尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ソロモンの偽証」

2016年04月04日 00時14分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 宮部みゆき原作、成島出監督「ソロモンの偽証」前後編を見た。新文芸坐の昨年の日本映画特集。キネ旬ベストテンで8位に入っている。これで日本映画のベストテン入選作品は全部見たことになる。とても考えさせられる映画だったし、心揺さぶられるシーンも多かったが、それは映画というより、原作の設定にある。それをうまく脚本化し、中学生役をオーディションで選んで見事に映画に仕上げた。基本的にミステリーだし、公開から時間も経ったから「映画の中の学校」という観点でかいておきたい。
(「前編」)
 まずは冒頭、「江東区立城東第三中学校」と出てくる。調べると、原作では「城東区」とされているらしい。それを江東区と実在の区に変更した理由は知らない。その学校にある女性が入っていく。この人物(尾野真千子)はどうやら城東三中で「伝説」とされている「学校裁判」の当事者で、その後教師となり出身校に異動してくるらしい。校長は「伝説」の真実を聞きたいという。そこで、彼女(藤野涼子)はあの頃を語り始めていく。あの頃-1990年のクリスマス。終業式のその日、東京には珍しくホワイト・クリスマスになった朝、藤野は朝ウサギの飼育当番で早めに登校し、同級生柏木の死体を発見した…。

 この時、現実の自分はこの学校からほど近い(と言っても架空ではあるが、江東区なんだから)江戸川区西部の中学校で3年生の担任で、学年主任をしていた。地域性は共通の部分が多く、思い出すことが多かった。そういう立場で書けることもあるだろうと思う。原作者の宮部みゆきは、江東区の出身で作品には(時代小説も含めて)東京東部を舞台にしたものが多い。高校は墨田川高校で、僕はそこの定時制に勤務した。中学から全日制にクラスの生徒を送ってもいる。ずいぶん読んでいるのだが、この原作は長くて未読。今回の映画を見て、やはり読もうかなと思っている。(なお、調べたところ、クリスマスに雪が降ったというのはフィクションである。誰も記憶にないよね。)
(原作文庫版の1)
 映画を見て、まず思ったのは、こういう生徒や親はいるなあということだ。映画のような粗暴な生徒も何人も付き合って来たし、主人公藤野涼子のような正義感の強いリーダー的生徒も何人もいた。そういう生徒は大体映画の中の藤野涼子(映画の役名を取って芸名とした)のような眼をしていた。だけど、冒頭に死体で発見される柏木のようなタイプは知らない。発達段階的に、大人を小馬鹿にして扱いが難しいタイプは女子にはいても、下町の男子には珍しいと思う。背景が描かれないので判らないけど、複雑な問題が背後にあるか、やはり観念的に作られた人物という気がする。この「柏木の死」は防げない。今ならそこが問題になるが、この物語では「それがないと始まらない」という設定になっている。

 その死は「自殺」とされるが、その後「他殺」であるという告発状が学校など各所に送られる。親が刑事をしている藤野宅にも送られる。また、ある理由でマスコミにも送られる。地域では不安や学校不信の声が満ちてくる。マスコミの追及番組を見て、告発状を出した一人である女子生徒が、もう一人と相談に行くときに交通事故にあい死亡する。担任(黒木華)が手紙を破って捨てたとされ、誰にも信じてもらえないまま辞表を出す。校長も辞任する。学校は説明会を開き、警察からも人が来て「自殺に間違いない」と断定する。そうして新年度を迎え、クラスの皆は3年生になる。だけど、モヤモヤとしたままでいられないと藤野を中心にした数人は、夏休みに学校で裁判をしようと思い立ったのである。
(後編)
 ということになるが、当時自分の学年では「学年生徒会活動活発化」を通して生徒の自治力向上を目指していた。「学年総会」を何度か開き話し合いを深めていたことを思い起こすと、中学生でも「裁判の運営」はできると思う。現に映画の中では立派に運営している。だけど、それは演技をしているということである。この物語の原作や脚本を書いたのは中学生ではない。大人が書いてお膳立てしないと、裁判はちょっと無理だろう。裁判というものを思いつき、自分たちだけで企画立案すべてを取り仕切るのは、やはり小説だからできることだと思う。それに「裁判は真実を見つけるためのものではない」のであって、真実を知りたい、大人はきちんと答えて欲しいということなら、「生徒による調査委員会の設置」とか「公開公聴会の開催」なんかの方は有効だと思う。だが、「裁判」と銘打ち、証言に際して宣誓を求めるといったドラマ性こそがここでは大切なのである。

