宮崎駿監督(1941~)の10年ぶりの新作アニメーション映画『君たちはどう生きるか』が7月14日に公開された。これは「事件」であり、映画ファンなら見ないという選択肢はない。だが事前の宣伝が全くなされず、どんな映画かよく判らないまま見たわけである。当初はパンフレットも発売されず、作者側の情報発信は極めて少なかった。当初の評価も「よく判らない」「もう一回見ないと」という感想が多いようだった。実は自分も同様で、最近ようやく2度目を見直したのである。(なお、以下では内容に触れる部分があり、全く白紙で見たいと思う人は、見てから読んで欲しい。)
いま「よく判らない」という表現があったが、ファンタジー映画なんだから設定が謎めいているのは当然だ。リアリズムの実写映画だろうが、あるいは映画以外の様々なジャンルであろうが、作品のテーマが完全に観客に伝わるわけではない。そんな映画があったら、それはつまらない映画だろう。宮崎映画を思い出せば、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』のストーリーを説明せよと言われても、僕にはうまく言えない。だけど、その2本の映画(明らかに宮崎映画の頂点)を見ている間、この映画は判るとか判らないなどと誰も思わないだろう。「うまく説明出来ないけれど、今すごいものを見ている」と皆が思っていたからだ。
だから、「よく判らない」なんて議論をしている段階で、やはりこの映画は宮崎監督の大傑作ではないのである。世の中には、100歳で作った『一枚のハガキ』が最高傑作レベルだった新藤兼人みたいな監督もいる。だけど、黒澤明やフェデリコ・フェリーニのように、壮年期の大傑作に比べると晩年の作品には不満が残る方が普通だろう。近年の山田洋次監督も同じ道をたどっている気がするが、それでももちろん見る意味はある。『君たちはどう生きるか』が宮崎駿最後の映画になる可能性は高いだろうが、黒澤最後の『まあだだよ』やフェリーニ最後の『ボイス・オブ・ムーン』より良く出来ていると思う。
(宮崎駿)
映画の冒頭で、サイレンが鳴り響き「母さんの病院が家事だ」と「兄」が飛び出していく。僕はこれを「空襲」だと思い込んでしまったのだが、それは戦時中の話だという程度の事前情報は持っていたからだ。しかし、その後、「戦争3年目に母が死に、4年目に東京を離れた」といったナレーションが入る。どうも時間が合わない。(東京が本格的空襲にあうのは1944年11月以後。)パンフでは「母を火事で失った11歳の少年」とある。ところで、冒頭に出て来た「兄」はどうなったのだろう。徴兵、徴用されたか、または遠くの大学へ進学したか。それとも母を救おうとして、兄も火事で亡くなったのか。
この映画がどうもよく判らない感じがするのは、ストーリーの細部にうまくつながらない箇所が散見されるからだと思う。異世界に紛れ込んだ後はどういう進行をしても構わないわけだが、2度見たらストーリー的なつながりに疑問な展開がかなりあった。もう一つ、ファンタジーの構造として少し弱い点がある。ファンタジーには「異世界のルールのみで進行するもの」と「現世から異世界へ行って、再び現世に戻るもの」の2タイプがある。『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)や『ハリー・ポッター』シリーズなどは前者、エンデ『果てしない物語』(映画『ネバーエンディング・ストーリー』)などが後者だ。
宮崎映画では『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』が前者で、『千と千尋の神隠し』が後者である。後者の場合、あるミッションを果たすため異世界に赴いて、いくつかの通過儀礼をこなして現世に戻って来る。『千と千尋』の場合、両親がブタに変えられてしまい、千尋は家に戻るためにも救出のミッションを果たさざるを得ない。ブタ変身もなるほどと思わせる描写がある。一方、今回の映画では義理の母(実母の妹)夏子が「青鷺屋敷」に行くのを見るが、何故向かわざるを得ないかが判らない。そして、異世界で囚われるた義母を主人公、眞人(まひと)が救い出す。
義母を救出に向かうのは当然と言えば当然だが、やはり実の両親を救うのに比べれば弱いだろう。眞人はどこか新しい母になじめなかったが、ラストでは「夏子母さん」と呼ぶようになっている。謎めいた異世界で、若き日の母であるらしき少女ヒミや世界のバランスを取り続ける青鷺屋敷の塔に住んでいた大叔父に出会って、眞人は変わってゆくのである。だけど、新しい母を「母さん」と呼べるようになるというのは、本人には大事だろうが世界全体には大きな意味はない。だから、眞人のこのミッション自体に切実さが低くないかと思ってしまう。
