尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小柳ちひろ「女たちのシベリア抑留」を読む

2020年08月24日 22時39分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 8月23日に「シベリア抑留」で亡くなった人を追悼する集会が千鳥ヶ淵の戦没者墓苑で開かれた。1945年8月15日にスターリンが抑留の指令を出したことにちなんで、2003年からこの日に開かれているという。「抑留者約57万5000人のうち約5万5000人が死亡。同墓苑には身元不明の約1万7000人分の遺骨が納められている。」(東京新聞) 

 ソ連は8月9日に日本に宣戦を布告し、日本が事実上支配していた旧「満州国」を攻撃した。しかし、もちろんソ連は「満州国」を承認していないから、そこは「中華民国」である。日本軍捕虜を勝手にソ連に連行するのは、もちろん国際法違反である。しかし、ドイツとの戦いで疲弊したソ連は国策として捕虜を強制労働させることにした。そのことはソ連崩壊後に発見された文書で裏付けられている。当時のソ連国内には多くの政治犯もいて「収容所群島」だったわけである。

 ここでは今「シベリア抑留」について全面的に語るつもりはない。この問題に関しては昔からずいぶん読んできたけれど、最近読んだ小柳ちひろ女たちのシベリア抑留」(文藝春秋社)によって、全く知らなかったことを初めて知った。この本はNHKのBS1スペシャルで2014年に放送された番組を書籍化したものである。僕は元の放送は見ていないが(BSは見られない)、芸術祭賞優秀賞など多くの賞を得たということだ。5年の追加取材を経て、2019年12月に刊行された。

 著者の小柳ちひろ氏は1976年生まれで、多くの戦争証言を取材してきた人である。僕はシベリア抑留者に女性がいたという話は初めて知った。今までも記述があった本もあるようだが、直接の証言者がいないし数は少ないから、そのままスルーしていたのかもしれない。数的には数百名だから、全体に占める割合は非常に少ない。ほぼ「満州国」北部のソ連国境に近い佳木斯(ジャムス)にいた従軍看護婦だった。例外もあるが、おおよそは1946年12月には帰国しているから、シベリア抑留体験者に話を聞いてもほとんどは「女性抑留者は見たことがない」という答えになる。でも、実際は少数ではあるとはいえ、いることはいたのである。

 ソ連としても、「強制労働」を目的にしているのだから、極寒の地に女性を連行しても意味がない。必要な食料に対し達成できるノルマが引き合わない。だから「モスクワの指令」によって女性も連行したわけでもないようだ。手違いのようなもので、男と共に連れてこられた。そしてシベリアでも傷病兵の看護に当たったものが多い。最近出た本の中でも、戦争に関する一番重要な新証言ではないかと思う。著者が取材を始めた頃は、20代、10代で連行された女性たちの多くは存命だったので貴重な証言を残した。

 厳しい環境の中でも生き抜く力強さ、「民主化運動」の影、ロシア人の人なつこさなど、男性抑留者が書いた記録とほぼ同じだが、それに加えて女性ならではの視点がある。それは「性暴力」をめぐる問題と「看護の重要性」である。男に交じって働きながら、何とか生きて帰った彼女たちに、日本国は冷たかった。それも他の男性抑留者と同じである。一方、戦犯として起訴され有罪となった女性もいた。(ソ連国外でありながら「反革命罪」に問われたケースもある。)
(8月23日の追悼式典)
 最終章では「帰らざるアーニャ」では村上秋子という女性の数奇なる人生が追跡される。ついに日本に帰らず、シベリアの地で「アーニャ」として死んでいった女性。もともとは朝鮮半島北部の元山にいた「芸者」だったらしい。それがどうしてソ連で裁かれることになったのか。歴史の中に消えていた多くの女性の声を伝える本だが、この最後に扱われた「アーニャ」ほど苛酷な人生は少ない。なお、シベリア抑留死者については、故・村山常男氏がまとめた「シベリア抑留死亡者名簿」がウェブ上に公開されている。(その中には父親の兄が含まれている。)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画「アルプススタンドのは... | トップ | 上野誠「万葉学者、墓をしま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

 〃 (歴史・地理)」カテゴリの最新記事