埼玉県に嵐山(らんざん)町というところがある。なんで嵐山かというと、昭和初期に「京都の嵐山に似ている」と言った人がいて、1967年の町制施行に際して町名にしてしまった。日本各地の観光地に名前を付けたと言えば、明治の大町桂月が思い浮かぶが、こっちは本多静六という人である。誰だよ、知らないよと思ったが、調べてみると「公園の父」と呼ばれた東大教授で、すごい大人物だった。そのことはまた後述する。
嵐山町になる前は菅谷村で鎌倉時代の武将・畠山重忠ゆかりとされる「菅谷館」(すがややかた)がある。国指定史跡で、続日本百名城に選定されている。ここには一度行きたいと思っていたので、紅葉の季節に合わせて訪ねてみた。どこら辺にあるかと言えば、東武東上線の池袋駅から1時間に一本出ている「川越特急」小川町行きに乗って54分。東松山市の北にあたる。比企丘陵が広がり、中世・戦国の城が集まっている地帯だ。
駅に情報センターがあって、パンフや地図が入手できる。バスもあるが、史跡めぐりには不便。駅から国道を越えて15分歩くしかない。案内はあちこちにあって、迷うことはない。館跡に「県立嵐山史跡の博物館」が設置されている。館跡は相当に広くて、歩きがいがある。史跡公園になっていて、散策は自由。関東の戦国時代のことは以前に書いたけれど、扇ガ谷上杉と山内上杉、さらには小田原の後北条氏をめぐる争いの最前線になった地帯だ。だから鎌倉時代のまま残っているわけじゃなくて、戦国期に補修されている。
上の2枚目は拡大しないと判りづらいが、館跡の高台に作られた畠山重忠像である。重忠像は「嵐山史跡の博物館」にもある。ここは思ったより小ぶりな博物館で、歴史ファン以外は無理して見なくてもいいかなと思った。僕もきちんと見なかったけど、館内で写真が撮れた。
畠山重忠は秩父氏の一族で、源頼朝の信頼が篤い有力御家人だった。後世「武士の鑑」とうたわれた。宇治川合戦や一の谷の戦いでの活躍が「平家物語」に描かれている。1204年に「畠山重忠の乱」で滅ぼされたが、北条氏の陰謀と言われる。生まれは今の深谷市といわれ、そちらに「畠山重忠公史跡公園」があって墓所もあるという。もう少し「菅谷館」の散策を紹介。
ところで、嵐山町にはもう一人、重要な歴史的人物の足跡がある。それは木曽義仲である。「木曽」と言うから長野県出身かと思うと、実は武蔵の生まれである。父は源義賢で、為義の次男にあたる。つまり、源義朝の弟である。義賢は義朝と対立し、義朝の子・義平に討たれた。2歳の義仲は木曽に逃れて大人になって、北陸から京都に攻め上ったわけである。父義賢の墓は大蔵館跡にあるが、ちょっと離れていて今回は行けなかった。菅谷館から南へ都幾川(ときがわ)沿いにずっと歩くと義仲の史跡がある。川沿いに桜並木が続き、満開時は素晴らしいだろう。
最初の写真は木曽義仲公顕彰碑である。歴史書の中では悪役か、そうじゃないとしても脇役程度の義仲だけど、関係する地元では顕彰されている。これがあるのは「班渓寺」で、結構場所が探しにくかった。3枚目は「木曽義仲生誕地の碑」で、4枚目は義仲の妻、山吹姫の墓とされる。
その手前に鎌形大蔵神社があって、それが上の写真。ここに「義仲産湯の清水」があるというが、見なかった。もともとは坂上田村麻呂が宇佐八幡から勧請したという。この地の源氏勢力に信仰されたのだろう。
そろそろ疲れてきたのだが、せっかくだから紅葉の季節に嵐山渓谷に行こう。これがまたずいぶん遠く、30分か40分歩くことになる。県道を歩き続けて、裏側から渓谷に近づくと案内版があった。あまり詳しく調べていかなかったので、行き方がよく判らない。渓谷に着いても最奥に与謝野晶子歌碑があると出ているが、もういいやという感じ。一面紅葉みたいな絶景を期待していたら、そうじゃなかったので、少しガッカリしたのである。
上の1枚目の写真は「展望台」。2枚目はそこからの風景。最後の碑は「嵐山町名発祥の地」である。まあ「嵐山」は言い過ぎだと思ったが、昔はちゃんとした道や橋も出来ていなくて、もっと風情があったのだという。またいずれ別の季節に訪ねてみたいなと思った。最初に挙げた本多静六博士だが、埼玉県久喜市の出身で全国の多くの公園の設計、改良に携わった。日比谷公園や明治神宮、北海道の大沼公園、日光、箱根から軽井沢、小諸、大阪の箕面公園、奈良公園、湯布院温泉など「近代日本の風景美」に大きな貢献をした人だった。ところで、歩くのは距離があり、車で行くほど遠くもない。武蔵嵐山にはレンタサイクルの整備を是非望みたい。