さらに「大叔父」は自分も年を取ったので後継者が欲しいという。それは自分の血を引いた者に限られるという。それが何故なのかが説明されないが、世界を救う役は「血筋」で決まるのか。それじゃ「身分制度」である。そこで冒頭に戻るのだが、血筋で言うなら「兄」が継いでも良いはずだ。もし「兄」が死んでいたら、この謎世界で出会うのではないか。(母は「あっち」にいるのだから。)では兄は元気なのか。その説明は不可欠ではないか。この問題は『風の谷のナウシカ』から続く「宮崎駿と天皇制認識」として慎重に検討すべき問題だ。
さて、別の観点から考えると、宮崎駿映画の最大の魅力は「飛翔」にある。今度の映画には鳥がいっぱい出て来る。だがアオサギは別にして、ペリカンもインコも飛ばずに歩いている。主人公も飛べないから、飛行機の世界を描いて「飛翔感」にあふれていた前作『風立ちぬ』に比べ、どこかこの映画に違和感を感じてしまう。むしろ「地下世界」を描いているように思う。その意味では、村上春樹の小説のような感触がある。「ミッション」の濃度が薄まっている感じがするのも、村上春樹と近いかもしれない。
ただ、今度は「建物映画」としての魅力が増している。『千と千尋の神隠し』や『魔女の宅急便』と並ぶような、洋館、和館に魅せられる映画である。それを見るためだけでも、もう一回ぐらい見てもいい気がする。「戦時下の疎開=いじめ」映画にも出来るし、「義母と子の和解まで」をじっくり描く方向もある。そういうリアリズム映画は他にあるけれど、宮崎映画は異世界ファンタジーになるのである。
題名の『君たちはどう生きるか』は言うまでもなく、吉野源三郎・山本有三名義で出された「児童小説」から取られている。映画では母の贈り物として出て来る。僕は前作『風立ちぬ』が堀辰雄の映画じゃないように、今度の映画もまあ「名義借り」に近いと考える。吉野源三郎の原作に思い入れし過ぎて「深読み」するのは間違いだろう。僕も若い頃に叔父さんから貰ったことがある。ある時期には、ちゃんと本を読める時期になった子どもへの定番ギフトだったのだろう。その時は僕には何だか古い話に思えて、あまり影響されなかった。そんなことを思い出した。なお、パンフは820円したが、情報的には少ない。(絵は多い。)誰が誰の声か知りたい人は、Wikipediaに出ている。
いま「よく判らない」という表現があったが、ファンタジー映画なんだから設定が謎めいているのは当然だ。リアリズムの実写映画だろうが、あるいは映画以外の様々なジャンルであろうが、作品のテーマが完全に観客に伝わるわけではない。そんな映画があったら、それはつまらない映画だろう。宮崎映画を思い出せば、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』のストーリーを説明せよと言われても、僕にはうまく言えない。だけど、その2本の映画(明らかに宮崎映画の頂点)を見ている間、この映画は判るとか判らないなどと誰も思わないだろう。「うまく説明出来ないけれど、今すごいものを見ている」と皆が思っていたからだ。
だから、「よく判らない」なんて議論をしている段階で、やはりこの映画は宮崎監督の大傑作ではないのである。世の中には、100歳で作った『一枚のハガキ』が最高傑作レベルだった新藤兼人みたいな監督もいる。だけど、黒澤明やフェデリコ・フェリーニのように、壮年期の大傑作に比べると晩年の作品には不満が残る方が普通だろう。近年の山田洋次監督も同じ道をたどっている気がするが、それでももちろん見る意味はある。『君たちはどう生きるか』が宮崎駿最後の映画になる可能性は高いだろうが、黒澤最後の『まあだだよ』やフェリーニ最後の『ボイス・オブ・ムーン』より良く出来ていると思う。
(宮崎駿)
映画の冒頭で、サイレンが鳴り響き「母さんの病院が家事だ」と「兄」が飛び出していく。僕はこれを「空襲」だと思い込んでしまったのだが、それは戦時中の話だという程度の事前情報は持っていたからだ。しかし、その後、「戦争3年目に母が死に、4年目に東京を離れた」といったナレーションが入る。どうも時間が合わない。(東京が本格的空襲にあうのは1944年11月以後。)パンフでは「母を火事で失った11歳の少年」とある。ところで、冒頭に出て来た「兄」はどうなったのだろう。徴兵、徴用されたか、または遠くの大学へ進学したか。それとも母を救おうとして、兄も火事で亡くなったのか。
