを聞きどう思ったか、変貌したかは描かれない。「逃げる大統領」対「民衆」という構図を、大自然の中で映像詩として描き出す。それは「赦し」というテーマを最後に強調する目的があるのだろう。
民衆の側からすれば、残虐非道な独裁者は家族もろともに殺されなくては収まらないという気持ちもある。しかし、それでは「暴力の応酬」になってしまうのではないか。ここでマフバルバフは、イラン、イラク、シリアなどで起こっている事態に対して、「非暴力による抵抗」じゃないといけないんだと訴えている。見ているものに、現代世界の暴力に対する憂慮を強く訴えかける映画である。そのテーマ性と映像の魅力に見応えがあるから、多くの人に見て欲しい。
モフセン・マフバルバフ(1957~)は、アッバス・キアロスタミと並び、イランを代表する映画監督だったけど、イランに自由が失われ、事実上の亡命状態にある。ホームページのインタビューでは、イランから暗殺されかかったという。この映画はどこで撮ったんだろうと思ったんだけど、言語が判らなかった。最後のクレジットで判ったけど、ジョージア(グルジア)で撮られていた。役者もジョージアで、大統領はミシャ・ゴミアシュウィリという人で、「ダイ・ハード2」なんかにも出ているというけど、もちろん知らない。マフバルバフは、「サイクリスト」「パンと植木鉢」「カンダハール」など印象的な映画がある。でも、映像詩のような作品が多い。ドラマ性で見せるのは、「サイクリスト」以来ではないか。いつもの映画のように、一家が協力してできている。
とある国に独裁者の大統領がいる。イルミネーションで輝く首都だけど、大統領が電話で一言、消せと言えば首都は真っ暗になる。孫がいて、孫にも電話させる。小さな孫の命令で首都は真っ暗になる。でも、何というひどい祖父なんだろう。まあ、独裁者の後継者教育なのかもしれないけど、小さい時からこんな教育を受けていたら、人間性がゆがんでしまう。だけど、この冒頭のエピソードの大都会の夜景が、点いたり消えたりする映像は素晴らしい。
ところで、最後に孫が点けろと電話しても、首都は真っ暗のままで、銃声も聞こえてくる。反政府の革命運動もあるらしい。翌日には、大統領の家族(夫人や次男など)は「外国視察」に旅立つ。大統領も同行するように家族は勧めるが、「事態は掌握している」として残る。小さな孫もお祖父ちゃんと残ると言い張り、残ってしまう。だけど、事態は急展開していて、もはや大統領は官邸に戻ることができない。首都に掲げられた大統領の写真は火が点けられている。自動車も銃撃され、運転手は逃げ出し、大統領はバイクを奪って、孫と逃げ出す。床屋を脅かし、変装するが、ラジオでは大統領に賞金が掛けられていると伝える。昔馴染みの娼婦を訪ねるが、結局逃げ出すしかない。
その間、事態を飲み込めない孫は、「大統領と呼ぶな」と言われても、つい「大統領」と呼びかけてしまう。大統領はゲームをしてるんだとごまかすけど、子どもはなぜ逃げるのか判らない。幼なじみのマリアと遊びたいとごねて、大統領を困らせる。大統領は逃げて、逃げて、やがて釈放された反政府派に紛れ込んで逃げていく。そこで聞く「大統領の悪事」に知らないふりをしながら。だけど、最後の最後に…。という最後の展開は書かないことにする。
その逃亡劇、そして孫とのやり取りが結構スリリングで、いつバレるのか、あるいはバレないのかと見ていくことになる。でも、いつものマフバルバフ映画と同じように、この大統領の悪事の全貌には迫らない。いろいろと被害を受けた国民の声を聞き、大統領への憎しみを聞くことになるが、それを聞きどう思ったか、変貌したかは描かれない。「逃げる大統領」対「民衆」という構図を、大自然の中で映像詩として描き出す。それは「赦し」というテーマを最後に強調する目的があるのだろう。
民衆の側からすれば、残虐非道な独裁者は家族もろともに殺されなくては収まらないという気持ちもある。しかし、それでは「暴力の応酬」になってしまうのではないか。ここでマフバルバフは、イラン、イラク、シリアなどで起こっている事態に対して、「非暴力による抵抗」じゃないといけないんだと訴えている。見ているものに、現代世界の暴力に対する憂慮を強く訴えかける映画である。そのテーマ性と映像の魅力に見応えがあるから、多くの人に見て欲しい。
モフセン・マフバルバフ(1957~)は、アッバス・キアロスタミと並び、イランを代表する映画監督だったけど、イランに自由が失われ、事実上の亡命状態にある。ホームページのインタビューでは、イランから暗殺されかかったという。この映画はどこで撮ったんだろうと思ったんだけど、言語が判らなかった。最後のクレジットで判ったけど、ジョージア(グルジア)で撮られていた。役者もジョージアで、大統領はミシャ・ゴミアシュウィリという人で、「ダイ・ハード2」なんかにも出ているというけど、もちろん知らない。マフバルバフは、「サイクリスト」「パンと植木鉢」「カンダハール」など印象的な映画がある。でも、映像詩のような作品が多い。ドラマ性で見せるのは、「サイクリスト」以来ではないか。いつもの映画のように、一家が協力してできている。