見田宗介先生の著作集を毎月読んでいこうという企画。2回目は著作集Ⅵの『生と死と愛と孤独の社会学』を読んだ。前回の『現代社会の理論』とともに、第1回配本で出た本である。非常に有名な「まなざしの孤独」や「夢の時代と虚構の時代」など全7編の論文を収録している。社会学論文には違いないが、社会時評的な面もあり、一般雑誌(「展望」「朝日ジャーナル」「思想」など)に発表された。今読んでも非常に刺激的で、時間が経ったとはいえ「見田社会学」の見本のような論文集だと思う。
一番後ろにある「定本解題」には、以下のように書かれている。「社会学という領野を志した時のわたしの最初のモチーフは、一人一人の生きている人間たちの愛や孤独や野望や執念や憧憬やシニシズムや歓喜や絶望のひしめく総体のダイナミズムとして社会を把握し表現してみたいということにあった。」さらに「『まなざしの地獄』は、尽きなく生きようとする人間たちの生のひしめきの総体として社会を把握し、表現するという、わたしにとってのあるべき社会学、あるいは夢の社会学のモデルの一つを提示しておきたいという意図で書かれた」と宣言されている。
このように見田社会学のマニフェスト的意味を持つ「まなざしの地獄」(「展望」73年5月号。ちなみに「展望」は筑摩書房の総合誌)は、端的に言ってしまえば「N・N」という「連続射殺魔」、つまり永山則夫の人生の考察である。主要な参考文献は鎌田忠良『殺人者の意思』(三一新書)であり、また本人が書いた『無知の涙』『人民を忘れたカナリアたち』も援用されている。集団就職や出稼ぎに関しては官庁統計を使っているが、永山の生育歴は鎌田著に依拠している。永山則夫に関しては、堀川惠子の著書が刊行されて全く様相を異にした。「究極のカウンセリング-「永山則夫 封印された鑑定記録」」(2013.8.5)を参照。
(永山則夫)
この論文は「都市論」として構想されている。階級的観点からはNは「国内植民地」である東北地方から「金の卵」ともてはやされる中卒労働者として集団就職で東京へ来た下層労働者である。しかし、彼らのほとんどは東京に居場所を見つけられない。物理的にもそうだし、精神的な意味でも。そして、自分を見定める視線に自分で囚われている。「N・Nは東京拘置所に囚われるずっと以前に、都市の他者たちのまなざしの囚人(とらわれびと)であった。」彼は大学生の名刺を偽造し、外国タバコを持ち歩く。
拘置所で麦めしが出ると残してしまい、「貧ぼうくさくていやだ」と語る。貧困による犯罪と主張しながら、贅沢好みを批判もされた。しかし、金持ちが健康のために食べる麦めしは貧乏くさくない。「麦めしが貧乏くさいのは、それが麦めしを食う人間の、ある情況の総体性を記号化(シグニファイ)しているからだ。」そして彼の都市からの疎外感が「怒り」として噴出する時がやって来たのだった。「都市空間」を「まなざしの地獄」として捉えたこの論文に対し、獄中の永山則夫からは「興味を持ちました、「被害者論」を完成させて下さい」と返信があったという。
永山則夫の事件からおよそ40年後に、秋葉原無差別殺傷事件が発生した。著者はこの事件の犯人「K」について、今度は「まなざしの不在の地獄」という小論を書いた。インターネット上の「掲示板」に何の反響もなかったことにKは苛立っていた。60年代には「贅沢」「貧乏」が記号として成立していたから、「まなざし」が大きな意味を持った。インターネットの登場で、人は何者にでも仮装できるようになったが、逆に何者に扮しても誰も応えてくれないという「まなざしの不在」にこそ意味が生じてしまったのである。この文章を書いている、まさにその日にKの死刑が執行されたのは、驚くべき偶然だった。
解題によると、この「N・N論」は本来もっと大きな構想ものだという。全部を紹介すると長くなるので、大きな分類のみ引用する。「Ⅰ家郷論」「Ⅱ都市論」「Ⅲ階級論」「Ⅳ国家論」「Ⅴ言語論」「Ⅵ革命論」「Ⅶ被害者論」「Ⅷ「第三者」論」「Ⅸ歴史構造論」。この論文は「都市論」「階級論」の一部だとある。永山則夫が被害者論を完成させて下さいと言ったのは、このⅦのことだろう。しかし、結局はこの全体構想は書かれずに終わったのである。
長くなったので、「夢の時代と虚構の時代」のみ簡単に。初出は1990年の東京都写真美術館の開館記念「東京 都市の視線」のカタログだという。おっと、それは知らなかった。この論文は「戦後」を3期に分け、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」とする。理想の時代とは、もちろん理想的だった時代という意味ではない。人々が「戦後の理想を信じていた時代」のことである。60年の池田内閣による「所得倍増」の掛け声で「高度経済成長」が本格化する。生活向上の夢を多くの人が共有した時代が「夢の時代」。そして、73年の第3次中東戦争によるオイルショックで、高度成長の時代が終わる。以後を「虚構の時代」とする。
これは同時代的に非常に納得できる時代区分だった。しかし、それからさらに30年が経っている。自分の実感としては、95年のオウム真理教事件と阪神淡路大震災で、それまでの「虚構の時代」は転換したように思う。ちょうどその時期が携帯電話やパソコンの「勃興期」だったとも大きい。暮らし方がそれ以前(インターネット、携帯メールのない時代)と全く違ってしまった感じがする。それ以後では2011年の東日本大震災と原発事故だろうが、それが果たして「時代の画期」だったかどうかは未だはっきりとは言えない。現在地点を「何の時代」と呼ぶべきかも判らない。ただ、衰退化する社会という感じがする。
