2021年に見た最後の映画は「世界で一番美しい少年」( The Most Beautiful Boy in the World)。ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」のタジオ役で一躍世界に知られたビョルン・アンドレセンの驚くべき人生を描くドキュメンタリー映画である。クリスティーナ・リンドストロムとクリスティアン・ペトリの二人が共同監督にクレジットされている。前者のリンドストレムは以前に書いた「パルメ」(暗殺されたスウェーデンの元首相)を作った監督の一人だった。
ここで書くつもりで見たわけじゃないんだけど、あまりに驚くべき悲惨だったのと日本に深い関わりがあったので、書いておこうと思った。ビョルン・アンドレセンに僕はそれほど関心があったわけではなく、最近アリ・アスター監督「ミッドサマー」(見逃し)に老人役で出ていたことも知らなかった。この映画を見ると、そもそも家族に恵まれない人生だった。父も母もなく祖母に育てられ、音楽好きでバンドをやってる少年だった。映画には出て来ないが、ウィキペディアを見るとロイ・アンダーソン監督の「スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー」(旧題「純愛日記」)にチョイ役で出演していたという。
その後、タジオ役を求めるヴィスコンティのオーディションに祖母の勧めで参加。すぐにヴィスコンティはこれだと思ったらしい。オーディションの様子は映像に残されているが、それはイタリアの公共放送RAIの依頼で撮られたものである。選ばれてベニスへ向かって「ベニスに死す」に出演。映画はカンヌ映画祭で25周年記念賞を獲得し、日本でもキネマ旬報ベストワンになった。しかし、日本では興行的には厳しく、以後「家族の肖像」(1974)が4年遅れで岩波ホールで公開されるまで、しばらくヴィスコンティ作品は日本で上映されなかった。僕はこの映画を高校1年の時にリアルタイムで見て非常に感動した。
(「ベニスに死す」)
僕は映画はよく覚えているけど、ビョルン・アンドレセンについては特に何も感じなかった。だから、この映画で出て来たように、日本でアイドル視されたことは全く覚えていない。明治製菓のチョコレート「エクセル」のCMに出ていたんだから、当時見たこともあるんだと思う。このチョコは今はないが、僕も覚えている。でもCMは全然覚えてない。そして彼は日本語歌詞の歌までレコーディングしていた。祖母は日本で成功するように望んでいた。世界中からファンレターが来たが、特に日本からが圧倒的に多かったという。極めつけは池田理代子が出て来て、「ベルサイユのばら」のオスカルのイメージはビョルンだと語る。
(東京を再訪して)
いや、全く思いもよらぬことばかり。ところで、この事態は16歳のビョルン・アンドレセンにとっては、全くコントロール出来ないものだった。特にゲイを公表していたヴィスコンティが「世界で一番美しい少年」と評したことで、彼は性的な眼差しにさらされることになった。「美少年」イメージが先行して、精神的に追いつめられる。家族関係の不幸も重なり、一時はアルコールに溺れたりウツ状態だったらしい。この映画の撮影当時はボロアパートの一人暮らしでほとんどゴミ屋敷みたいな感じである。そこから立ち直って、取材として東京やベニスを再訪する。ビョルン自身は好きだった日本を再訪できて良かったと語っている。
僕は「美少年」に関心がないというよりは、性別を問わず彼のような顔の長いタイプは好みに入ってこないのである。だから、「ベニスに死す」という映画は傑作だと思うけれど、映画でダーク・ボガードがビョルン・アンドレセンを「発見」する設定そのものが今ひとつ判らなかった。まあ、とにかく美少年も老いてゆくわけである。今回知ったけれど、日本流で数えれば学年は一つ上だけど、同じ年に生まれていたことに驚いてしまった。
ここで書くつもりで見たわけじゃないんだけど、あまりに驚くべき悲惨だったのと日本に深い関わりがあったので、書いておこうと思った。ビョルン・アンドレセンに僕はそれほど関心があったわけではなく、最近アリ・アスター監督「ミッドサマー」(見逃し)に老人役で出ていたことも知らなかった。この映画を見ると、そもそも家族に恵まれない人生だった。父も母もなく祖母に育てられ、音楽好きでバンドをやってる少年だった。映画には出て来ないが、ウィキペディアを見るとロイ・アンダーソン監督の「スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー」(旧題「純愛日記」)にチョイ役で出演していたという。
その後、タジオ役を求めるヴィスコンティのオーディションに祖母の勧めで参加。すぐにヴィスコンティはこれだと思ったらしい。オーディションの様子は映像に残されているが、それはイタリアの公共放送RAIの依頼で撮られたものである。選ばれてベニスへ向かって「ベニスに死す」に出演。映画はカンヌ映画祭で25周年記念賞を獲得し、日本でもキネマ旬報ベストワンになった。しかし、日本では興行的には厳しく、以後「家族の肖像」(1974)が4年遅れで岩波ホールで公開されるまで、しばらくヴィスコンティ作品は日本で上映されなかった。僕はこの映画を高校1年の時にリアルタイムで見て非常に感動した。
(「ベニスに死す」)
僕は映画はよく覚えているけど、ビョルン・アンドレセンについては特に何も感じなかった。だから、この映画で出て来たように、日本でアイドル視されたことは全く覚えていない。明治製菓のチョコレート「エクセル」のCMに出ていたんだから、当時見たこともあるんだと思う。このチョコは今はないが、僕も覚えている。でもCMは全然覚えてない。そして彼は日本語歌詞の歌までレコーディングしていた。祖母は日本で成功するように望んでいた。世界中からファンレターが来たが、特に日本からが圧倒的に多かったという。極めつけは池田理代子が出て来て、「ベルサイユのばら」のオスカルのイメージはビョルンだと語る。
(東京を再訪して)
いや、全く思いもよらぬことばかり。ところで、この事態は16歳のビョルン・アンドレセンにとっては、全くコントロール出来ないものだった。特にゲイを公表していたヴィスコンティが「世界で一番美しい少年」と評したことで、彼は性的な眼差しにさらされることになった。「美少年」イメージが先行して、精神的に追いつめられる。家族関係の不幸も重なり、一時はアルコールに溺れたりウツ状態だったらしい。この映画の撮影当時はボロアパートの一人暮らしでほとんどゴミ屋敷みたいな感じである。そこから立ち直って、取材として東京やベニスを再訪する。ビョルン自身は好きだった日本を再訪できて良かったと語っている。
僕は「美少年」に関心がないというよりは、性別を問わず彼のような顔の長いタイプは好みに入ってこないのである。だから、「ベニスに死す」という映画は傑作だと思うけれど、映画でダーク・ボガードがビョルン・アンドレセンを「発見」する設定そのものが今ひとつ判らなかった。まあ、とにかく美少年も老いてゆくわけである。今回知ったけれど、日本流で数えれば学年は一つ上だけど、同じ年に生まれていたことに驚いてしまった。