尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

上野公園の銅像-上野公園散歩③

2016年04月10日 23時24分27秒 | 東京関東散歩
 上野公園にある銅像と言えば、まずは「西郷さん」だが、それでは書く楽しみがない。他にもいろいろある。形の上で一番壮麗なのは、ちょうど公園のど真ん中あたりにある馬に乗った銅像。「あ、西郷さん」などと声を挙げている人がたまにいるが、これは「小松宮彰仁親王」像である。
  
 小松宮という人は、確かにいたとは記憶しているが、一体どんな人物か。近代史に詳しい人でもなかなか思い浮かばないだろう。小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと、1846~1903)は、一言で言えば明治期の軍人皇族(元帥)である。傍流の伏見宮家の出で、仁孝天皇(孝明天皇の父)の猶子となり、親王となって仁和寺門跡となった。世が世ならそれでおしまいだが、王政復古のさなかに還俗し、奥州征討総督を務める。以後、佐賀の乱、西南戦争などで重要な役割を果たし、参謀総長などを経て、日清戦争では征清大総督となった。というと、戦前には有名人物かもしれないけど、なんで上野公園に銅像があるの?という感じである。それは小松宮が多くの団体に関わり、特に日本赤十字の総裁だったからである。日赤25周年を記念して佐野常民らの提案で、1912年に建てられた。よく戦時中に供出もされず、また軍人像が占領下に取り壊されず残り続けてきたものだ。
  
 有名な人物銅像という点では今では日本一かなと思う西郷隆盛像。(人物以外も入れると、渋谷駅前ハチ公像が有名度一番だろう。)人物の説明はいらないと思うので、銅像の説明だけ。造られたのは1898年で、高村光雲作。ただし、犬は別で後藤貞行という人で、皇居前広場の楠木正成像に馬を作った人である。信頼性のある写真が一枚もなく、キヨソネの絵をもとに多くの人に意見を聞き、この姿になったとか。小松宮とは敵同士だったわけである。
   
 他にもある。何と野口英世像がある。場所は科学博物館前の林の中。1951年に立った。試験管を持った全身像は野口像としては珍しいという。何でここにあるかは知らない。上の写真の2枚目、3枚目はボードワン像。これは上野公園にある意味がある。「上野公園の父」と言われる人である。オランダ人の軍医で、明治初期に上野に大学を移転という話があった時、公園建設を提言したという。1973年の上野公園100周年に建てられたが、その時の像は駐日領事だった弟の顔だったとか。手違いが後に判り、今は2006年に直された本人の顔。東京文化会館前に元都知事安井誠一郎像もあるが、それより東京国立博物館内にジェンナー像がある。種痘の発明者で、種痘100年を記念して、1896年に建てられたという。何で博物館の敷地内にあるのかは知らない。 

 ところで、今は「記念碑」的な意味で作られたものを挙げたが、モニュメントという意味では「上野公園最大の像」は別にある。だけど、多分銅製ではないと思う。それは科学博物館前のシロナガスクジラ。これは一度見たら忘れられないし、検索すると「トラウマ」だとか書いてる人も多いようだ。小さい時に一度は見てると思うが、まあ、僕は嫌いじゃない。クジラってすごいなあと素朴に驚きを感じる。写真的には一度に撮れないので苦労する。遠くから全体像を撮ると迫力に欠ける。
  
 もう一つというか、いっぱいだが、国立西洋博物館ロダンブールデルの彫刻がある。一番有名な上野の銅像は、だからロダンの「考える人」だというのが「ご名答」ということになると思う。西洋美術館は、松方コレクションを展示するために作られたが、今はル・コルビュジェの建築として世界遺産にという動きがあり、旗がいっぱいたなびいている。4枚目の写真は「カレーの市民」。
    
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東叡山寛永寺-上野公園散歩②

2016年04月10日 00時40分31秒 | 東京関東散歩
 上野の桜を最初に載せたが、本来は上野と言えば寛永寺である。上野公園と言ってる土地は、江戸時代には「東叡山寛永寺」(とうえいざん・かんえいじ)という巨大寺院だった。(本来は上野公園の2倍近い所領を持っていた。)京都の東北方にある比叡山延暦寺に対応して、江戸城の東北方にある上野の山を「東叡山」とした。そして、そこに3代将軍家光の時に「寛永寺」を建立したわけである。1625年(寛永2年)のことである。初代住職は天海和尚。徳川将軍6人の墓所が寛永寺にある。

 ただし、徳川家の正式な菩提寺は、芝の増上寺である。寛永寺はむしろ「政治的な重み」をもつところで、17世紀以後は皇族を住職に戴き、比叡山や日光山をも管轄する天台宗の総本山だった。なんとまあ、江戸時代には天台宗の総本山は比叡山じゃなかった。だけど、多くの人も知る通り、1868年の彰義隊と官軍による「上野戦争」で根本中堂ほか多くの伽藍が焼け落ちて壊滅的打撃を受けたわけである。だから、人によっては寛永寺はそこで終わったかのように思い込んでいる人もいる。

 まあ、確かに今は見る影もないとはいえ、今も寛永寺は残っている。上野公園の北の外れの方に根本中堂も再建されている。もっともそれは川越の喜多院から移築されたものである。その移築には露伴の「五重塔」の主人公も関わっていたらしい。ここまで行くと、人の数もグッと少なくなる。「歴史散歩」ムードを味わう花見はこっちの方がいい。(元の根本中堂は噴水公園のあたりだったらしい。)
   
 上の写真を見れば判るように、寺院も桜も立派なのに人が少なくてもったいない。この根本中堂の裏の「書院」は非公開だが、徳川慶喜が戊辰戦争後に謹慎蟄居した場所なのである。境内には、上野戦争碑や「虫塚」、尾形乾山の碑などがある。なかなか見応えがある。
   
 ここへ行くには、上野駅ではなく、JR山手線でひとつ隣の鶯谷駅から行く方がずっと近い。鶯谷は山手線で一番地味な駅で、降りたことがない人も結構多いと思うが、歴史散歩には大事な駅である。南口から歩いていくと、4代将軍家綱の墓所の勅額門がある。その先に5代将軍綱吉の墓所の勅額門。もともとは霊廟があり旧国宝に指定されていたというが空襲で焼失し、残った門などは重要文化財に指定。どちらも近くでは見られない。(前二つが綱吉、後二つが家綱。)
   
 その他、結構寛永寺時代のものは残っているのだが、花見客でにぎわう清水観音堂や五重塔、弁天堂など別に書くことにし、今回は北の方、国立博物館の先の方にあるものにしぼることにする。僕も今回初めて知ったのだが、いつもだと国立博物館の先へ行くときは芸大の方に曲がっていくのだが、反対に駅の方に曲がると「両大師堂」があり、その隣の輪王院に「旧本坊表門」が移築されている。(重要文化財)「両大師堂」というのが結構いい感じで、そこから隣に行くところに「幸田露伴旧宅の門」がある。(下の2枚が両大師堂、最後が露伴宅の門)
  
 「旧本坊表門」は寛永年間のもので、元は国立博物館のところにあったという。博物館の整備に伴い移築されたという。通称「黒門」で、そこから上野の地名を「黒門町」と呼ぶようになった。昭和の名人と言われた落語家、桂文楽(8代目)が「黒門町の師匠」と言われたことは有名。今も公園を降りて少し行くと「黒門小学校」がある。(その真ん前に「うさぎやカフェ」ができた。)
  
 ところで、国立博物館の裏あたりに今も寛永寺の「塔頭」(たっちゅう)がかなり残っているのを今回初めて知った。なかなかムードがある。JR山手線に沿ってずっと北上していくと、「日本鳩レース協会」の建物がある。こんなところにそんな団体があるのか。そのちょっと先に、海老名香葉子さんらが建てた「東京大空襲慰霊碑」がある。その隣に3代将軍家光に殉じた「殉死者の碑」。そこまで行った人は少ないかもしれない。僕も今回調べて知った。公園散歩からすると外れの方になる。
 
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