2020年3月は記憶に留めたい訃報が多かった。劇作家の別役実をその時に書いたけれど、その後にもっと有名な宮城まり子の訃報が届き、その後もっともっと有名な志村けんの訃報が届いた。有名なだからというわけじゃないけれど、「ひと」以上に「時代」を思い起こさせる人名もある。
(宮城まり子)
宮城まり子(1927.3.21~2020.3.21、93歳)をウィキペディアで調べると、日本の歌手、女優、映画監督、福祉事業家と出ている。まあその通りだろうが、歌手や女優としての活躍をリアルタイムで知ってる人は相当の高齢だろう。僕はほぼ肢体不自由児施設「ねむの木学園」の人という印象だ。宮城まり子はねむの木学園の子どもたちのドキュメンタリー映画を4本作った。岩波ホールで上映されて、2作目の「ねむの木の詩がきこえる」は1977年のベストテン7位に入っている。(「幸福の黄色いハンカチ」や「八甲田山」の年である。)上映機会は今ではほとんどないと思うがDVDになっている。こういう「良心的記録映画」は見なくても判る気がしてあまり見ないけど、一応最初の2本ぐらいは見たと思う。まあ「傑作」というより、大きな社会的反響を巻き起こした功績として記憶されるだろう。
(子どもたちと宮城まり子)
「ねむの木学園」は今は静岡県掛川市にあるが、1998年に移転するまでは同じ静岡県の浜岡町(現・御前崎市)にあった。昔静岡県を旅行したときに寄った思い出がある。学園建設後に出来た「浜岡原発」がほぼ隣にあるのに驚いた思い出がある。学園内にはこどもたちが書いた絵を展示する美術館があって、そこは見学できるようになっていたと思う。ナイーブ・アートの先駆的な存在として、70年代後半には映画を日本、世界に紹介して周り、非常に高い評価を得ていた。その後、掛川の山の中に広大な敷地を確保して施設を移転、学校法人も設立して今も特別支援学校として続いている。本人の女優としての知名度もあるが、それだけではない情熱を注ぎ込んでいた。立派なものだと感服する。
(ガード下の靴みがき)
宮城まり子はまず歌手だった。東京生まれながら、大阪で育ち小学校を卒業してすぐに吉本興業に入った。歌謡歌手としては、1955年の「ガード下の靴みがき」が一番大ヒットして知られているだろう。他の歌を見ても「夕刊小僧」「ジャワの焼鳥売り」など、名前に戦後色が強い。他にも「手のひらを太陽に」を最初に歌った。1961年にいずみたくが作った曲で、1962年にNHK「みんなの歌」で放送された。もう一つは「ドレミの歌」で、日本ではペギー葉山の歌詞で知られているが、岩谷時子の歌詞で宮城まり子がほぼ同時に歌ったという。紅白歌合戦にも8回出ている。
女優としては川島雄三監督の怪作「グラマ島の誘惑」(1959)や市川崑監督の怪作「黒い十人の女」などがある。どっちも「怪作」なんだけど、今も時々上映されるカルト作。特に前者は戦時中に船が難破して皇族兄弟と慰安婦たちが孤島に流れ着くという設定だ。八千草薫も出ているが、女優トップは宮城まり子。歌手から女優になったのが30ぐらいで、年齢的に「アイドル」じゃなかった。他に東映アニメ「白蛇伝」で森繁久弥と二人で声優を務めている。私生活では作家吉行淳之介の生涯のパートナーとなったのは有名。しかし吉行には妻があり、壮絶な争いは吉行「闇の中の祝祭」に詳しい。今ではねむの木学園に「吉行淳之介文学館」まで作られている。なお亡くなったのは誕生日の当日だった。
宮城まり子をずいぶん長く書いてしまった。若い人だと名前を知らない人もいるかと思って、つい「ねむの木学園」のことなど記憶に留めたくなる。それに対し、志村けんは現役のまま亡くなったので、名前を知らない日本人は誰もいなかっただろう。新型コロナウイルス感染による肺炎で3月29日に死亡した。1950.2.20~2020.3.29、70歳。発病したのは17日で、陽性確認は23日、事務所による公表は25日だった。我々がニュースで知った日から数えると、4日後の訃報だった。公表時から肺炎で意識不明とされていたので、薄々覚悟していた人もいると思うが、あまりにも早い訃報は多くの人に衝撃と恐怖を与えた。もうこれ以上の「有名人」が亡くなることがないように願う。