嵐山町になる前は菅谷村で鎌倉時代の武将・畠山重忠ゆかりとされる「菅谷館」(すがややかた)がある。国指定史跡で、続日本百名城に選定されている。ここには一度行きたいと思っていたので、紅葉の季節に合わせて訪ねてみた。どこら辺にあるかと言えば、東武東上線の池袋駅から1時間に一本出ている「川越特急」小川町行きに乗って54分。東松山市の北にあたる。比企丘陵が広がり、中世・戦国の城が集まっている地帯だ。
駅に情報センターがあって、パンフや地図が入手できる。バスもあるが、史跡めぐりには不便。駅から国道を越えて15分歩くしかない。案内はあちこちにあって、迷うことはない。館跡に「県立嵐山史跡の博物館」が設置されている。館跡は相当に広くて、歩きがいがある。史跡公園になっていて、散策は自由。関東の戦国時代のことは以前に書いたけれど、扇ガ谷上杉と山内上杉、さらには小田原の後北条氏をめぐる争いの最前線になった地帯だ。だから鎌倉時代のまま残っているわけじゃなくて、戦国期に補修されている。
上の2枚目は拡大しないと判りづらいが、館跡の高台に作られた畠山重忠像である。重忠像は「嵐山史跡の博物館」にもある。ここは思ったより小ぶりな博物館で、歴史ファン以外は無理して見なくてもいいかなと思った。僕もきちんと見なかったけど、館内で写真が撮れた。
畠山重忠は秩父氏の一族で、源頼朝の信頼が篤い有力御家人だった。後世「武士の鑑」とうたわれた。宇治川合戦や一の谷の戦いでの活躍が「平家物語」に描かれている。1204年に「畠山重忠の乱」で滅ぼされたが、北条氏の陰謀と言われる。生まれは今の深谷市といわれ、そちらに「畠山重忠公史跡公園」があって墓所もあるという。もう少し「菅谷館」の散策を紹介。
ところで、嵐山町にはもう一人、重要な歴史的人物の足跡がある。それは木曽義仲である。「木曽」と言うから長野県出身かと思うと、実は武蔵の生まれである。父は源義賢で、為義の次男にあたる。つまり、源義朝の弟である。義賢は義朝と対立し、義朝の子・義平に討たれた。2歳の義仲は木曽に逃れて大人になって、北陸から京都に攻め上ったわけである。父義賢の墓は大蔵館跡にあるが、ちょっと離れていて今回は行けなかった。菅谷館から南へ都幾川(ときがわ)沿いにずっと歩くと義仲の史跡がある。川沿いに桜並木が続き、満開時は素晴らしいだろう。
最初の写真は木曽義仲公顕彰碑である。歴史書の中では悪役か、そうじゃないとしても脇役程度の義仲だけど、関係する地元では顕彰されている。これがあるのは「班渓寺」で、結構場所が探しにくかった。3枚目は「木曽義仲生誕地の碑」で、4枚目は義仲の妻、山吹姫の墓とされる。
その手前に鎌形大蔵神社があって、それが上の写真。ここに「義仲産湯の清水」があるというが、見なかった。もともとは坂上田村麻呂が宇佐八幡から勧請したという。この地の源氏勢力に信仰されたのだろう。
そろそろ疲れてきたのだが、せっかくだから紅葉の季節に嵐山渓谷に行こう。これがまたずいぶん遠く、30分か40分歩くことになる。県道を歩き続けて、裏側から渓谷に近づくと案内版があった。あまり詳しく調べていかなかったので、行き方がよく判らない。渓谷に着いても最奥に与謝野晶子歌碑があると出ているが、もういいやという感じ。一面紅葉みたいな絶景を期待していたら、そうじゃなかったので、少しガッカリしたのである。
上の1枚目の写真は「展望台」。2枚目はそこからの風景。最後の碑は「嵐山町名発祥の地」である。まあ「嵐山」は言い過ぎだと思ったが、昔はちゃんとした道や橋も出来ていなくて、もっと風情があったのだという。またいずれ別の季節に訪ねてみたいなと思った。最初に挙げた本多静六博士だが、埼玉県久喜市の出身で全国の多くの公園の設計、改良に携わった。日比谷公園や明治神宮、北海道の大沼公園、日光、箱根から軽井沢、小諸、大阪の箕面公園、奈良公園、湯布院温泉など「近代日本の風景美」に大きな貢献をした人だった。ところで、歩くのは距離があり、車で行くほど遠くもない。武蔵嵐山にはレンタサイクルの整備を是非望みたい。