世界で一番好きなイタリア映画を中心に、最近見た映画の話。古い映画も見ているが、フィルムセンター、神保町シアター、シネマヴェーラ渋谷など、東京で昔の映画を多く掛ける場所が、今月は見てる映画が多い。新作映画を中心に、この間にあえて書かなかった映画にも簡単に触れておきたい。
ところで、イタリアの前に非常に奇怪な日本映画をまず。「蜜のあわれ」という映画である。上映館も限られていて、東京でも上映があまりない。大杉漣、二階堂ふみ、真木よう子と期待大なキャストで、大杉漣が老作家を演じ、二階堂ふみと戯れる。谷崎や川端を思わせる老作家の愛欲ものだが、これは室生犀星原作。犀星の故郷、金沢で撮られていて、石川県では上映館が多い。ところが、話を聞いていると、二階堂ふみは実は金魚の化身のようである。何だこりゃと思っていると、真木よう子が登場してくるが、こっちは幽霊。金魚や幽霊と戯れる三角関係。読んでないけど、多分犀星の原作そのものがぶっ飛んだ怪奇幻想愛欲小説なんだろう。二階堂ふみは例によって、期待を裏切られない。だけど、あまりに変な展開なので、ついて行くのが大変。石井岳龍監督、つまり昔の石井聰亙で、こういう題材で撮るのは珍しいと思うが、健闘している。だけどなあ…、という映画。
世界の映画の中で、国(言語というか風土)で映画を思い浮かべるとき、多分イタリア映画が一番好きだと思う。フェリーニやヴィスコンティなどの巨匠の名作が好きだという意味ではない。それも好きだけど、どうってことない映画で話されるイタリア語会話、あるいはイタリア各地の風景なんかが好ましい。最近はずいぶん上映されているので、見てないのも多いが、昔はイタリア映画なら全部見ようと頑張っていた。五月の連休に行われるイタリア映画新作映画祭もすっかり定着して、イタリアの生活風景をかいま見る娯楽映画の公開につながる例も多くなってきたのは「うれしい悲鳴」。
さて、まずは「母よ、」で、巨匠ナンニ・モレッティの新作。原作は「Mia madre」(わが母)だが、これを「母よ、」という題名にした。この句点が効いている。ナンニ・モレッティ(1953~)はベルトルッチやベロッキオの一世代下を代表する監督だけど、自分で出演もした癖の強いコメディを作ることが多く、なかなか日本で受け入れられなかった。21世紀になると、2001年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作、「息子の部屋」を作る。子どもを失った家族の喪失をじっくり描く大傑作だった。
今度は母親の病気、死を描く映画で、また監督自身が出ている。だけど、中心人物は女性映画監督になっていて、監督はその兄の役。妹の女性監督は、家庭環境も不調(夫と離婚、娘ともうまくいかない)、映画製作の現場でも不調。そっちに自分が投影されているんだろうが、あえて女性監督という設定で客観化している。兄は介護のため仕事も離れるが、妹は仕事を続ける。この「分裂」に、自己の思いを込めている。映画製作の現場も面白く、特にイタリア企業を買収しにくるアメリカ人という役の、ジョン・タトゥーロが何度もセリフを間違うところなど実に面白い。「親の死」という人生の大問題を正面から描く作品だが、家族間の描写と映画製作現場、母親の心などがバラバラな感じもある。なお、母親はラテン語の教師だった人だが、孫は「何でラテン語なんてやらなきゃいけないの?」と思っている。でも孫の心を一番判っているのも祖母なのだと観客にも判る。ナンニ・モレッティも成熟した。
続いて、岩波ホールで22日まで「木靴の樹」がリバイバルされている。エルマンノ・オルミ監督の名作である。1978年のカンヌ映画祭パルムドールで、3時間もする。当時はそんな映画を公開してくれるところは岩波ホールしかなかった。その年のキネ旬ベストテンで2位となった。1位は同じく岩波ホールで公開されたギリシャの「旅芸人の記録」で、さらに長く4時間もある。(この年は岩波ホールの絶頂期で、「旅芸人」「木靴」の他、「女の叫び」(6位)、「奇跡」(7位)、「プロビデンス」(10位)と外国映画の半分を占めている、さらに日本映画でも「月山」が6位。)この間「旅芸人」は何度も上映されてきたが、「木靴の樹」は最初の公開以来だと思う。何と37年も経っていたのか。それでは見てない人が多いと思う。必見。僕はこの映画を見たため、その後もエルマンノ・オルミ監督の映画は全部見て来た。
と言いながらも、この長い長い19世紀の北イタリアの農民映画は、なかなか今の年齢になると大変な体験ではあった。多くの農民を出演させて、100年近い昔の生活をじっくり再現する。今はそういう映画も珍しい感じはないが、当時としては実に壮大な試みだったのである。ミラノから近いロンバルディア地方、ベルガモの農村地帯。大地主のもとで、貧しい農民が暮らしている。厳しい農作業、祭、教会、男と女、親と子、四季の移り変わりの中で、当時の農民のドキュメンタリーを見ているような気になる。画面に入り込んで、当時の時代を観客も生きる。そんな映画である。子どもは学校へ行かないといけなくなった時代。子どもの木靴が壊れてしまい、父親は川べりのポプラの樹を切ってきて、木靴を作る。しかし、その樹も地主のものなのである。ある男と女が結婚して、川船でミラノへ行き、修道院長をしている叔母に会う。そのシーンが非常に興味深かった。娯楽的要素はほとんどなく、厳しいリアリズム映画。23日からはオルミ監督の新作「緑はよみがえる」を上映。
最後にいくつか。山田洋次の「家族はつらいよ」は、今も一定のレベルを保つ映画を作り続けるのは驚嘆に値する。だけど、この映画の自己引用や過去への眼差しは一体何なのだろう。役者はうまいし、見ている間は結構面白いけど、だんだん紋切型の展開にガッカリ感が強くなってくる。まあ同じ役者で撮った「東京家族」の、「東京物語」の凡庸なリメイクよりはましかもしれない。僕があまり乗れないのは、「オデッセイ」のタイプの映画。面白くないとも言えないのだが、よく出来たハリウッド映画だなあという感じ。リドリー・スコット監督はもう見なくていいと思っていたのに、うっかり見てしまった。でも、まあ21世紀のリドリー・スコット作品では一番いいのかもしれない。大作の「宇宙映画」はもう僕はダメだと思う。タランティーノの「ヘイトフル8」はいくら何でもうやりすぎ。確かにいつもバイオレンスで売ってるが、今まではそれなりにあった「必然性」がほとんどなく、ただ残酷なだけではないのか。
アカデミー外国語映画賞の「サウルの息子」は、ナチスの収容所を舞台にしたハンガリー映画。カンヌ映画祭グランプリで、テーマ的にも映画賞受賞という意味でも見逃せない。そして、これを評価する人もいると思うけれども、僕はとてもダメ。デジタルカメラの発達で、暗い場所で激しく動く映像を撮りやすくなり、かつてない臨場感を出しているのは間違いない。だけど、見ている僕の身体が付いていけない。感想をまとめるつもりで見たスペインの「マジカル・ガール」。これも変な映画で、日本のアニメに夢中な病気の少女。その夢をかなえたい父の思いが、悲劇の連鎖を生んで行く。こう書くと、いかにも面白そうな「変な映画」みたいで、僕は期待して見たのだが、どうもその冷たい感触があまり良くなかった。それに日本アニメの使い方も、通常の予想の範囲内だった気がする。
ところで、イタリアの前に非常に奇怪な日本映画をまず。「蜜のあわれ」という映画である。上映館も限られていて、東京でも上映があまりない。大杉漣、二階堂ふみ、真木よう子と期待大なキャストで、大杉漣が老作家を演じ、二階堂ふみと戯れる。谷崎や川端を思わせる老作家の愛欲ものだが、これは室生犀星原作。犀星の故郷、金沢で撮られていて、石川県では上映館が多い。ところが、話を聞いていると、二階堂ふみは実は金魚の化身のようである。何だこりゃと思っていると、真木よう子が登場してくるが、こっちは幽霊。金魚や幽霊と戯れる三角関係。読んでないけど、多分犀星の原作そのものがぶっ飛んだ怪奇幻想愛欲小説なんだろう。二階堂ふみは例によって、期待を裏切られない。だけど、あまりに変な展開なので、ついて行くのが大変。石井岳龍監督、つまり昔の石井聰亙で、こういう題材で撮るのは珍しいと思うが、健闘している。だけどなあ…、という映画。
世界の映画の中で、国(言語というか風土)で映画を思い浮かべるとき、多分イタリア映画が一番好きだと思う。フェリーニやヴィスコンティなどの巨匠の名作が好きだという意味ではない。それも好きだけど、どうってことない映画で話されるイタリア語会話、あるいはイタリア各地の風景なんかが好ましい。最近はずいぶん上映されているので、見てないのも多いが、昔はイタリア映画なら全部見ようと頑張っていた。五月の連休に行われるイタリア映画新作映画祭もすっかり定着して、イタリアの生活風景をかいま見る娯楽映画の公開につながる例も多くなってきたのは「うれしい悲鳴」。
さて、まずは「母よ、」で、巨匠ナンニ・モレッティの新作。原作は「Mia madre」(わが母)だが、これを「母よ、」という題名にした。この句点が効いている。ナンニ・モレッティ(1953~)はベルトルッチやベロッキオの一世代下を代表する監督だけど、自分で出演もした癖の強いコメディを作ることが多く、なかなか日本で受け入れられなかった。21世紀になると、2001年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作、「息子の部屋」を作る。子どもを失った家族の喪失をじっくり描く大傑作だった。
今度は母親の病気、死を描く映画で、また監督自身が出ている。だけど、中心人物は女性映画監督になっていて、監督はその兄の役。妹の女性監督は、家庭環境も不調(夫と離婚、娘ともうまくいかない)、映画製作の現場でも不調。そっちに自分が投影されているんだろうが、あえて女性監督という設定で客観化している。兄は介護のため仕事も離れるが、妹は仕事を続ける。この「分裂」に、自己の思いを込めている。映画製作の現場も面白く、特にイタリア企業を買収しにくるアメリカ人という役の、ジョン・タトゥーロが何度もセリフを間違うところなど実に面白い。「親の死」という人生の大問題を正面から描く作品だが、家族間の描写と映画製作現場、母親の心などがバラバラな感じもある。なお、母親はラテン語の教師だった人だが、孫は「何でラテン語なんてやらなきゃいけないの?」と思っている。でも孫の心を一番判っているのも祖母なのだと観客にも判る。ナンニ・モレッティも成熟した。
続いて、岩波ホールで22日まで「木靴の樹」がリバイバルされている。エルマンノ・オルミ監督の名作である。1978年のカンヌ映画祭パルムドールで、3時間もする。当時はそんな映画を公開してくれるところは岩波ホールしかなかった。その年のキネ旬ベストテンで2位となった。1位は同じく岩波ホールで公開されたギリシャの「旅芸人の記録」で、さらに長く4時間もある。(この年は岩波ホールの絶頂期で、「旅芸人」「木靴」の他、「女の叫び」(6位)、「奇跡」(7位)、「プロビデンス」(10位)と外国映画の半分を占めている、さらに日本映画でも「月山」が6位。)この間「旅芸人」は何度も上映されてきたが、「木靴の樹」は最初の公開以来だと思う。何と37年も経っていたのか。それでは見てない人が多いと思う。必見。僕はこの映画を見たため、その後もエルマンノ・オルミ監督の映画は全部見て来た。
と言いながらも、この長い長い19世紀の北イタリアの農民映画は、なかなか今の年齢になると大変な体験ではあった。多くの農民を出演させて、100年近い昔の生活をじっくり再現する。今はそういう映画も珍しい感じはないが、当時としては実に壮大な試みだったのである。ミラノから近いロンバルディア地方、ベルガモの農村地帯。大地主のもとで、貧しい農民が暮らしている。厳しい農作業、祭、教会、男と女、親と子、四季の移り変わりの中で、当時の農民のドキュメンタリーを見ているような気になる。画面に入り込んで、当時の時代を観客も生きる。そんな映画である。子どもは学校へ行かないといけなくなった時代。子どもの木靴が壊れてしまい、父親は川べりのポプラの樹を切ってきて、木靴を作る。しかし、その樹も地主のものなのである。ある男と女が結婚して、川船でミラノへ行き、修道院長をしている叔母に会う。そのシーンが非常に興味深かった。娯楽的要素はほとんどなく、厳しいリアリズム映画。23日からはオルミ監督の新作「緑はよみがえる」を上映。
最後にいくつか。山田洋次の「家族はつらいよ」は、今も一定のレベルを保つ映画を作り続けるのは驚嘆に値する。だけど、この映画の自己引用や過去への眼差しは一体何なのだろう。役者はうまいし、見ている間は結構面白いけど、だんだん紋切型の展開にガッカリ感が強くなってくる。まあ同じ役者で撮った「東京家族」の、「東京物語」の凡庸なリメイクよりはましかもしれない。僕があまり乗れないのは、「オデッセイ」のタイプの映画。面白くないとも言えないのだが、よく出来たハリウッド映画だなあという感じ。リドリー・スコット監督はもう見なくていいと思っていたのに、うっかり見てしまった。でも、まあ21世紀のリドリー・スコット作品では一番いいのかもしれない。大作の「宇宙映画」はもう僕はダメだと思う。タランティーノの「ヘイトフル8」はいくら何でもうやりすぎ。確かにいつもバイオレンスで売ってるが、今まではそれなりにあった「必然性」がほとんどなく、ただ残酷なだけではないのか。
アカデミー外国語映画賞の「サウルの息子」は、ナチスの収容所を舞台にしたハンガリー映画。カンヌ映画祭グランプリで、テーマ的にも映画賞受賞という意味でも見逃せない。そして、これを評価する人もいると思うけれども、僕はとてもダメ。デジタルカメラの発達で、暗い場所で激しく動く映像を撮りやすくなり、かつてない臨場感を出しているのは間違いない。だけど、見ている僕の身体が付いていけない。感想をまとめるつもりで見たスペインの「マジカル・ガール」。これも変な映画で、日本のアニメに夢中な病気の少女。その夢をかなえたい父の思いが、悲劇の連鎖を生んで行く。こう書くと、いかにも面白そうな「変な映画」みたいで、僕は期待して見たのだが、どうもその冷たい感触があまり良くなかった。それに日本アニメの使い方も、通常の予想の範囲内だった気がする。