獅子文六展が現在県立神奈川近代文学館で開かれている(3月8日まで)。先日、神田伯山襲名披露の整理券配布(10時)と入場(16時45分)までの長い待ち時間を利用して出かけてきた。今まで本人の顔写真も載せてないけど、チラシを見るとちょっと不機嫌そうな顔が判る。本人や家族のすごく貴重な資料がズラッと並んでいるが、特に演劇の資料が貴重で見どころがある。読んでない人には昔の単行本を見ても意味ないかもしれないが、貴重な写真も多くて楽しい。
演劇資料では、まずフランスで見た観劇ノートなどが貴重だ。獅子文六宅は戦時中の空襲で焼けてるけど、よく残っていたと思う。帰国後は演劇(いわゆる「新劇」)で活動するが、特に「文学座」を創立したことで知られる。戦後になって大人気作家になっても、多くの文学座公演で演出を担当している。文学座提供の写真でそれが示されている。日本の「新劇」は「築地小劇場」以来、左翼的な「プロレタリア演劇」が中心だった。獅子文六(岩田豊雄)はそういう傾向に反対し、大人が楽しめる演劇をめざした。フランスで見てきた演劇もそういうものだった。
(文学座アトリエ竣工式)
上の写真は1950年、今に残る信濃町の文学座アトリエ竣工式である。岸田國士、久保田万太郎の共同創立者の他、田村秋子、杉村春子、長岡輝子、徳川夢声、三津田健、中村伸郎、芥川比呂志、宮口精二、金子信雄など演劇史、映画史に名を残すそうそうたる顔ぶれが並んでいる。クリックして大きくすれば人名が判る。そのような演劇体験が小説にも生かされているのである。
原作小説と映画を比べると、登場人物が減ったり増えてるしているものだ。でも獅子文六の小説に限って、そんな事態が起きない。人物もエピソードもほぼ原作通りという感じである。でも筋を知ってるのに、小説を読んでも面白い。ストーリーじゃなくて、文章のユーモアや人物どうしのすったもんだが面白いからである。新聞小説を書くときは、冒頭からラストまできちんと物語を作ってから書いたんだという。だから締め切りに遅れたことがないという。すごいなと思うけど、これは芝居の演出と同じなんだろう。全編の登場人物の出入りを全部計算して頭の中へ入れているのである。
獅子文六を読む体験とは、この「プロの技」を堪能することである。しかも内容が重くない。重くなる前にスッと解決してしまう。人生は、あるいは社会は本来はもっと重い。だから最近はエンタメ系小説に与えられる新人賞である直木賞も、けっこうテーマも描写も重厚である。「サラバ!」や「蜜蜂と遠雷」など1000枚を越える大長編だ。そんな中に獅子文六を置くと、ただひたすら軽快に進行する面白さが新鮮なのである。こういう「ユーモア文学」は最近見なくなった。昔は北杜夫のどくとるマンボウシリーズなどで読書の楽しみを知り、そこから「楡家の人々」のような大小説に進んでいったものだ。あるいは遠藤周作も深刻な宗教小説の傍ら、狐狸庵と称してユーモアエッセイを書いていた。
獅子文六が小説を書き始めた1930年代後半には、近代日本文学史上に輝く多くの傑作が書かれている。島崎藤村「夜明け前」(1935年完結)、志賀直哉「暗夜行路」(1937年完結)、川端康成「雪国」(1937年初版刊行)、永井荷風「濹東綺譚」(1937年刊行)などである。また谷崎潤一郎は「春琴抄」(1933年)完成後、30年代後半は「源氏物語」現代語訳に取り組み1939年から41年に刊行された。大衆文学でも吉川英治の「宮本武蔵」(1936~39)が刊行され、獅子文六といろいろと関わりがあった大佛次郎の鞍馬天狗シリーズも営々と書き継がれ映画で大人気だった。
それらと比較してしまうと、いくら何でも獅子文六は軽すぎる感じもする。だから時代が過ぎ去ると忘れられてしまった。確かにこの「軽さ」は良いことばかりではない。同じくフランス語をよくした大佛次郎(おさらぎ・じろう)は大衆文学と同時にフランス現代史に材を取ったノンフィクションを発表している。これは大佛のファシズム批判であり「抵抗」だった。獅子文六の小説にはそのような視点がない。僕が若い頃獅子文六を読まなかったのは、一番はもう古い作家に見えたからだが、同時に岩田豊雄名義で戦時中に「海軍」を書いたことがやはり引っかかっていた。
「プロの技」を楽しめるには時間が必要だったんだと思う。今になると「文学を読む」というのと少し違った観点で、昔の小説を楽しむことができる。それは古い映画を見るのと同じく、違う時代を発見する楽しみである。僕が今回たくさん読んで思ったのは、短編はワン・アイディアで成立するから、今では風俗が古びて面白くない。(「断髪女中」では「女中が断髪するなんて」と書いてあるが、そもそも全く意味不明である。)長編はたくさんの脇役が計算された動きをするので楽しんで読めるのである。それも時代が非常に違う戦前期と戦後も高度成長が始まりつつある50年代後期から60年代初期が面白い。
それは時代そのものが興味深いということだと思う。いや敗戦後の占領時代も興味深いわけだが、「敗北を抱きしめ」なかった獅子文六の小説は今では古いのだ。高度成長も功罪があったが、現代日本の前提であり「懐かしく思い出せる」時代なんだと思う。「田中角栄ブーム」みたいなもんである。だから全然当時を知らない若い世代だと、そんなに楽しめないのかもしれない。でもこの「軽さ」「後味のよさ」「教訓臭のないラブコメ」の貴重さは再発見に値するんじゃないか。
最新の画像[もっと見る]
- 映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をどう見るか 3ヶ月前
- 映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をどう見るか 3ヶ月前
- 映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をどう見るか 3ヶ月前
- 映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をどう見るか 3ヶ月前
- 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に 3ヶ月前
- 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に 3ヶ月前
- 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に 3ヶ月前
- 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に 3ヶ月前
- 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に 3ヶ月前
- 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に 3ヶ月前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます