『バルド、偽りの記録と一握りの真実』〈Bardo (or False Chronicle of a Handful of Truths)〉という映画が限定公開されている。Netflix配信の映画だが、これは是非大画面で見ておきたい。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督7年ぶりの長編映画で、デビュー作の『アモーレス・ペロス』(2000)以来初めてメキシコで撮影した映画である。
イニャリトゥ監督は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)、『レヴェナント: 蘇えりし者』(2015)で2年続けてアカデミー賞監督賞を受賞した名匠である。アメリカで高く評価された監督が、自己を振り返りメキシコやアメリカの歴史を夢のように描き出す。映画監督の夢と真実と言えば、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』を思い出す。聖母が現れたという話も出て来て、これは『甘い生活』。明らかにフェリーニ的なカーニバル風の壮麗な作品で、見事な出来映えだと思うけど、ヴェネツィア映画祭では無冠に終わった。160分と長すぎてまとまりがないという評が多いようである。
セットも壮大、映像も華麗となると、予算も膨大になる。今ではそういう企画はNetflixしか通らないのかもしれない。劇場公開が前提なら、確かにもう少し切り込んで欲しい気がする。しかし、監督が好きなように作った壮大な世界が魅力的なのも間違いない。映画の主人公シルベリオ・ガマは、著名なジャーナリストでドキュメンタリー映画の監督でもある。アメリカの有名なジャーナリスト賞をメキシコ人として初めて受賞し、それをきっかけにしてメキシコに帰国する。母国ではテレビに呼ばれたり、大パーティが開かれ、彼の想念は夢と現実、過去と現在を行き来する。パーティには彼の親戚が待っていて、その中には死んだ父親もいる。晴れがましい席を避けてトイレに行くと、父に会う場面は感動的だ。
(パーティ会場で)
この映画では夢と現実が入り交じり変容されて描かれる。長男マテオは誕生直後に「まだ出て来たくないと言ってる」として医者が母の胎内に戻してしまう。そんなトンデモ場面は、後で出て来るセリフで実は死産だったと判る。未だに遺骨を埋葬出来ず持ち歩いていて、その後2人の子どもに恵まれたが夫婦の悲しい思い出である。あるいは主人公の映画として、メキシコの征服者コルテスとの対話が出て来る。死者の山の上にコルテスがいて歴史を語る。ドキュフィクションだと称している。
『バードマン』『レヴェナント』の2作は名手エマニュエル・ルベツキが撮影していた。ルベツキは2013年の『ゼロ・グラビティ』に続き、3年連続してアカデミー撮影賞を受賞した。しかし、今回は『セブン』『ミッドナイト・イン・パリ』『愛、アムール』などのダリウス・コンジが撮影を担当した。長回し、ロングショットで壮大な作品世界を作りだし、感嘆するしかない。冒頭の夢のシーン(影が飛ぶ)やパーティ場面の長回しなど、特に忘れがたい。俳優はメキシコで活動している人を中心にキャスティングされている。名前を知っている人はいないので省略。
(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)
主人公はテレビに呼ばれるが、昔の友人の人気司会者に何を聞かれても一言も話さない。それは夢のシーンで、実際はすっぽかしたらしい。パーティで会って、友人のすることかと詰問される。さらに、アメリカに身を売って空虚な映画ばかり作っていると言われる。すると主人公は自由もないメキシコで「いいね」の数を競うような暮ら重要なのかと言い返す。このあたりに、監督の思いが凝縮されている。アメリカで成功したことへの誇りとともに、メキシコの現実を見捨てたのではないかという悔いがある。そのような複雑な思いを監督は抱いているのだろう。
原題の「Bardo」が何だか判らないけど、映画の中で一度だけセリフに出てくる。そこでは「中陰」(ちゅういん)と訳されている。よく判らないけど、玄侑宗久『中陰の花』という芥川賞受賞作があったなと思い出した。仏教用語である。家で調べたらチベット語由来らしく、ネットで調べると「死者が今生と後生の中間にいるためantarā(中間の)bhava(生存状態)という」と出ていた。ラストで監督は栄えある授賞式を前に倒れてしまうが、すべては死の前に見た夢幻だったのかもしれない。
