黒澤明を見るシリーズ3回目は「生きる」である。この順番は今回見直した順で書いてるだけ、単に番組編成の問題。「生きる」は1952年に公開され、キネマ旬報ベストテンで1位になった。キネ旬ベストワンは「酔いどれ天使」「生きる」「赤ひげ」だけである。僕は昔から「生きる」が黒澤映画の中では一番好きで、何回か見ている。今回久しぶりに見直しても、圧倒的な感動に心揺さぶられる名作だと思った。公園のブランコで志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うラストは世界映画史上屈指の感動シーンだ。
黒澤映画にはあまり複雑な筋書きはなくて、ある意味「図式的」に進行するものが多い。だからかつては黒澤には「思想がない」などと批判されていた。「生きる」もストーリーを一言で表せる映画と言えるが、その構成が素晴らしい。黒澤作品はシナリオを共同製作するのが慣例で、この映画は黒澤明、橋本忍、小國英雄の脚本である。ある役所の小役人がガンになって、自分の人生を振り返る。生きる楽しみが全くなく、ただ「ミイラ」のように生きてきた30年。死を意識して初めて、「何か」を求め始めるのである。そしてクリスマスの東京を巡り歩く。そして最後に「何かを作ること」が大切なんだと気付く。
そこから映画は主人公渡邊勘治(志村喬)の葬儀になる。後半が列席した役所の吏員による回想という構成が独創的なのである。これがすべて時間通りに進行していたら、感動がここまで深くはなっていないと思う。この映画は主人公の市民課長、志村喬の鬼気迫る演技に負うところが大きい。だが改めて4K画面で見てみると、演技を支える撮影(中井朝一)、美術(松山崇)、照明(森茂)などの素晴らしい技量に感服した。冒頭に「東宝設立20年記念作品」と出る。東宝争議以後、黒澤は「静かなる決闘」から5本を大映、新東宝、松竹で製作した。久しぶりの東宝映画で、黒澤作品を多く担当するスタッフがそろったのである。
主人公はガンを宣告されたわけではない。当時は本人に告知しなかった。それでも家族も呼ばないのは当時としてもおかしいのではないか。待合室で同席した患者(渡辺篤)が「軽い胃潰瘍と言われたら胃ガンだよ」などと脅かしていて、診断の場面で「軽い胃潰瘍です」と言われる。脚本の妙だが、これで本人がガンと思い込む。今と違って当時は自覚症状を覚えて診察した段階では、「死刑宣告」に近かったのだろう。そのまま放っておかれるんだから、いくら何でもおかしいけど。しかし、この映画ではナレーションが多用され、観客が「神」の位置にいる。実際に胃がんであることを観客は先に知らされるから、違和感がないのである。観客が何でも知っていて人物の動きを見ているのは、普通は興をそぐと思うが「生きる」ではそれが感動を呼ぶ。
それは何でだろうか。「人生いかに生きるべきか」という普遍的な問いをとことん問い詰めているからだろう。住民の要望をたらい回しにするお役所仕事、ガンの発病に怯えきった主人公、主人公が苦悩を素直に打ち明けられない親子関係、すべて戯画化が過ぎるように描かれる。だから主人公は30年間無遅刻無欠勤の職場を突然休んで、毎日「どこか」へ出掛ける。たまたま知り合った「無頼派作家」(伊藤雄之助)に連れ回されて夜の町を彷徨う。そして辞表にサインを貰うために自宅まで来た女職員、小田切とよ(小田切みき)を連れ回すようになる。この小田切みき(1930~2006)が圧倒的に素晴らしいわけである。戦前から子役だったと言うが、この時は俳優座養成所の一年生で、渡辺美佐子が同期だったとトークで言っていた。安井昌二(「ビルマの竪琴」に主演し、その後新派で活躍)と結婚し、娘が四方晴美だったとは今回調べて知った。
(小田切みきと志村喬)
この小田切みきから、主人公は「何かを作ること」の大切さに気付かされる。しかし、息子夫婦はそれを若い愛人が出来たのかと思い込む。主人公は市民課長として、揉めている児童公園を作ることを人生最後の仕事にしようと決意する。しかし、それらの経緯はすべてが葬儀の場の回想から、主人公がガンだったことを知っている観客が心の中で作り上げるストーリーである。主人公の決意表明などはどこにも描かれず、回想によっていかに課長が一生懸命だったことが語られるだけである。その語り口が上手いのである。だから観客が自分で「誰にも死期を悟られないようにしながら、ひたすら公園作りを進めた」心の内を察するのである。
そこで思う。我々は自分の人生で何か「公園を作ったか」ということを。何か「公園を作る」ような人生を自分も送らなければならないと深く思い知らされる。自分の人生の中で自分なりの公園作りを始めるのに遅すぎることはない。ガン治療や公務員のあり方などが全然違ってしまった現在にあっても、なお「人生には何の意味があるのか」という問いは永遠である。この映画では「ゴンドラの唄」が3回ほど流れる。当時のこととして歌の名前も紹介されないが、吉井勇作詞、中山晋平作曲の1915年の歌である。「いのち短し 恋せよ乙女」で始まる歌は、今では「生きる」で使われたことで知られているだろう。心の底から絞り出すような志村喬の歌声を聞くとき、人は自分の人生を思い返して涙なしでは見られない。
