「行政改革」を旗印に河野太郎行革担当相が中心になって「脱ハンコ」を呼びかけている。「押印廃止」なんてハンコを作ってツイッターに投稿して、印鑑業者が集中している山梨県の長崎知事に批判されている。そのハンコの写真は検索しても、もう見つからない。代わりに「似顔絵ハンコ」なんてのが出てくる。山梨県のハンコというのは確かに有名で、東京(だけじゃないだろうが)の中学、高校に勤務していると、業者がいっぱいカタログを送ってくる。「卒業記念品担当教師殿」宛てである。僕の高校卒業時にも印鑑を貰ったことを覚えている。
(河野太郎の「似顔絵」印)
しかし今の議論は少し本質を外していると思う。確かに「本人のサイン」があるのに「三文判」が必要なのは、二度手間である。朱肉は借りられるけど、ハンコを忘れたらアウトだ。サインだったら、ボールペンを借りればどこでも書ける。だから役所で書類を出すときなんかを考えると、「サインがあれば押印不要」の方が合理的だ。でも、実際はもう大分そうなっているんじゃないだろうか。宅配便の受け取りなんかもそうだし、年金なんかの書類も「本人のサインがある場合は押印不要です」と書いてある。案外もうそうなっているのである。
自分で書類を作るときはどうだろうか。確定申告なんかもそうだし、仕事で報告書とか提案書なんかを作るとき、今はほとんどパソコンで作成するだろう。最後にサインするよりも、自分の名前もパソコンで打って押印することもあると思う。職場または自宅でやってる限り、サインでも押印でも大した面倒ではない。出先で押印というと忘れる場合もあるわけだが、押印そのものは面倒というほどのものじゃないだろう。「本人確認」の意味では、不動産売買など本当に重要な場合は「印鑑登録」した印鑑を押印して「印鑑証明」を付けることになる。それ以外にはないだろう。
ハンコだと「三文判でもいいのか」ということになって「不正」もやりやすい。しかし、サインでも真似できるから同じである。でも普通の人はそんなことはしない。「婚姻届」にも押印廃止だと寂しいという声もあったけど、印鑑登録したハンコじゃなくてもいいんだから、それならサインで十分だろう。要するに、印鑑かサインかはどっちもでいい問題だ。コロナ禍の緊急事態宣言下で「テレワーク」が推奨されたが、ハンコを押すために出社せざるを得ないと言われた。それが今回の背景にあると思うが、押印を廃止してもサインしに出社しないといけない。同じである。
企業や役所で「意思決定」をするときには、決裁書類を作って関係部局の責任者の押印が必要になる。そこの「押印」を廃止したら、どうなるんだろうか。サインにするんだろうか。それなら同じことの繰り返しである。「電子サイン」でも良ければ、「電子ハンコ」というものもあるらしいから同じだ。書類そのものを紙ベースで印刷せず、デジタル空間だけで処理するシステムになれば、当然電子サインになるだろう。でも当面は紙が残るだろうし、残すべきだ。安倍政権で起こったような「公文書改ざん」や「不誠実答弁」がある限り、政策決定過程を紙ベースで追求できないというようなことは認められない。
学校でも21世紀になると、何でもかんでも「起案」せよと言われるようになった。事務職員でもないのに、なんでそんなことをしなくちゃいけないのかと思ったけれど、やがて慣れざるを得なかった。期末テストなんかでも、「期末考査の実施について」なんて起案をするのはバカげている。教育委員会に年間行事計画を届け出て承認されているんだから、変更するときは起案がいるけど予定通りなら不要だと思うけど。起案書類を作ると、とにかく関係部署を回って押印が必要になる。押印廃止というなら、この意思決定プロセスの改革こそまず最初に必要だ。
