『オン・ザ・ロード』を見る前に、東京国立博物館の『特別展/はにわ』に行った。12月8日までなので、そろそろ行かないと。「はにわ」には今までそんなに関心がなかったのだが、たまたま本屋で雑誌『時空旅人』11月号「はにわの世界」を見て、名前も知らなかった雑誌だけど買ってしまった。読んで勉強すると、なんだか興味が増してきたわけ。
トーハクも高くなって、最近はあまり行かなくなった。久しぶりに行ってみると、チケット売り場が大混雑。ほとんどが外国人客である。表慶館では「Hello Kitty展」なんかやっててビックリ。しかし、そのチケットは博物館では売ってない。並んでる外国人客は「はにわ展」を見るわけじゃなく、ほとんど全員平常展(総合文化展)のチケットを買っている。はにわ展を見たい人は事前にネットで買っていく方が賢いようだ。平日なので、はにわ展そのものはそんなに混んでたわけじゃなかった。
日本史の教員だったけど、僕はほとんど埴輪(はにわ)に詳しくない。「古墳」そのものには関心があったが、専門外なので副葬品の埴輪には関心がなかった。だから「挂甲の武人」なんて言われても、意味も読み方も知らなかった。これは「けいこうのぶじん」と読む。群馬県太田市で発掘された埴輪「挂甲の武人」の国宝指定50年というのが今回の展覧会の趣旨で、同型の埴輪5点が勢揃いしている。まるで秦・始皇帝陵の「兵馬俑」を見た時を思い出すというと大げさだが、まあ壮観ではある。
「挂甲」と言われても意味不明だが、この言葉はWikipediaに出ていた。「挂」は「ケイ」「カイ」で、訓読みでは「かける」。つるすとか引っかけるという意味である。本来は奈良・平安時代の甲(鎧=よろい)の一種で、鉄製や革製の甲に小さい穴をあけて引っかけて、腰から下まで覆う。今では古墳時代のものは「小礼甲」(こざねよろい)と呼ぶべきだと言われているらしいが、僕にはよく判らない。写真で見れば、確かに下半身まで覆うような甲をまとっている。そして刀と弓を持っている。この展覧会では一部を除き写真撮影可なんだけど、「挂甲の武人」の部屋は暗くてよく撮れていなかった。そこでHPから取ってみる。
所蔵先を見てみると、左から順に「東博(国宝)」「相川考古館(重文)」「シアトル美術館」「歴博」「天理参考館(重文)」である。外国所蔵のものもあるから、二度と見られない勢揃いだろう。こんな風に並んでるわけではないが、一つの部屋に集まってるから迫力である。埴輪は古墳の周囲から出土する副葬品だが、これら武人たちは何のために存在するのか。それは被葬者の霊を来世でも守り続ける「呪術的役割」だろう。武人だからもちろん戦争にも行ったんだろうが、ここでは王に対して死後も供奉している。院政期に「北面の武士」が置かれたが、「武士」の第一の役割は権力者の周囲を悪霊などから守ることだったと思う。
そして驚くべし、本来の「挂甲の武人」は装飾されていたというのである。解体修理時に細かな調査を行い、彩色を施したレプリカが作られた。それが上にあるもので、もともとは白いものだった。意味があるのかどうか知らないが、やはり「破邪」の色としての白なんだろうか。埴輪は美術品として見ても良いが、本来は「作品」ではない。中にはカワイイものもあるけど、それも含めて僕は埴輪に「史料」としての価値を見るのである。このような多種多様な埴輪はほとんど群馬県など関東から出土する。
古墳時代後期になると、ヤマト王権は大陸から「仏教」を受け入れ、大規模古墳を作る文化がすたれていった。中央の文化的規制が緩くなり、東国独自の発展をした。それがこれほど多彩な埴輪が作られた理由らしい。東国だから、巨大古墳があっても「大王墓」ではない。地方の王権とは言えるかもしれないが、統一政権の「大王」(オオキミ)ではない。しかし、前方後円墳を作っている以上、東国文化も中央と無関係ではない。埴輪を通して「王権の構造が見えてくる」のである。「挂甲の武人」は第2会場に展示されていて、そこまでにも興味深い埴輪がいっぱいあった。長くなったので2回に分けることにしたい。
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