 この映画を見ても判るが、生徒の問題行動の奥には「家庭の問題」がある。そこに学校はなかなか踏み込めない。日常でずっと接触している親に見えないことが、教科担任制の中学、高校の教師に見えるわけがない。ただし、生徒の問題は「生徒同士の問題」として現れる。校内の人間関係の変容は、親よりも教師の方が気付きやすいはず。もう少し何か出来ることはなかったか、非常に悔いが残る。この学校は何クラスあるか判らないが、採用2年目で初の担任の女性教師に柏木を担任させるのは酷ではないか。クラス分けと担任決めは中学校では非常に大切で、そこに学年の力が見て取れると思う。

 僕が思うに、このクラスでは交通事故で亡くなることになる「浅井松子」という生徒が極めて重要である。太っていていじめられたこともあるらしい。だけど、他に友達のない三宅という生徒の友達になっている。三宅に下手と言われても吹奏楽部を辞めない。多分、掃除をさぼったりしないと思うし、宿泊行事などで班に入れず孤立している生徒と嫌がらずに組んでくれると思う。運動会なんかでも、足は遅いかもしれないが、なかなかなり手がいない種目の選手に立候補してくれると思う。私、リレーは遅いけど、パン食い競争は頑張っちゃうよとか明るく笑いながら。こういう生徒がクラスを支えている。もっと言えば社会を支えている。学級委員の藤野が支えているのではなく。「クラスの宝物」である。あまりほめ過ぎると「ほめ殺し」になっちゃうかもしれないから、普通の時は軽口をたたく関係でいいと思うけど、ここぞという時にはちゃんとほめないといけない。親や生徒の前で、ちゃんとほめないといけない。僕が一番言いたいのはそのことで、全国の教員が心しておいて欲しいと願う。

 この映画は「中学生がよく頑張りました」という映画だと思う。ミステリーを「謎解き」のゲーム小説と捉えると、この映画の筋では満足できない。だけど、中学生が真実に迫るという特殊な設定が心に響くのである。この年代には「誰と誰が付き合ってる」とかあるはずである。また多分春に修学旅行もあっただろうし、7月頃は運動部の最後の大会で皆手一杯のはずだ。だけど、そういう面は全部捨てて描かず、ひたすら「裁判」に焦点を合わせる。かなりムチャで、実際の学校にはこれだけの余裕はないだろう。生徒の描き分けはなかなかありそうな感じ。ちょっとスーパーマン的な生徒もいると思うが、なかなか現実味がある。

 一方、いつも学校映画に言えることだが、教師は紋切型である。まあ教師それぞれの考えをきちんと描き分けていては話は終わらない。それにそこは生徒には見えない。「大人にならないと判らないこと」も多いのだから。一つ気になったのは、告発状問題の職員会議。これほど重大な問題がある時に、職員室で行う学校はないだろう。会議室がない(または改装中で使えない)という事情があっても、その場合は図書室や理科室等の特別教室で行うはずである。全員で重大問題を議論する時には、別会場を使う。その職員室配置を見ると、学年主任(安藤玉恵)とA組担任(黒木華)の席が離れている。これは絶対にありえない。学年団の教員は、同じ机の塊の中にするか(山型)、後ろを向くとすぐ話し合いができる配置にするか(谷型)、どちらかである。とにかく、同じ学年担任は近くにいるもので、例外はない。初担任だったら、学年主任の隣にするのではないだろうか。

 また、この学年主任は職員会議で率先して問題の担任を攻撃している。これもひどい話で、いったん学年会に引き取り、それまでは同じ学年の教師を擁護するのでなくては「主任」と言えない。そういう校内の人間関係なんかも、映画ではよく判らない。誰が生活指導主任かもよく判らない。大体、映画や小説ではそうなっていて、校長と学年主任と担任しか出てこない。生徒指導の問題だというのに、生活指導部は何をしているのだろうか。まあ、それはやむを得ない省略と考えるしかないのだろう。大体こんなところだが、今度は原作を読んでみたいと思う。
コメント
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