僕は志村けんについて語ることが余りない。入院公表の日に「結婚を考えた人の思い出」がたまたまテレビ放送されていて、それを見ていて、こういう人だったんだと思った。追悼特番は裏番組の「ガッテン!」が僕の持病の耳鳴り特集だったので見なかった。「鶴瓶の家族に乾杯」の追悼放送は見たけれど、10年前(2010年)に福島県小野町を訪ねた時の様子が感慨深かった。高校生が皆で「アイーン」とポーズをしていた。2011年だったら福島に行けなかっただろう。
僕が志村けんについて語れないのは、要するにほとんど見てないからだ。荒井注が脱退して、志村けんがザ・ドリフターズのメンバーになったのは、調べてみると1974年4月1日だった。僕が高校を卒業して浪人になったばかりの時で、ドリフのメンバー交代のニュースは覚えてるけど、テレビどころじゃなかった。その後大学に入ってもテレビはあまり見なかった。80年代に結婚したらテレビをもたない生活をした。(時々誤解されるんだけど、僕が言い出したんじゃなくて妻がいらないよねと言ったのである。)だからずいぶんバブル期のドラマの知識などが欠落している。「東村山音頭」や「カラスの勝手でしょ」はもちろん知ってたけど、案外印象は薄いわけである。
(バカ殿)
志村けんは様々なテレビ番組を持ち続け、世代ごとに違ったイメージを持っているとある人が指摘していた。確かにそうかなと思う。僕などはドリフと言えば「全員集合」がまず思い浮かび、それ以外は判らないぐらいだが、若い世代にも2004年から続いていた「天才!志村どうぶつ園」で知っているんだという。死後には「いい人だった」と語られるものだが、「いい人」だけでは長年コメディアンとして現役であり続けられないだろう。実際、芸に真剣に打ち込んだ姿も語られている。大の動物好きだというから、僕はそれだけで信用できると思ってしまう。特に犬が好きな人だったから。愛犬2頭が残されたが、引き取り手は決まっているという話。どんな人間にもまして、この愛犬がショックだっただろう。
(宮城まり子)
宮城まり子(1927.3.21~2020.3.21、93歳)をウィキペディアで調べると、日本の歌手、女優、映画監督、福祉事業家と出ている。まあその通りだろうが、歌手や女優としての活躍をリアルタイムで知ってる人は相当の高齢だろう。僕はほぼ肢体不自由児施設「ねむの木学園」の人という印象だ。宮城まり子はねむの木学園の子どもたちのドキュメンタリー映画を4本作った。岩波ホールで上映されて、2作目の「ねむの木の詩がきこえる」は1977年のベストテン7位に入っている。(「幸福の黄色いハンカチ」や「八甲田山」の年である。)上映機会は今ではほとんどないと思うがDVDになっている。こういう「良心的記録映画」は見なくても判る気がしてあまり見ないけど、一応最初の2本ぐらいは見たと思う。まあ「傑作」というより、大きな社会的反響を巻き起こした功績として記憶されるだろう。
(子どもたちと宮城まり子)
「ねむの木学園」は今は静岡県掛川市にあるが、1998年に移転するまでは同じ静岡県の浜岡町(現・御前崎市)にあった。昔静岡県を旅行したときに寄った思い出がある。学園建設後に出来た「浜岡原発」がほぼ隣にあるのに驚いた思い出がある。学園内にはこどもたちが書いた絵を展示する美術館があって、そこは見学できるようになっていたと思う。ナイーブ・アートの先駆的な存在として、70年代後半には映画を日本、世界に紹介して周り、非常に高い評価を得ていた。その後、掛川の山の中に広大な敷地を確保して施設を移転、学校法人も設立して今も特別支援学校として続いている。本人の女優としての知名度もあるが、それだけではない情熱を注ぎ込んでいた。立派なものだと感服する。
(ガード下の靴みがき)
