書き途中になっていた「わが左翼論」を書き終えてしまいたい(後2回)。これは「自分史」を振り返るということであって、だから書きにくい。若い頃には漠然と将来何になりたいといろいろ考えるが、自分の場合は動物学者、考古学者、映画監督などに憧れを持った時期もあった。だけど故あって、最終的には「歴史を学ぶ」ということを選択したのである。その時の「故」は書き出すと長くなりすぎるので、ここでは書かない。
若い時には「世界を理解すること」と「世界を変革すること」との異なる方向の望みがあった。「世界を理解する」と言っても、僕の場合は「宇宙の果てはどうなってる」とか「脳の仕組みを解明したい」という方向には向かわない。「第二次世界大戦はなぜ防げなかったのか」とか「欧米以外でなぜ日本だけが工業化に成功したか」などの問題である。この二つは(当時としては)日本近現代史を考える時に、まずぶつかる大きなアポリア(難問)だった。
日本の歴史を考えていくと、「日本は歴史のスタンダードを作った側ではなかった」ということに気付く。日本は古代には中国文明を、近代にはヨーロッパ文明を受容して「国」を作ってきた。世界の流れをうまく「日本化」したという表現も可能だろうが、近代の標準である「民主政治」とか「人権宣言」は日本発のものではなかった。そのことを僕は「恥ずかしい歴史」だと思っていた。
だから若い時には「革命」を求める心理があった。18世紀段階までさかのぼると、世界は独裁的な強権体制の国ばかりだった。そういうところでは、人々に「革命権」があると思っていた。独裁者が自分から譲歩することはない。虐げられた側が闘うことなしに、権利は獲得できない。だから、「革命が世界史を発展させた」と考えたわけである。
個別の革命を考えると、確かにその多くは「起こらざるを得なかった」理由がある。それに「革命」とはガラガラポンの大変革だから、若い時には魅力的である。若い頃は何でもかんでもぶっ壊したいのである。僕も柳田学の「常民」概念を知っていたわけだが、歴史としては変化の少ない時期よりも、大々的な変革期の方が興味深かった。その意味では「革命幻想」のようなものを持っていたのである。その革命幻想をイメージ化したのが、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」だ。
(ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」)
日本の歴史の中に、このような「自由の女神」を探すこと。いないとしても、革命への可能性を探ること。そういう憧れのような「革命幻想」が、いつどのようにして自分の中から無くなったのだろうか。一つ大きかったのは、革命の現実、特に同時代の中国で起こっていた「文化大革命」(文革)のとらえ方が大きく変わったことである。
(文化大革命)
文革はその当時は情報が極端に少なかったうえ日本国内に「中国派」がかなりいたこともあり、ある種の「革命幻想」を僕も持っていたのである。その実相が判ってきたのは、文革終了後かなり経ってからだ。基本は毛沢東による奪権闘争だったと思うけど、毛沢東の呼びかけで党組織そのものを攻撃したため、社会に無秩序が広がった。それだけでなく、共産主義の名の下に恐るべき「差別」「人権無視」が出現したのだった。「革命」とは実に恐るべきものなのである。
もう一つ自分にとって大きかったのは、政治犯や冤罪者の救援運動に関わったことがある。同時代の韓国の民主化運動には大きなシンパシーを持った。日本史の中に探ってなかなか見つけられなかった、民衆による反軍事政権運動が眼前に展開されていた。そして韓国独裁政権は学生、文学者、宗教家などを逮捕し重罪を科そうとしていた。また、日本から留学していた「在日コリアン」の人々多数がスパイ罪で拘留されていた。日本でも活発な救援運動が展開されたが、僕が最初に参加した「集会」は韓国政治犯救援運動だった。(有楽町そごう=現ビックカメラ7階の読売ホールだった。)
その時点では「政治犯」というのは韓国とかソ連の問題だと思っていた。それ以外の(報道されない)国は目に入ってなかった。また日本にはおおよそのところ問題はないと思っていたのである。その後次第に知っていくのだが、実は日本の刑事司法は先進国では最低レベルだった。そして数多くの冤罪事件もあり、無実を訴える死刑囚も数多くいるのだった。本を読んでみると、免田事件、松山事件、島田事件などは明らかに有罪とは考えられなかった。しかし、その時点ではマスコミ報道は全くなかった。