イニャリトゥ監督は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)、『レヴェナント: 蘇えりし者』(2015)で2年続けてアカデミー賞監督賞を受賞した名匠である。アメリカで高く評価された監督が、自己を振り返りメキシコやアメリカの歴史を夢のように描き出す。映画監督の夢と真実と言えば、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』を思い出す。聖母が現れたという話も出て来て、これは『甘い生活』。明らかにフェリーニ的なカーニバル風の壮麗な作品で、見事な出来映えだと思うけど、ヴェネツィア映画祭では無冠に終わった。160分と長すぎてまとまりがないという評が多いようである。
セットも壮大、映像も華麗となると、予算も膨大になる。今ではそういう企画はNetflixしか通らないのかもしれない。劇場公開が前提なら、確かにもう少し切り込んで欲しい気がする。しかし、監督が好きなように作った壮大な世界が魅力的なのも間違いない。映画の主人公シルベリオ・ガマは、著名なジャーナリストでドキュメンタリー映画の監督でもある。アメリカの有名なジャーナリスト賞をメキシコ人として初めて受賞し、それをきっかけにしてメキシコに帰国する。母国ではテレビに呼ばれたり、大パーティが開かれ、彼の想念は夢と現実、過去と現在を行き来する。パーティには彼の親戚が待っていて、その中には死んだ父親もいる。晴れがましい席を避けてトイレに行くと、父に会う場面は感動的だ。
(パーティ会場で)
この映画では夢と現実が入り交じり変容されて描かれる。長男マテオは誕生直後に「まだ出て来たくないと言ってる」として医者が母の胎内に戻してしまう。そんなトンデモ場面は、後で出て来るセリフで実は死産だったと判る。未だに遺骨を埋葬出来ず持ち歩いていて、その後2人の子どもに恵まれたが夫婦の悲しい思い出である。あるいは主人公の映画として、メキシコの征服者コルテスとの対話が出て来る。死者の山の上にコルテスがいて歴史を語る。ドキュフィクションだと称している。
『バードマン』『レヴェナント』の2作は名手エマニュエル・ルベツキが撮影していた。ルベツキは2013年の『ゼロ・グラビティ』に続き、3年連続してアカデミー撮影賞を受賞した。しかし、今回は『セブン』『ミッドナイト・イン・パリ』『愛、アムール』などのダリウス・コンジが撮影を担当した。長回し、ロングショットで壮大な作品世界を作りだし、感嘆するしかない。冒頭の夢のシーン(影が飛ぶ)やパーティ場面の長回しなど、特に忘れがたい。俳優はメキシコで活動している人を中心にキャスティングされている。名前を知っている人はいないので省略。
(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)
主人公はテレビに呼ばれるが、昔の友人の人気司会者に何を聞かれても一言も話さない。それは夢のシーンで、実際はすっぽかしたらしい。パーティで会って、友人のすることかと詰問される。さらに、アメリカに身を売って空虚な映画ばかり作っていると言われる。すると主人公は自由もないメキシコで「いいね」の数を競うような暮ら重要なのかと言い返す。このあたりに、監督の思いが凝縮されている。アメリカで成功したことへの誇りとともに、メキシコの現実を見捨てたのではないかという悔いがある。そのような複雑な思いを監督は抱いているのだろう。
原題の「Bardo」が何だか判らないけど、映画の中で一度だけセリフに出てくる。そこでは「中陰」(ちゅういん)と訳されている。よく判らないけど、玄侑宗久『中陰の花』という芥川賞受賞作があったなと思い出した。仏教用語である。家で調べたらチベット語由来らしく、ネットで調べると「死者が今生と後生の中間にいるためantarā(中間の)bhava(生存状態)という」と出ていた。ラストで監督は栄えある授賞式を前に倒れてしまうが、すべては死の前に見た夢幻だったのかもしれない。
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