一番後ろにある「定本解題」には、以下のように書かれている。「社会学という領野を志した時のわたしの最初のモチーフは、一人一人の生きている人間たちの愛や孤独や野望や執念や憧憬やシニシズムや歓喜や絶望のひしめく総体のダイナミズムとして社会を把握し表現してみたいということにあった。」さらに「『まなざしの地獄』は、尽きなく生きようとする人間たちの生のひしめきの総体として社会を把握し、表現するという、わたしにとってのあるべき社会学、あるいは夢の社会学のモデルの一つを提示しておきたいという意図で書かれた」と宣言されている。
このように見田社会学のマニフェスト的意味を持つ「まなざしの地獄」(「展望」73年5月号。ちなみに「展望」は筑摩書房の総合誌)は、端的に言ってしまえば「N・N」という「連続射殺魔」、つまり永山則夫の人生の考察である。主要な参考文献は鎌田忠良『殺人者の意思』(三一新書)であり、また本人が書いた『無知の涙』『人民を忘れたカナリアたち』も援用されている。集団就職や出稼ぎに関しては官庁統計を使っているが、永山の生育歴は鎌田著に依拠している。永山則夫に関しては、堀川惠子の著書が刊行されて全く様相を異にした。「究極のカウンセリング-「永山則夫 封印された鑑定記録」」(2013.8.5)を参照。
(永山則夫)
この論文は「都市論」として構想されている。階級的観点からはNは「国内植民地」である東北地方から「金の卵」ともてはやされる中卒労働者として集団就職で東京へ来た下層労働者である。しかし、彼らのほとんどは東京に居場所を見つけられない。物理的にもそうだし、精神的な意味でも。そして、自分を見定める視線に自分で囚われている。「N・Nは東京拘置所に囚われるずっと以前に、都市の他者たちのまなざしの囚人(とらわれびと)であった。」彼は大学生の名刺を偽造し、外国タバコを持ち歩く。
拘置所で麦めしが出ると残してしまい、「貧ぼうくさくていやだ」と語る。貧困による犯罪と主張しながら、贅沢好みを批判もされた。しかし、金持ちが健康のために食べる麦めしは貧乏くさくない。「麦めしが貧乏くさいのは、それが麦めしを食う人間の、ある情況の総体性を記号化(シグニファイ)しているからだ。」そして彼の都市からの疎外感が「怒り」として噴出する時がやって来たのだった。「都市空間」を「まなざしの地獄」として捉えたこの論文に対し、獄中の永山則夫からは「興味を持ちました、「被害者論」を完成させて下さい」と返信があったという。
永山則夫の事件からおよそ40年後に、秋葉原無差別殺傷事件が発生した。著者はこの事件の犯人「K」について、今度は「まなざしの不在の地獄」という小論を書いた。インターネット上の「掲示板」に何の反響もなかったことにKは苛立っていた。60年代には「贅沢」「貧乏」が記号として成立していたから、「まなざし」が大きな意味を持った。インターネットの登場で、人は何者にでも仮装できるようになったが、逆に何者に扮しても誰も応えてくれないという「まなざしの不在」にこそ意味が生じてしまったのである。この文章を書いている、まさにその日にKの死刑が執行されたのは、驚くべき偶然だった。
解題によると、この「N・N論」は本来もっと大きな構想ものだという。全部を紹介すると長くなるので、大きな分類のみ引用する。「Ⅰ家郷論」「Ⅱ都市論」「Ⅲ階級論」「Ⅳ国家論」「Ⅴ言語論」「Ⅵ革命論」「Ⅶ被害者論」「Ⅷ「第三者」論」「Ⅸ歴史構造論」。この論文は「都市論」「階級論」の一部だとある。永山則夫が被害者論を完成させて下さいと言ったのは、このⅦのことだろう。しかし、結局はこの全体構想は書かれずに終わったのである。
長くなったので、「夢の時代と虚構の時代」のみ簡単に。初出は1990年の東京都写真美術館の開館記念「東京 都市の視線」のカタログだという。おっと、それは知らなかった。この論文は「戦後」を3期に分け、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」とする。理想の時代とは、もちろん理想的だった時代という意味ではない。人々が「戦後の理想を信じていた時代」のことである。60年の池田内閣による「所得倍増」の掛け声で「高度経済成長」が本格化する。生活向上の夢を多くの人が共有した時代が「夢の時代」。そして、73年の第3次中東戦争によるオイルショックで、高度成長の時代が終わる。以後を「虚構の時代」とする。
これは同時代的に非常に納得できる時代区分だった。しかし、それからさらに30年が経っている。自分の実感としては、95年のオウム真理教事件と阪神淡路大震災で、それまでの「虚構の時代」は転換したように思う。ちょうどその時期が携帯電話やパソコンの「勃興期」だったとも大きい。暮らし方がそれ以前(インターネット、携帯メールのない時代)と全く違ってしまった感じがする。それ以後では2011年の東日本大震災と原発事故だろうが、それが果たして「時代の画期」だったかどうかは未だはっきりとは言えない。現在地点を「何の時代」と呼ぶべきかも判らない。ただ、衰退化する社会という感じがする。
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