その後実際に冤罪救援運動に関わることもあったが、その中で問われたのは最終的には「裁判官を説得する論理」をいかに構築するかである。支援運動は裁判所に提出する文書を作成するわけではないが、署名呼びかけ文などを作る時には論理性が求められる。ただ「無実だから裁判をやり直せ」と言うだけでは、何も成し遂げられない。大げさな物言いは逆効果でしかない。
大状況をあれこれ言うよりも、個別の人権事件を少しでも解決したいと僕が思うようになったのは、そういう冤罪問題から来たものだと思う。そこで改めて歴史上のいくつかの革命を考えてみると、そこで起こった恐るべき混乱、流血の大惨事、文化破壊は今ではとても認められないなと思った。フランス革命は昔過ぎるけれど、ドラマティックと言うより恐怖の革命である。ある時期まで歴史の画期とされていたロシア革命もそこで起きたのは混乱と流血で、最終的に独裁政権の誕生で終わったと評価軸が変わった。
もっとも当時のフランスやロシアには、全国民が参加する普通選挙制度はなかった。しかし、現代の日本には「普通選挙」と「基本的人権」が保証されている。それを考えると、「革命」の必要性はもはやないだろう。「革命」が必要なのは、そのような強烈な破壊エネルギーなくして前進出来ない構造がある場合だ。「革命」反対派を押し切ってでも強引に進めることが要求される。だけど、現代では「反対派」にも言論の自由が保障されている。反対派の言論・表現の自由を圧殺してまで行うべき「革命」とは何か。
そこまでの価値がある「革命」なんて現代にはないのである。今は個別ケースで「人権」が保証される方が優先されるのではないか。これは「闘い」が不要になったという意味ではない。保証されているはずの人権も「不断の努力」なしにはなし崩しにされて行くだろう。だから「人権のための闘い」というのは永遠に続く。だがすべてをぶっ壊せば上手く行くというような「革命」は、今では傍迷惑でしかない。
むしろ「革命思想」には、革命幻想にすべてを委ねる「お任せ」的発想がある。それが革命運動家に「家父長的指導者」が多くなる原因でもあるだろう。革命さえ起こればすべて(女性問題、環境問題等々)は解決するのであって、現行制度の中で個別の問題を解決するより「まずは革命を起こすことが優先」だなどと言う人が昔は本当にいたのである。だから、今では僕は「革命の論理」を離れて「人権の論理」に立つのである。
若い時には「世界を理解すること」と「世界を変革すること」との異なる方向の望みがあった。「世界を理解する」と言っても、僕の場合は「宇宙の果てはどうなってる」とか「脳の仕組みを解明したい」という方向には向かわない。「第二次世界大戦はなぜ防げなかったのか」とか「欧米以外でなぜ日本だけが工業化に成功したか」などの問題である。この二つは(当時としては)日本近現代史を考える時に、まずぶつかる大きなアポリア(難問)だった。
日本の歴史を考えていくと、「日本は歴史のスタンダードを作った側ではなかった」ということに気付く。日本は古代には中国文明を、近代にはヨーロッパ文明を受容して「国」を作ってきた。世界の流れをうまく「日本化」したという表現も可能だろうが、近代の標準である「民主政治」とか「人権宣言」は日本発のものではなかった。そのことを僕は「恥ずかしい歴史」だと思っていた。
だから若い時には「革命」を求める心理があった。18世紀段階までさかのぼると、世界は独裁的な強権体制の国ばかりだった。そういうところでは、人々に「革命権」があると思っていた。独裁者が自分から譲歩することはない。虐げられた側が闘うことなしに、権利は獲得できない。だから、「革命が世界史を発展させた」と考えたわけである。
個別の革命を考えると、確かにその多くは「起こらざるを得なかった」理由がある。それに「革命」とはガラガラポンの大変革だから、若い時には魅力的である。若い頃は何でもかんでもぶっ壊したいのである。僕も柳田学の「常民」概念を知っていたわけだが、歴史としては変化の少ない時期よりも、大々的な変革期の方が興味深かった。その意味では「革命幻想」のようなものを持っていたのである。その革命幻想をイメージ化したのが、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/26/ef/07446c8ee46e61fdb037f865a36b9c78_s.jpg)