黒澤映画にはあまり複雑な筋書きはなくて、ある意味「図式的」に進行するものが多い。だからかつては黒澤には「思想がない」などと批判されていた。「生きる」もストーリーを一言で表せる映画と言えるが、その構成が素晴らしい。黒澤作品はシナリオを共同製作するのが慣例で、この映画は黒澤明、橋本忍、小國英雄の脚本である。ある役所の小役人がガンになって、自分の人生を振り返る。生きる楽しみが全くなく、ただ「ミイラ」のように生きてきた30年。死を意識して初めて、「何か」を求め始めるのである。そしてクリスマスの東京を巡り歩く。そして最後に「何かを作ること」が大切なんだと気付く。
そこから映画は主人公渡邊勘治(志村喬)の葬儀になる。後半が列席した役所の吏員による回想という構成が独創的なのである。これがすべて時間通りに進行していたら、感動がここまで深くはなっていないと思う。この映画は主人公の市民課長、志村喬の鬼気迫る演技に負うところが大きい。だが改めて4K画面で見てみると、演技を支える撮影(中井朝一)、美術(松山崇)、照明(森茂)などの素晴らしい技量に感服した。冒頭に「東宝設立20年記念作品」と出る。東宝争議以後、黒澤は「静かなる決闘」から5本を大映、新東宝、松竹で製作した。久しぶりの東宝映画で、黒澤作品を多く担当するスタッフがそろったのである。
主人公はガンを宣告されたわけではない。当時は本人に告知しなかった。それでも家族も呼ばないのは当時としてもおかしいのではないか。待合室で同席した患者(渡辺篤)が「軽い胃潰瘍と言われたら胃ガンだよ」などと脅かしていて、診断の場面で「軽い胃潰瘍です」と言われる。脚本の妙だが、これで本人がガンと思い込む。今と違って当時は自覚症状を覚えて診察した段階では、「死刑宣告」に近かったのだろう。そのまま放っておかれるんだから、いくら何でもおかしいけど。しかし、この映画ではナレーションが多用され、観客が「神」の位置にいる。実際に胃がんであることを観客は先に知らされるから、違和感がないのである。観客が何でも知っていて人物の動きを見ているのは、普通は興をそぐと思うが「生きる」ではそれが感動を呼ぶ。
それは何でだろうか。「人生いかに生きるべきか」という普遍的な問いをとことん問い詰めているからだろう。住民の要望をたらい回しにするお役所仕事、ガンの発病に怯えきった主人公、主人公が苦悩を素直に打ち明けられない親子関係、すべて戯画化が過ぎるように描かれる。だから主人公は30年間無遅刻無欠勤の職場を突然休んで、毎日「どこか」へ出掛ける。たまたま知り合った「無頼派作家」(伊藤雄之助)に連れ回されて夜の町を彷徨う。そして辞表にサインを貰うために自宅まで来た女職員、小田切とよ(小田切みき)を連れ回すようになる。この小田切みき(1930~2006)が圧倒的に素晴らしいわけである。戦前から子役だったと言うが、この時は俳優座養成所の一年生で、渡辺美佐子が同期だったとトークで言っていた。安井昌二(「ビルマの竪琴」に主演し、その後新派で活躍)と結婚し、娘が四方晴美だったとは今回調べて知った。
(小田切みきと志村喬)
この小田切みきから、主人公は「何かを作ること」の大切さに気付かされる。しかし、息子夫婦はそれを若い愛人が出来たのかと思い込む。主人公は市民課長として、揉めている児童公園を作ることを人生最後の仕事にしようと決意する。しかし、それらの経緯はすべてが葬儀の場の回想から、主人公がガンだったことを知っている観客が心の中で作り上げるストーリーである。主人公の決意表明などはどこにも描かれず、回想によっていかに課長が一生懸命だったことが語られるだけである。その語り口が上手いのである。だから観客が自分で「誰にも死期を悟られないようにしながら、ひたすら公園作りを進めた」心の内を察するのである。
そこで思う。我々は自分の人生で何か「公園を作ったか」ということを。何か「公園を作る」ような人生を自分も送らなければならないと深く思い知らされる。自分の人生の中で自分なりの公園作りを始めるのに遅すぎることはない。ガン治療や公務員のあり方などが全然違ってしまった現在にあっても、なお「人生には何の意味があるのか」という問いは永遠である。この映画では「ゴンドラの唄」が3回ほど流れる。当時のこととして歌の名前も紹介されないが、吉井勇作詞、中山晋平作曲の1915年の歌である。「いのち短し 恋せよ乙女」で始まる歌は、今では「生きる」で使われたことで知られているだろう。心の底から絞り出すような志村喬の歌声を聞くとき、人は自分の人生を思い返して涙なしでは見られない。
ここは、川崎市です。
世田谷美術館で開かれた「東宝の美術展」の原画で、はっきりと川崎と書いてありました。
ラストシーンに路面電車が出てきますが、この頃川崎市には市電があったのです。
大島渚の『愛と希望の町』には、川崎駅の広場に停まっている市電があります。