尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

長篠合戦、決定版ー中公新書『長篠合戦』を読む

2024年02月04日 22時27分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 しばらく小説を読んでいたので歴史系の本が読みたくなって、中公新書12月新刊の『長篠合戦』を読んだ。著者の金子拓氏は東大史料編纂所教授で、『大日本史料』の信長時代担当として「長篠合戦」の巻を2021年に公刊したばかりだという。『大日本史料』は明治時代から延々と続く史料公刊事業で、平安時代初期で途絶えたままの日本の史料をまとめるという壮大な企画である。ずいぶんたくさん出ているがまだまだ未刊が多い。一応幕末まで作られることになっているが、いつ完結するかは誰にも判らない。その担当だった金子氏は長篠合戦について、もっとも多くの史料、論文を読んできた人に違いない。

 「長篠合戦」(長篠の戦い)は必ず教科書に出て来るので、細かいことは忘れていても名前ぐらいは覚えてる人が多いだろう。1575年に三河国東部の長篠城をめぐって、織田・徳川軍武田勝頼軍が激突した戦いである。武田軍は敗北し、そこから織田信長の天下統一が加速することになったと言われることが多い。織田軍は鉄砲を大胆に使用し、鉄砲隊を三段に配置し連射することで武田氏の騎馬軍団を打ち破ったとされる。そういう話を自分も授業でしたことがある。教科書にもそのように出て来るし、日本史の概説書や歴史小説にもそう書いてあった。しかし、20世紀末以来、この通説に疑問が投げかけられてきた。

 僕もそっちが正しいような感じがして、21世紀になってからの授業では「最近は疑われている」と教えたと思う。ある時代までは「天才信長の軍事革命」とまで高評価されていた。しかし、そもそも当時の火縄銃は手込め式で、練達した兵でも同じ時間で弾を込めるのは難しいという。また耳元で銃を発射すると、次の「撃て」という命令が聞き取れないほどの騒音がするらしい。現実的に「三段撃ち」など不可能だというのである。そして信頼出来る(時間的に近い参加者などの)直接史料にあたると、銃の話は出て来るが「三段撃ち」などとは書かれていないらしい。「鉄砲隊を三組に分けた」程度のことらしいのである。
(長篠の場所)
 またそもそも武田氏に騎馬軍団などなかったという説も現れた。滅亡した武田氏の研究は遅れていて、勝ち残った徳川氏や部下の「伝説的勝利」が伝えられてきた。江戸時代に伝説化した戦いを、近代になって日本軍の公刊戦史がさらに誇張して定着させた。そして、それを吉川英治、山岡荘八、司馬遼太郎などの時代小説が見て来たような描写で人々に印象付けたのである。著者はその間の経過を映画やマンガにまで目配りして、細かく分析している。それは面白いんだけど、話が詳しくなりすぎるので省略する。(著者は「ラピュタ阿佐ヶ谷」まで昔の映画を見に行っている。)

 結局どうだったのかを細かく分析するのが本書で、最近の歴史系新書と同じく相当に面倒くさい。皆がそこまで詳しく知らなくても良いだろうが、世に数多い歴史ファンは頑張って欲しい。著者が言うには、要するに長篠合戦だけを見ていてもダメで、その前提としての両軍の戦略を押える必要があるという。信長にとって最大の課題は、その年の秋に予定していた「石山本願寺攻略」だった。そのために一兵も損耗したくなかったのである。勝頼軍が侵攻してきたのも、本願寺などと組んだ織田包囲網の一環として大坂攻撃の「後詰め」をするためだった。その時に徳川の旧本拠地岡崎で大岡弥四郎の内通事件が発覚した。

 近年注目されている事件で、家康嫡男信康の側近も絡んでいたとか、正室築山殿も加担していたなどと言われる。つまり徳川内部では御家存続のため織田と手切れして武田に鞍替えするしかないというムードまであった。家康もなかなか援軍に来ない信長に対して、このままでは武田に遠江を譲り和睦するしかないなどと訴えていたという。(それが信頼出来る史料かどうか疑問もあるが。)徳川が武田に内通した場合、祖地尾張が直接危機にさらされ、本願寺や毛利攻めどころではなくなる。そこで信長も大軍を派遣することにし自ら出馬したが、同時に兵の損耗を防ぐために「馬防柵」を築く「事実上の籠城戦」を行った。
(合戦の両軍配置図)
 その上で家康配下の酒井忠次率いる別動隊に武田軍の一部がいた鳶巣山(とびのすやま)を攻撃させた。両軍とも城に籠らない野戦のはずが、山がちで大軍同士のぶつかり合いにならず、織田軍は柵に籠って近づく武田軍を銃撃した。この柵は今まで「騎馬隊を防ぐ」などと言われてきたが、要するに事実上の城として機能したのである。武田軍にも鉄砲はあったし、時には柵を越えて進撃し織田・徳川軍に迫ることもあった。しかし、徳川内部の内通をあてにして侵攻してきた武田軍は、本来の戦略目標じゃない長篠城に固執してしまった。籠城戦は数でまさる方が有利で、その鉄則通り武田方が敗北したのである。
(長篠合戦図屏風)
 別動隊を率いた酒井家は、転封を繰り返した末に出羽鶴岡藩、つまり藤沢周平が描く海坂藩のモデル庄内藩として幕末まで続いた。長篠城に篭城して耐え抜いた奥平家はこれも豊前中津藩として幕末まで続き、福沢諭吉を輩出した。これらの藩では祖先の英雄物語として長篠合戦を顕彰し、やがて合戦図屏風が作られるようになった。これらも幾つか系譜があるそうで、細かく分析されている。このように、「事実」はやがて関係者によって「伝説」となり、それがさらに小説などで一般のイメージとなる。その過程までていねいに解き明かした本で、歴史ファンならじっくり読むに値する。結局、三段撃ちの鉄砲革命などなかったのである。

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