日本の歴史の中に、このような「自由の女神」を探すこと。いないとしても、革命への可能性を探ること。そういう憧れのような「革命幻想」が、いつどのようにして自分の中から無くなったのだろうか。一つ大きかったのは、革命の現実、特に同時代の中国で起こっていた「文化大革命」(文革)のとらえ方が大きく変わったことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/44/18/4958a9039670203d551cc4b0f20295bc_s.jpg)
文革はその当時は情報が極端に少なかったうえ日本国内に「中国派」がかなりいたこともあり、ある種の「革命幻想」を僕も持っていたのである。その実相が判ってきたのは、文革終了後かなり経ってからだ。基本は毛沢東による奪権闘争だったと思うけど、毛沢東の呼びかけで党組織そのものを攻撃したため、社会に無秩序が広がった。それだけでなく、共産主義の名の下に恐るべき「差別」「人権無視」が出現したのだった。「革命」とは実に恐るべきものなのである。
もう一つ自分にとって大きかったのは、政治犯や冤罪者の救援運動に関わったことがある。同時代の韓国の民主化運動には大きなシンパシーを持った。日本史の中に探ってなかなか見つけられなかった、民衆による反軍事政権運動が眼前に展開されていた。そして韓国独裁政権は学生、文学者、宗教家などを逮捕し重罪を科そうとしていた。また、日本から留学していた「在日コリアン」の人々多数がスパイ罪で拘留されていた。日本でも活発な救援運動が展開されたが、僕が最初に参加した「集会」は韓国政治犯救援運動だった。(有楽町そごう=現ビックカメラ7階の読売ホールだった。)
その時点では「政治犯」というのは韓国とかソ連の問題だと思っていた。それ以外の(報道されない)国は目に入ってなかった。また日本にはおおよそのところ問題はないと思っていたのである。その後次第に知っていくのだが、実は日本の刑事司法は先進国では最低レベルだった。そして数多くの冤罪事件もあり、無実を訴える死刑囚も数多くいるのだった。本を読んでみると、免田事件、松山事件、島田事件などは明らかに有罪とは考えられなかった。しかし、その時点ではマスコミ報道は全くなかった。
その後実際に冤罪救援運動に関わることもあったが、その中で問われたのは最終的には「裁判官を説得する論理」をいかに構築するかである。支援運動は裁判所に提出する文書を作成するわけではないが、署名呼びかけ文などを作る時には論理性が求められる。ただ「無実だから裁判をやり直せ」と言うだけでは、何も成し遂げられない。大げさな物言いは逆効果でしかない。
大状況をあれこれ言うよりも、個別の人権事件を少しでも解決したいと僕が思うようになったのは、そういう冤罪問題から来たものだと思う。そこで改めて歴史上のいくつかの革命を考えてみると、そこで起こった恐るべき混乱、流血の大惨事、文化破壊は今ではとても認められないなと思った。フランス革命は昔過ぎるけれど、ドラマティックと言うより恐怖の革命である。ある時期まで歴史の画期とされていたロシア革命もそこで起きたのは混乱と流血で、最終的に独裁政権の誕生で終わったと評価軸が変わった。
もっとも当時のフランスやロシアには、全国民が参加する普通選挙制度はなかった。しかし、現代の日本には「普通選挙」と「基本的人権」が保証されている。それを考えると、「革命」の必要性はもはやないだろう。「革命」が必要なのは、そのような強烈な破壊エネルギーなくして前進出来ない構造がある場合だ。「革命」反対派を押し切ってでも強引に進めることが要求される。だけど、現代では「反対派」にも言論の自由が保障されている。反対派の言論・表現の自由を圧殺してまで行うべき「革命」とは何か。
そこまでの価値がある「革命」なんて現代にはないのである。今は個別ケースで「人権」が保証される方が優先されるのではないか。これは「闘い」が不要になったという意味ではない。保証されているはずの人権も「不断の努力」なしにはなし崩しにされて行くだろう。だから「人権のための闘い」というのは永遠に続く。だがすべてをぶっ壊せば上手く行くというような「革命」は、今では傍迷惑でしかない。
むしろ「革命思想」には、革命幻想にすべてを委ねる「お任せ」的発想がある。それが革命運動家に「家父長的指導者」が多くなる原因でもあるだろう。革命さえ起こればすべて(女性問題、環境問題等々)は解決するのであって、現行制度の中で個別の問題を解決するより「まずは革命を起こすことが優先」だなどと言う人が昔は本当にいたのである。だから、今では僕は「革命の論理」を離れて「人権の論理」に立つのである。