2024年1月の訃報。今度こそ簡単に書きたいが、それでも結構多かったので、まず広い意味での芸能、芸術関係を内外問わず。まず写真家の篠山紀信が1月4日に死去、83歳。写真家としては「きしん」と読ませたが、本名は「みちのぶ」である。60年代に活動を開始、和田誠の自伝にも出て来るが、高度成長時代に広告写真に新しい表現をもたらした先駆者だった。何でも撮っているが、特に「肖像」で知られた。三島由紀夫、坂東玉三郎、ジョン・レノンとオノ・ヨーコなどの他、「激写」シリーズや「週刊朝日」の表紙「女子大生」シリーズ、さらに宮沢りえ、樋口可南子などのヌード写真など多岐に渡る。追悼文を見ると、驚くべき速写で撮っていく「一瞬のアート」だった。僕にとっては南沙織と結婚した人という印象も大きい。
(篠山紀信)
寄席の紙切り第一人者の三代目林家正楽(はやしや・しょうらく)が1月21日に死去、76歳。88年に林家小正楽、2000年に林家正楽を襲名した。2020年には芸術選奨文部科学大臣賞、2023年には松尾芸能賞功労賞、浅草演芸大賞など紙切り芸としては過去にない栄誉を受けてきた。僕も何度も見て来て、長年楽しませて貰った。2015年に上野鈴本演芸場でトリを取ったとき『寄席紙切り百年「正楽三代展」』を書いた。所属していた落語協会の柳亭市馬会長の追悼文を一部引用すると「正楽さんに、もう会えないのか、あの芸を見られないのかと思うと、とても辛い。悲しくて、寂しくて、どうかなってしまいそうです。協会員も、いや正楽さんを知る人は皆、そうなると思います。今はただ、一緒に高座をつとめられた喜びと、楽しかった思い出を噛みしめつつ、ご冥福をお祈り申し上げるだけです。 」多くの人も同じ気持ちだろう。
(林家正楽)
アメリカで活躍したカナダ出身の映画監督ノーマン・ジュイソンが1月20日死去、97歳。主に60年代から90年代に多くの素晴らしい映画を作ったが、特に決まった方向性は見られず職人的に何でもこなす監督だった。一番有名なのは『夜の大捜査線』(1967)で、南部で起こった殺人事件を差別的な署長と旅行中だった黒人捜査官が捜査する。アカデミー賞作品賞、主演男優賞など5部門で受賞した。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)、シェールが主演女優賞を獲得したコメディ『月の輝く夜に』(1987)と合わせて3回アカデミー賞監督賞にノミネートされたが受賞出来なかった。最近全然話題にならないのが、ロックオペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)だが、僕は公開当時ずいぶん感激したものだ。他に『華麗なる賭け』(1968)、黒人ボクサーの冤罪事件『ザ・ハリケーン』(1999)など幾つもの作品を残している。
(ノーマン・ジュイソン)
1月31日に文楽の人間国宝、豊竹咲太夫が死去、79歳。人間国宝、文化功労者で、多くの名人の芸を受け継ぐ義太夫節を伝承する「最後の砦」と呼ばれていた。同じ31日に染色作家の柚木沙弥郎(ゆき・さみろう)が死去、101歳。芹沢銈介に感銘を受けて弟子入りし、染色を学んだ。女子美術大学で教え、学長も務めた。100歳を越えても染色を続けていた。
(豊竹咲太夫)(柚木沙弥郎)
ピアニストの江戸京子が1月23日死去、86歳。桐朋女子高校音楽科卒業後に渡仏しパリ高等音楽院で学び、その後はアメリカを拠点にして多くの演奏活動を行った。1985年に東京に本格的な音楽祭を作ろうと「アリオン音楽財団」を設立し、様々な音楽普及活動を行った。国際音楽祭の審査員、文化団体の役員なども数多く務めていた。1962年から4年間小澤征爾と結婚していた。父親は財界活動で知られた三井不動産社長江戸英雄。
(江戸京子)
演歌歌手の冠二郎が1月1日に死去、79歳。1967年にデビューしたが、紅白初出場は91年で長年の苦節を乗り越えてヒット曲を出した人だが、僕はこの時代になると歌謡界に詳しくなくて名前ぐらいしか知らない。歌手ではスプレーCMで知られた小金沢昇司が11日に死去、65歳。漫才トリオ「かしまし娘」の長姉、正司歌江が19日死去、94歳。三味線担当で、三人娘の音曲漫才で人気を博した。81年に活動を休止した後は、テレビドラマなどで活躍した。妹二人は健在である。コメディアン、パフォーマーの南部虎弾(なんぶ・とらた)が20日死去、72歳。「ダチョウ倶楽部」初代リーダーで、脱退後の80年に「電撃ネットワーク」を結成した。沖縄芝居の役者、平良進が27日死去、89歳。沖縄芝居で活躍し、琉球歌劇保存会の会長を務めた。映画『ナビィの恋』など多くの映画にも出演している。同じく琉球芝居の女優平良とみの夫。
(冠二郎)(正司歌江)
韓国の映画監督、イ・ドゥヨンが19日死去、81歳。70年に監督に昇進以来数多くの映画を作った。世界的に韓国映画が評価される直前に、世界に知られる映画を作っていた人。『避幕』『ムルレヤ ムルレヤ』『桑の葉』などで知られている。
(篠山紀信)
寄席の紙切り第一人者の三代目林家正楽(はやしや・しょうらく)が1月21日に死去、76歳。88年に林家小正楽、2000年に林家正楽を襲名した。2020年には芸術選奨文部科学大臣賞、2023年には松尾芸能賞功労賞、浅草演芸大賞など紙切り芸としては過去にない栄誉を受けてきた。僕も何度も見て来て、長年楽しませて貰った。2015年に上野鈴本演芸場でトリを取ったとき『寄席紙切り百年「正楽三代展」』を書いた。所属していた落語協会の柳亭市馬会長の追悼文を一部引用すると「正楽さんに、もう会えないのか、あの芸を見られないのかと思うと、とても辛い。悲しくて、寂しくて、どうかなってしまいそうです。協会員も、いや正楽さんを知る人は皆、そうなると思います。今はただ、一緒に高座をつとめられた喜びと、楽しかった思い出を噛みしめつつ、ご冥福をお祈り申し上げるだけです。 」多くの人も同じ気持ちだろう。
(林家正楽)
アメリカで活躍したカナダ出身の映画監督ノーマン・ジュイソンが1月20日死去、97歳。主に60年代から90年代に多くの素晴らしい映画を作ったが、特に決まった方向性は見られず職人的に何でもこなす監督だった。一番有名なのは『夜の大捜査線』(1967)で、南部で起こった殺人事件を差別的な署長と旅行中だった黒人捜査官が捜査する。アカデミー賞作品賞、主演男優賞など5部門で受賞した。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)、シェールが主演女優賞を獲得したコメディ『月の輝く夜に』(1987)と合わせて3回アカデミー賞監督賞にノミネートされたが受賞出来なかった。最近全然話題にならないのが、ロックオペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)だが、僕は公開当時ずいぶん感激したものだ。他に『華麗なる賭け』(1968)、黒人ボクサーの冤罪事件『ザ・ハリケーン』(1999)など幾つもの作品を残している。
(ノーマン・ジュイソン)
1月31日に文楽の人間国宝、豊竹咲太夫が死去、79歳。人間国宝、文化功労者で、多くの名人の芸を受け継ぐ義太夫節を伝承する「最後の砦」と呼ばれていた。同じ31日に染色作家の柚木沙弥郎(ゆき・さみろう)が死去、101歳。芹沢銈介に感銘を受けて弟子入りし、染色を学んだ。女子美術大学で教え、学長も務めた。100歳を越えても染色を続けていた。
(豊竹咲太夫)(柚木沙弥郎)
ピアニストの江戸京子が1月23日死去、86歳。桐朋女子高校音楽科卒業後に渡仏しパリ高等音楽院で学び、その後はアメリカを拠点にして多くの演奏活動を行った。1985年に東京に本格的な音楽祭を作ろうと「アリオン音楽財団」を設立し、様々な音楽普及活動を行った。国際音楽祭の審査員、文化団体の役員なども数多く務めていた。1962年から4年間小澤征爾と結婚していた。父親は財界活動で知られた三井不動産社長江戸英雄。
(江戸京子)
演歌歌手の冠二郎が1月1日に死去、79歳。1967年にデビューしたが、紅白初出場は91年で長年の苦節を乗り越えてヒット曲を出した人だが、僕はこの時代になると歌謡界に詳しくなくて名前ぐらいしか知らない。歌手ではスプレーCMで知られた小金沢昇司が11日に死去、65歳。漫才トリオ「かしまし娘」の長姉、正司歌江が19日死去、94歳。三味線担当で、三人娘の音曲漫才で人気を博した。81年に活動を休止した後は、テレビドラマなどで活躍した。妹二人は健在である。コメディアン、パフォーマーの南部虎弾(なんぶ・とらた)が20日死去、72歳。「ダチョウ倶楽部」初代リーダーで、脱退後の80年に「電撃ネットワーク」を結成した。沖縄芝居の役者、平良進が27日死去、89歳。沖縄芝居で活躍し、琉球歌劇保存会の会長を務めた。映画『ナビィの恋』など多くの映画にも出演している。同じく琉球芝居の女優平良とみの夫。
(冠二郎)(正司歌江)
韓国の映画監督、イ・ドゥヨンが19日死去、81歳。70年に監督に昇進以来数多くの映画を作った。世界的に韓国映画が評価される直前に、世界に知られる映画を作っていた人。『避幕』『ムルレヤ ムルレヤ』『桑の葉』などで知られている。