「パレスチナ映画」として作られた「オマールの壁」(2013)が公開されている。パレスチナ映画として世界的に評価された映画に、「パラダイス・ナウ」(2005)というのがあった。アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたことで有名。あれは自爆テロに向う若者たちを等身大に描いた「問題作」であり、傑作だった。「オマールの壁」は、その「パラダイス・ナウ」を作ったハニ・アブ・サイド(1961~)の新作で、これもアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞を受賞した。去年公開のチラシを見てぜひ見たいと思いつつ、なかなか公開されなかった。小規模公開で気付かないうちに終わってしまったかと思い、ネットで検索しても情報がなかった。ようやく今月16日に、アップリンク配給で、渋谷アップリンクと角川シネマ新宿で公開されたわけである。
アカデミー賞の主要部門受賞作など、見ておきたい映画がたくさん公開されている。しかし、そういう映画はまだまだ上映していそうだし、「オマールの壁」は時期を逃すと見逃すかと思い早めに見ることにした。「社会派」的な「世界情勢お勉強」映画に止まらない、人間をじっくりと見つめた名作だった。アメリカでも評価されるはずである。(上映館が小規模なので、新宿の今日の14時15分の会は満席だった。休日はネット予約してから行った方がいいだろう。)
舞台は「ヨルダン川西岸」の町。(1967年の第3次中東戦争以来、イスラエルが占領している土地。)そこはイスラエルが築いた「分離壁」がイスラエルとの間を閉ざしている。パン職人のオマールは、時々その壁をロープで越えて恋人のナディアに会いに行く。監視塔から銃撃される可能性のある、命掛けの行動である。ナディアは幼なじみのタレクの妹で、同じく幼なじみのアムジャドもナディアが好きらしい。3人は実は抵抗組織の一員で、射撃訓練も行っている。オマールはナディアとの結婚を夢見つつ、リーダーのタレクの指示によりイスラエル兵を銃撃する。ところが、その後イスラエル軍に捕まり、過酷な拷問にさらされる。イスラム系組織の一員として接触してきた囚人に「自白するな」と言われて、「自白は絶対しない」と答えると、実はそれが録音されている。イスラエルの裁判では、それが自白となり懲役90年になると言われ、タレクの居所を知らせれば釈放されるという。
こうして、オマールはイスラエルの「協力者」にされるが、実はタレクと協力して「待ち伏せ」するつもりである。だが、まわりはナディアも含めて、オマールはスパイになったのではないかと疑う。そして「待ち伏せ」も失敗して、タレクは逃げるがオマールは再び捕まり、拷問にかけられる。オマールを操るイスラエル当局のラミは、ナディアの秘密を握っているといい、再びオマールを釈放する。その「秘密」とは何か。オマールはアムジャドに会いに行き、そしてタレクにあって確かめるが、その時に思わぬ悲劇が起こる。オマールは「信頼」を完全に失ってしまうのだった。そして、2年後に…。
これはパレスチナという特別に悲劇的な土地をめぐって展開されるけれど、同時にもっと普遍的な「愛と裏切り」の物語である。デニス・ルヘイン原作で、クリント・イーストウッドが映画化した「ミスティック・リバー」も、幼なじみの3人組が大きくなって再会した時に、大きく立場を変えているという設定になっていた。この「オマールの壁」の3人は、それと少し違い、志も同じくし、皆がそれぞれにナディアを思っているのだが、それが思わぬ悲劇につながっていく。それはもちろん「イスラエルの占領」という背景があるからである。「壁」に引き裂かれたオマールたちの焦燥と恐怖は、世界に通じるものだ。と同時に、人はどこでも「愛」をめぐって行動し、そして間違った行動を続けてしまうということもよく判る。だから、「愛」と「後悔」の物語でもある。ラストのオマールの行動は、まさに「命を懸けた愛の行為」だったと思う。