この映画がどうもよく判らない感じがするのは、ストーリーの細部にうまくつながらない箇所が散見されるからだと思う。異世界に紛れ込んだ後はどういう進行をしても構わないわけだが、2度見たらストーリー的なつながりに疑問な展開がかなりあった。もう一つ、ファンタジーの構造として少し弱い点がある。ファンタジーには「異世界のルールのみで進行するもの」と「現世から異世界へ行って、再び現世に戻るもの」の2タイプがある。『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)や『ハリー・ポッター』シリーズなどは前者、エンデ『果てしない物語』(映画『ネバーエンディング・ストーリー』)などが後者だ。
宮崎映画では『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』が前者で、『千と千尋の神隠し』が後者である。後者の場合、あるミッションを果たすため異世界に赴いて、いくつかの通過儀礼をこなして現世に戻って来る。『千と千尋』の場合、両親がブタに変えられてしまい、千尋は家に戻るためにも救出のミッションを果たさざるを得ない。ブタ変身もなるほどと思わせる描写がある。一方、今回の映画では義理の母(実母の妹)夏子が「青鷺屋敷」に行くのを見るが、何故向かわざるを得ないかが判らない。そして、異世界で囚われるた義母を主人公、眞人(まひと)が救い出す。
義母を救出に向かうのは当然と言えば当然だが、やはり実の両親を救うのに比べれば弱いだろう。眞人はどこか新しい母になじめなかったが、ラストでは「夏子母さん」と呼ぶようになっている。謎めいた異世界で、若き日の母であるらしき少女ヒミや世界のバランスを取り続ける青鷺屋敷の塔に住んでいた大叔父に出会って、眞人は変わってゆくのである。だけど、新しい母を「母さん」と呼べるようになるというのは、本人には大事だろうが世界全体には大きな意味はない。だから、眞人のこのミッション自体に切実さが低くないかと思ってしまう。
さらに「大叔父」は自分も年を取ったので後継者が欲しいという。それは自分の血を引いた者に限られるという。それが何故なのかが説明されないが、世界を救う役は「血筋」で決まるのか。それじゃ「身分制度」である。そこで冒頭に戻るのだが、血筋で言うなら「兄」が継いでも良いはずだ。もし「兄」が死んでいたら、この謎世界で出会うのではないか。(母は「あっち」にいるのだから。)では兄は元気なのか。その説明は不可欠ではないか。この問題は『風の谷のナウシカ』から続く「宮崎駿と天皇制認識」として慎重に検討すべき問題だ。
さて、別の観点から考えると、宮崎駿映画の最大の魅力は「飛翔」にある。今度の映画には鳥がいっぱい出て来る。だがアオサギは別にして、ペリカンもインコも飛ばずに歩いている。主人公も飛べないから、飛行機の世界を描いて「飛翔感」にあふれていた前作『風立ちぬ』に比べ、どこかこの映画に違和感を感じてしまう。むしろ「地下世界」を描いているように思う。その意味では、村上春樹の小説のような感触がある。「ミッション」の濃度が薄まっている感じがするのも、村上春樹と近いかもしれない。
ただ、今度は「建物映画」としての魅力が増している。『千と千尋の神隠し』や『魔女の宅急便』と並ぶような、洋館、和館に魅せられる映画である。それを見るためだけでも、もう一回ぐらい見てもいい気がする。「戦時下の疎開=いじめ」映画にも出来るし、「義母と子の和解まで」をじっくり描く方向もある。そういうリアリズム映画は他にあるけれど、宮崎映画は異世界ファンタジーになるのである。
題名の『君たちはどう生きるか』は言うまでもなく、吉野源三郎・山本有三名義で出された「児童小説」から取られている。映画では母の贈り物として出て来る。僕は前作『風立ちぬ』が堀辰雄の映画じゃないように、今度の映画もまあ「名義借り」に近いと考える。吉野源三郎の原作に思い入れし過ぎて「深読み」するのは間違いだろう。僕も若い頃に叔父さんから貰ったことがある。ある時期には、ちゃんと本を読める時期になった子どもへの定番ギフトだったのだろう。その時は僕には何だか古い話に思えて、あまり影響されなかった。そんなことを思い出した。なお、パンフは820円したが、情報的には少ない。(絵は多い。)誰が誰の声か知りたい人は、Wikipediaに出ている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます