イランの映画が2本公開されている。それが親子監督のそれぞれの作品なのである。まずは2022年のヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『熊は、いない』。監督のジャファル・パナヒ(1960~)は、20年間の映画製作と海外渡航の禁止を宣告されながら、それでも映画を作り続ける不屈の映画監督である。それらの映画『これは映画ではない』(2011)、『人生タクシー』(2015)、『ある女優の不在』(2018)もここで紹介してきたが、今回の作品も覚悟を持って作られた問題作だ。もちろん本国では上映出来ない。さらに今作完成後には当局に拘束されてしまったと伝えられている。
と言っても、今作も抵抗をテーマにしているわけではない。厳しい環境の中で作らざるを得ないから、本格的な作品は作れずエッセイ的な映画が多い。今回は辺境の村に住み着いて、国境の向こうのトルコで映画を作っているという設定。宣伝をコピーすると、「国境付近にある小さな村からリモートで助監督レザに指示を出すパナヒ監督。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女の姿をドキュメンタリードラマ映画として撮影していたのだ。さらに滞在先の村では、古いしきたりにより愛し合うことが許されない恋人たちのトラブルに監督自身が巻き込まれていく。2組の愛し合う男女が迎える、想像を絶する運命とは......。」
(映画の中のジャファル・パナヒ監督)
このように最近の映画には監督本人が登場する。シネマ・エッセイ的作風にもよるが、何が現実で何が創作か見ている方も判らなくなる効果が生まれる。監督が滞在するトルコ国境の村の住民は「トルコ語」を話す人が多い。(「クルド語」かもしれないが、映画ではトルコ語とされる。)その村から映画の指示を出そうとするが、電波状況が悪くてうまく行かない。そのうちに、今度は村人が監督のもとへ押しかけてきて、「あるカップル」を撮影したかどうかと追求される。村には古い習俗があり、生まれた時に許婚を決めてしまう。ところが女が別の男と駆け落ちしようとしているというのだ。
(村人と語る)
何なんだこの村はと思うが、監督が作っている映画でもトルコから外国へ行こうとする男女を撮影している。監督の村でもカップルは駆け落ちしようとしているらしい。監督は国境の向こうには関われず、村人の問題にも入れない。そんな中で監督は何故この村へ来たのか。監督も隣国へ逃げるのか。最初は歓迎されていた監督だが、村人の警戒も強まる。悲劇を目にしても監督は何も出来ないまま去るしかない。その無念、屈辱などが映画を深くしている。
『熊は、いない』に先立って、『君は行き先を知らない』が公開された。監督のパナー・パナヒ(1984~)はアッバス・キアロスタミや父ジャファルの助監督をしてきたというが、満を持しての監督デビューである。いかにも初々しいロード・ムーヴィーの佳作で、出来映えは見事。冒頭で一家がドライブしているが、次男は父から携帯電話は絶対持ってくるなと言われていたのに、幼なじみの女の子と話したいから持ってきている。音がしてバレたため、車を止めて父が携帯電話をどこかに隠してくる。一体、このドライブはなんだろうと思うと、次第次第に判ってくるが、まだ幼い(撮影当時6歳)次男には旅の目的が理解出来ていない。
そんな一家の旅は次第に国境地帯に近づき、荒涼たる風景が広がってくる。どうやら運転している長男は、「何か」があって逃げなくてはならない。それはデモ参加のような政治的な事情らしいが、語られない。国境近くでは海外逃亡を助ける組織があるようだが、相当の金が必要になる。一家は何とか工面して、国境近くまでやってきたのである。母は感傷的になり、父はケガもあり苛立っているが、何も判らない次男は無邪気である。そんな家族の描きわけが観客に伝わってきたとき、これで二度と会えないかもしれない一家の運命を思って見る者も粛然とせざるを得ない。
パナー・パナヒは監督になるチャンスを長いこと待っていたらしい。ようやくこれならと思う題材を得て作った映画は、非常に立派な作品になっている。家族で飼ってる犬が存在感を示すが、家族それぞれは名前も出て来ない。直接説明するセリフが少ないからよく判らないから、見る者は想像してしまうわけである。そういう作り方はアッバス・キアロスタミや父ジャファル・パナヒの映画に影響されたとも言えるだろう。その意味ではまだまだ独自の映像世界とは言えないかもしれないが、やはりイラン映画に現れた注目すべき才能だと思う。
(パナー・パナヒ監督)
どちらの映画もイラン国内の閉塞状況を示している。多くの人が国を捨て外国へ向かっている。監督父子の周囲でも同じらしいが、あえて不自由な国内に留まって映画を作り続けるのがパナヒ親子だ。その心意気に感じて、これからも見続けたい。
と言っても、今作も抵抗をテーマにしているわけではない。厳しい環境の中で作らざるを得ないから、本格的な作品は作れずエッセイ的な映画が多い。今回は辺境の村に住み着いて、国境の向こうのトルコで映画を作っているという設定。宣伝をコピーすると、「国境付近にある小さな村からリモートで助監督レザに指示を出すパナヒ監督。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女の姿をドキュメンタリードラマ映画として撮影していたのだ。さらに滞在先の村では、古いしきたりにより愛し合うことが許されない恋人たちのトラブルに監督自身が巻き込まれていく。2組の愛し合う男女が迎える、想像を絶する運命とは......。」
(映画の中のジャファル・パナヒ監督)
このように最近の映画には監督本人が登場する。シネマ・エッセイ的作風にもよるが、何が現実で何が創作か見ている方も判らなくなる効果が生まれる。監督が滞在するトルコ国境の村の住民は「トルコ語」を話す人が多い。(「クルド語」かもしれないが、映画ではトルコ語とされる。)その村から映画の指示を出そうとするが、電波状況が悪くてうまく行かない。そのうちに、今度は村人が監督のもとへ押しかけてきて、「あるカップル」を撮影したかどうかと追求される。村には古い習俗があり、生まれた時に許婚を決めてしまう。ところが女が別の男と駆け落ちしようとしているというのだ。
(村人と語る)
何なんだこの村はと思うが、監督が作っている映画でもトルコから外国へ行こうとする男女を撮影している。監督の村でもカップルは駆け落ちしようとしているらしい。監督は国境の向こうには関われず、村人の問題にも入れない。そんな中で監督は何故この村へ来たのか。監督も隣国へ逃げるのか。最初は歓迎されていた監督だが、村人の警戒も強まる。悲劇を目にしても監督は何も出来ないまま去るしかない。その無念、屈辱などが映画を深くしている。
『熊は、いない』に先立って、『君は行き先を知らない』が公開された。監督のパナー・パナヒ(1984~)はアッバス・キアロスタミや父ジャファルの助監督をしてきたというが、満を持しての監督デビューである。いかにも初々しいロード・ムーヴィーの佳作で、出来映えは見事。冒頭で一家がドライブしているが、次男は父から携帯電話は絶対持ってくるなと言われていたのに、幼なじみの女の子と話したいから持ってきている。音がしてバレたため、車を止めて父が携帯電話をどこかに隠してくる。一体、このドライブはなんだろうと思うと、次第次第に判ってくるが、まだ幼い(撮影当時6歳)次男には旅の目的が理解出来ていない。
そんな一家の旅は次第に国境地帯に近づき、荒涼たる風景が広がってくる。どうやら運転している長男は、「何か」があって逃げなくてはならない。それはデモ参加のような政治的な事情らしいが、語られない。国境近くでは海外逃亡を助ける組織があるようだが、相当の金が必要になる。一家は何とか工面して、国境近くまでやってきたのである。母は感傷的になり、父はケガもあり苛立っているが、何も判らない次男は無邪気である。そんな家族の描きわけが観客に伝わってきたとき、これで二度と会えないかもしれない一家の運命を思って見る者も粛然とせざるを得ない。
パナー・パナヒは監督になるチャンスを長いこと待っていたらしい。ようやくこれならと思う題材を得て作った映画は、非常に立派な作品になっている。家族で飼ってる犬が存在感を示すが、家族それぞれは名前も出て来ない。直接説明するセリフが少ないからよく判らないから、見る者は想像してしまうわけである。そういう作り方はアッバス・キアロスタミや父ジャファル・パナヒの映画に影響されたとも言えるだろう。その意味ではまだまだ独自の映像世界とは言えないかもしれないが、やはりイラン映画に現れた注目すべき才能だと思う。
(パナー・パナヒ監督)
どちらの映画もイラン国内の閉塞状況を示している。多くの人が国を捨て外国へ向かっている。監督父子の周囲でも同じらしいが、あえて不自由な国内に留まって映画を作り続けるのがパナヒ親子だ。その心意気に感じて、これからも見続けたい。
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