宮城まり子はまず歌手だった。東京生まれながら、大阪で育ち小学校を卒業してすぐに吉本興業に入った。歌謡歌手としては、1955年の「ガード下の靴みがき」が一番大ヒットして知られているだろう。他の歌を見ても「夕刊小僧」「ジャワの焼鳥売り」など、名前に戦後色が強い。他にも「手のひらを太陽に」を最初に歌った。1961年にいずみたくが作った曲で、1962年にNHK「みんなの歌」で放送された。もう一つは「ドレミの歌」で、日本ではペギー葉山の歌詞で知られているが、岩谷時子の歌詞で宮城まり子がほぼ同時に歌ったという。紅白歌合戦にも8回出ている。
女優としては川島雄三監督の怪作「グラマ島の誘惑」(1959)や市川崑監督の怪作「黒い十人の女」などがある。どっちも「怪作」なんだけど、今も時々上映されるカルト作。特に前者は戦時中に船が難破して皇族兄弟と慰安婦たちが孤島に流れ着くという設定だ。八千草薫も出ているが、女優トップは宮城まり子。歌手から女優になったのが30ぐらいで、年齢的に「アイドル」じゃなかった。他に東映アニメ「白蛇伝」で森繁久弥と二人で声優を務めている。私生活では作家吉行淳之介の生涯のパートナーとなったのは有名。しかし吉行には妻があり、壮絶な争いは吉行「闇の中の祝祭」に詳しい。今ではねむの木学園に「吉行淳之介文学館」まで作られている。なお亡くなったのは誕生日の当日だった。
宮城まり子をずいぶん長く書いてしまった。若い人だと名前を知らない人もいるかと思って、つい「ねむの木学園」のことなど記憶に留めたくなる。それに対し、志村けんは現役のまま亡くなったので、名前を知らない日本人は誰もいなかっただろう。新型コロナウイルス感染による肺炎で3月29日に死亡した。1950.2.20~2020.3.29、70歳。発病したのは17日で、陽性確認は23日、事務所による公表は25日だった。我々がニュースで知った日から数えると、4日後の訃報だった。公表時から肺炎で意識不明とされていたので、薄々覚悟していた人もいると思うが、あまりにも早い訃報は多くの人に衝撃と恐怖を与えた。もうこれ以上の「有名人」が亡くなることがないように願う。
僕は志村けんについて語ることが余りない。入院公表の日に「結婚を考えた人の思い出」がたまたまテレビ放送されていて、それを見ていて、こういう人だったんだと思った。追悼特番は裏番組の「ガッテン!」が僕の持病の耳鳴り特集だったので見なかった。「鶴瓶の家族に乾杯」の追悼放送は見たけれど、10年前(2010年)に福島県小野町を訪ねた時の様子が感慨深かった。高校生が皆で「アイーン」とポーズをしていた。2011年だったら福島に行けなかっただろう。
僕が志村けんについて語れないのは、要するにほとんど見てないからだ。荒井注が脱退して、志村けんがザ・ドリフターズのメンバーになったのは、調べてみると1974年4月1日だった。僕が高校を卒業して浪人になったばかりの時で、ドリフのメンバー交代のニュースは覚えてるけど、テレビどころじゃなかった。その後大学に入ってもテレビはあまり見なかった。80年代に結婚したらテレビをもたない生活をした。(時々誤解されるんだけど、僕が言い出したんじゃなくて妻がいらないよねと言ったのである。)だからずいぶんバブル期のドラマの知識などが欠落している。「東村山音頭」や「カラスの勝手でしょ」はもちろん知ってたけど、案外印象は薄いわけである。
(バカ殿)
志村けんは様々なテレビ番組を持ち続け、世代ごとに違ったイメージを持っているとある人が指摘していた。確かにそうかなと思う。僕などはドリフと言えば「全員集合」がまず思い浮かび、それ以外は判らないぐらいだが、若い世代にも2004年から続いていた「天才!志村どうぶつ園」で知っているんだという。死後には「いい人だった」と語られるものだが、「いい人」だけでは長年コメディアンとして現役であり続けられないだろう。実際、芸に真剣に打ち込んだ姿も語られている。大の動物好きだというから、僕はそれだけで信用できると思ってしまう。特に犬が好きな人だったから。愛犬2頭が残されたが、引き取り手は決まっているという話。どんな人間にもまして、この愛犬がショックだっただろう。