この映画の若者はイスラーム過激派ではなく、自爆テロは行わない。正面からイスラエルに抵抗するというのが、タレクたちの考えのようだ。オマールも普通の時はパンを作っている職人として描かれている。パレスチナ社会では(というか、欧米と東アジアを除く世界で)、結婚前のセックスはタブーである。だから、若い男は好きになった女性がいると、早く結婚したいと思う。もちろん、タブーを破るカップルもいるだろうが、社会的な制裁を覚悟しないといけない。それがこの映画の悲劇の原因でもある。政治的に、経済的に、パレスチナは大変な状況にあるけれど、そこで生きている若者には、抵抗運動とともに愛やセックスが大問題である。当たり前だけど。それにしても「壁」の威圧的な存在感はすごかった。
アカデミー賞の主要部門受賞作など、見ておきたい映画がたくさん公開されている。しかし、そういう映画はまだまだ上映していそうだし、「オマールの壁」は時期を逃すと見逃すかと思い早めに見ることにした。「社会派」的な「世界情勢お勉強」映画に止まらない、人間をじっくりと見つめた名作だった。アメリカでも評価されるはずである。(上映館が小規模なので、新宿の今日の14時15分の会は満席だった。休日はネット予約してから行った方がいいだろう。)
舞台は「ヨルダン川西岸」の町。(1967年の第3次中東戦争以来、イスラエルが占領している土地。)そこはイスラエルが築いた「分離壁」がイスラエルとの間を閉ざしている。パン職人のオマールは、時々その壁をロープで越えて恋人のナディアに会いに行く。監視塔から銃撃される可能性のある、命掛けの行動である。ナディアは幼なじみのタレクの妹で、同じく幼なじみのアムジャドもナディアが好きらしい。3人は実は抵抗組織の一員で、射撃訓練も行っている。オマールはナディアとの結婚を夢見つつ、リーダーのタレクの指示によりイスラエル兵を銃撃する。ところが、その後イスラエル軍に捕まり、過酷な拷問にさらされる。イスラム系組織の一員として接触してきた囚人に「自白するな」と言われて、「自白は絶対しない」と答えると、実はそれが録音されている。イスラエルの裁判では、それが自白となり懲役90年になると言われ、タレクの居所を知らせれば釈放されるという。
こうして、オマールはイスラエルの「協力者」にされるが、実はタレクと協力して「待ち伏せ」するつもりである。だが、まわりはナディアも含めて、オマールはスパイになったのではないかと疑う。そして「待ち伏せ」も失敗して、タレクは逃げるがオマールは再び捕まり、拷問にかけられる。オマールを操るイスラエル当局のラミは、ナディアの秘密を握っているといい、再びオマールを釈放する。その「秘密」とは何か。オマールはアムジャドに会いに行き、そしてタレクにあって確かめるが、その時に思わぬ悲劇が起こる。オマールは「信頼」を完全に失ってしまうのだった。そして、2年後に…。
これはパレスチナという特別に悲劇的な土地をめぐって展開されるけれど、同時にもっと普遍的な「愛と裏切り」の物語である。デニス・ルヘイン原作で、クリント・イーストウッドが映画化した「ミスティック・リバー」も、幼なじみの3人組が大きくなって再会した時に、大きく立場を変えているという設定になっていた。この「オマールの壁」の3人は、それと少し違い、志も同じくし、皆がそれぞれにナディアを思っているのだが、それが思わぬ悲劇につながっていく。それはもちろん「イスラエルの占領」という背景があるからである。「壁」に引き裂かれたオマールたちの焦燥と恐怖は、世界に通じるものだ。と同時に、人はどこでも「愛」をめぐって行動し、そして間違った行動を続けてしまうということもよく判る。だから、「愛」と「後悔」の物語でもある。ラストのオマールの行動は、まさに「命を懸けた愛の行為」だったと思う。
この映画の若者はイスラーム過激派ではなく、自爆テロは行わない。正面からイスラエルに抵抗するというのが、タレクたちの考えのようだ。オマールも普通の時はパンを作っている職人として描かれている。パレスチナ社会では(というか、欧米と東アジアを除く世界で)、結婚前のセックスはタブーである。だから、若い男は好きになった女性がいると、早く結婚したいと思う。もちろん、タブーを破るカップルもいるだろうが、社会的な制裁を覚悟しないといけない。それがこの映画の悲劇の原因でもある。政治的に、経済的に、パレスチナは大変な状況にあるけれど、そこで生きている若者には、抵抗運動とともに愛やセックスが大問題である。当たり前だけど。それにしても「壁」の威圧的な存在感はすごかった。