押印であれ、サインであれ、本当に責任を持つ最終責任者が確認すればいいという風に変えないとならない。そうなると、もし失敗したとか、不評だったとか、問題が指摘されたとか、そういう時に「誰が最終責任者であり、責任を取るべきか」が判る。「全国民に布マスクを配布すると誰が決めたのか」「学術会議会員に推薦された6人を誰が除外したのか」とか、そういう重大な政策決定プロセスが判明しないような政権で「押印廃止」などと言っても本質を外すだけだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/66/a11950c88e78a467297ad5b426b02717_s.jpg)
しかし今の議論は少し本質を外していると思う。確かに「本人のサイン」があるのに「三文判」が必要なのは、二度手間である。朱肉は借りられるけど、ハンコを忘れたらアウトだ。サインだったら、ボールペンを借りればどこでも書ける。だから役所で書類を出すときなんかを考えると、「サインがあれば押印不要」の方が合理的だ。でも、実際はもう大分そうなっているんじゃないだろうか。宅配便の受け取りなんかもそうだし、年金なんかの書類も「本人のサインがある場合は押印不要です」と書いてある。案外もうそうなっているのである。
自分で書類を作るときはどうだろうか。確定申告なんかもそうだし、仕事で報告書とか提案書なんかを作るとき、今はほとんどパソコンで作成するだろう。最後にサインするよりも、自分の名前もパソコンで打って押印することもあると思う。職場または自宅でやってる限り、サインでも押印でも大した面倒ではない。出先で押印というと忘れる場合もあるわけだが、押印そのものは面倒というほどのものじゃないだろう。「本人確認」の意味では、不動産売買など本当に重要な場合は「印鑑登録」した印鑑を押印して「印鑑証明」を付けることになる。それ以外にはないだろう。
ハンコだと「三文判でもいいのか」ということになって「不正」もやりやすい。しかし、サインでも真似できるから同じである。でも普通の人はそんなことはしない。「婚姻届」にも押印廃止だと寂しいという声もあったけど、印鑑登録したハンコじゃなくてもいいんだから、それならサインで十分だろう。要するに、印鑑かサインかはどっちもでいい問題だ。コロナ禍の緊急事態宣言下で「テレワーク」が推奨されたが、ハンコを押すために出社せざるを得ないと言われた。それが今回の背景にあると思うが、押印を廃止してもサインしに出社しないといけない。同じである。
企業や役所で「意思決定」をするときには、決裁書類を作って関係部局の責任者の押印が必要になる。そこの「押印」を廃止したら、どうなるんだろうか。サインにするんだろうか。それなら同じことの繰り返しである。「電子サイン」でも良ければ、「電子ハンコ」というものもあるらしいから同じだ。書類そのものを紙ベースで印刷せず、デジタル空間だけで処理するシステムになれば、当然電子サインになるだろう。でも当面は紙が残るだろうし、残すべきだ。安倍政権で起こったような「公文書改ざん」や「不誠実答弁」がある限り、政策決定過程を紙ベースで追求できないというようなことは認められない。
学校でも21世紀になると、何でもかんでも「起案」せよと言われるようになった。事務職員でもないのに、なんでそんなことをしなくちゃいけないのかと思ったけれど、やがて慣れざるを得なかった。期末テストなんかでも、「期末考査の実施について」なんて起案をするのはバカげている。教育委員会に年間行事計画を届け出て承認されているんだから、変更するときは起案がいるけど予定通りなら不要だと思うけど。起案書類を作ると、とにかく関係部署を回って押印が必要になる。押印廃止というなら、この意思決定プロセスの改革こそまず最初に必要だ。
押印であれ、サインであれ、本当に責任を持つ最終責任者が確認すればいいという風に変えないとならない。そうなると、もし失敗したとか、不評だったとか、問題が指摘されたとか、そういう時に「誰が最終責任者であり、責任を取るべきか」が判る。「全国民に布マスクを配布すると誰が決めたのか」「学術会議会員に推薦された6人を誰が除外したのか」とか、そういう重大な政策決定プロセスが判明しないような政権で「押印廃止」などと言っても本質を外すだけだ。