少し前に書いた、小池百合子都知事が関東大震災時の朝鮮人虐殺追悼集会への追悼文を断ったという問題。これは非常に大きな問題をはらんでいると思うので、ここで考えてみたい。僕は東京生まれで東京育ち、東京の中学、高校で歴史を教えてきた。当然、関東大震災には関心を持ち、授業でも何度も取り上げてきた。東京東部の勤務が多かったので、まさに生徒にとって身近な問題である。
そういう意味で、関東大震災を次の世代にも語り継いでいくのが大切なことだと思ってきた。1923年の出来事だから、もう94年も前になる。だんだん関東大震災100年が近くなる。もう直接経験した人はほとんどいないだろう。そうなると、当時は誰でも知っていた事でも、全然知らない人が出てくる。それが「デマ」を生む素地につながっていく。
小池知事の対応に関しては、8月25日の定例記者会見で質問に答えている。それは「小池知事「知事の部屋」/記者会見(平成29年8月25日)」で見ることができる。なかなかこの問題に触れないのだが、質問の後半で共同通信、朝日新聞、ジャパンタイムズ、東京新聞の記者が立て続けに質問した。言っていることは大体同じなので、最後の東京新聞記者への答弁を引用する。
基本的に関東大震災という大変大きな災害があり、そして、それに付随した形で、関連した形でお亡くなりになった方々っていうのは、国籍を問わず多かったと思っております。その意味で3月そして9月の大法要ということについては、全ての方々に対しての慰霊を行っていくという点については変わりがないわけでございます。
これまで毎年出していたということについては、そういう見方もあるだろうと思いますけれども、私は今回は、全ての方々への法要を行っていきたいという意味から、今回特別な形での追悼文を提出をするということは控えさせていただいたということでございます。多くの方々が被害に遭いました。
以上です。(以上、引用)
さらに、その前の朝日新聞記者との問答を引用すると、
【記者】そういう民族差別ってものが背景にあるような形で起きた不幸な悲劇について、特別にその追悼の文、追悼の辞を述べる、送るということについて、ここには何かしら特別な意味というのは見出されないですか。
【知事】そこで民族差別という観点というよりは、私はそういう災害で亡くなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っております。
この記者会見の答えによって、小池知事の発想がかなり明確になったのではないか。それは「どっちもどっち論」と似ている。この場合は、事件があった、犠牲者がいることは否定しない。だけど、それは今となっては「どっちも同等に追悼する」とされる。加害者と被害者、天災と人災の区別があらかじめ取り払われている。そのことによって、加害者の問題が隠され、「人災」が免責される。
このような議論の立て方をする人が世界には多数いる。トランプ米大統領は、「白人至上主義者」に対する抗議運動に対して、衝突になると「どっちもどっち」と評した。世界の大多数の指導者、特に虐殺事件を歴史上に問われる国のトップは、大体そういうことを言う。アルメニア人虐殺事件に対するトルコのエルドアン大統領の対応などもそうだろう。
日本でも、東日本大震災に関して、大津波で亡くなった人と原発事故で今も避難生活を余儀なくされている人を同等に扱うことはできない。さらに、ため池が決壊したり、建物の天井が崩落したり、さまざまの出来事で犠牲になった人がいる。「皆同じ大地震の犠牲者」には違いないが、それぞれのケースで責任の度合いが違い、同じように考えることはできない。(津波の犠牲者の場合も、避難指示が適切なら犠牲にならずに済んだ場合もある。)
同じようなことは、靖国神社の「戦犯合祀問題」も同様。戦犯裁判をどう考えるかは別にして、指導者だった人と徴兵された兵士だった人を同等に考えることはできない。「非常に大きな歴史の目」で見れば「同じく戦争の犠牲者」だと言えるかもしれないし、靖国神社は日本国内の一宗教法人だから、国家としてはあれこれ言えない。だけど、日本政府高官が参拝すれば、日本は受け入れた裁判結果を蒸し返すのかという疑問が発生するのは避けられない。
応仁の乱や関ヶ原の戦いなんかだったら、今では「どっちもどっち」で済むだろう。国内で問題になってないのだから。でも150年を近く迎える戊辰戦争になると、まだまだ済んでいるとはいえない。会津の人は薩長に対して今でも複雑な思いを持っているだろう。国内でもそうなんだから、日本と朝鮮半島の間では16世紀末の豊臣秀吉の侵略戦争も終わったとは言えない。
当然のこととして、94年前の関東大震災に関しても、地震やそれに伴う火災で亡くなった人と、その時に起こった虐殺事件で殺された人とを一緒にはできない。「そういう災害で亡くなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々」とすべて一緒にしてしまうことは、虐殺事件の加害責任をウヤムヤにすることにつながる。もちろんそのことを判らないはずがない。それが目的だと自覚していることがうかがわれる。
これは全く間違ったメッセージになる。2016年7月に行われ、小池氏が当選した都知事選。増田寛也や鳥越俊太郎の他の候補は得票が少なかった。ジャーナリストの上杉隆が17万9千票を得て4位。その次が桜井誠、114,171票で、5位。その次がマック赤坂の5万票だから、この桜井票は決して少ないとは言えない。桜井誠という人は、「ヘイトスピーチ」を続けてきた「在特会」のリーダーだから、これは大問題である。そういう候補に投票する人が東京で10万人以上いるのである。
だから、次に東京で大地震が起こった時も、デマを発散する人がいる。阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、熊本地震でもあったんだから、もちろん東京で地震が起きたら同じようなことがある。東京には多数の外国人が居住している。どういうことが起きるか、少しでも想像力があれば、何事につけ「デマが人々を引き裂いた悲劇を東京では二度と起こさない」と発信するのが東京のリーダーの務めではないか。自分で怖くないんだろうか。ヘイトスピーチをする人に10万票集まる都市のリーダーだということが。そこでパラリンピックを開くのだということが。
今後数回続けて、関東大震災時の様々な虐殺事件を考えてみたいと思う。
そういう意味で、関東大震災を次の世代にも語り継いでいくのが大切なことだと思ってきた。1923年の出来事だから、もう94年も前になる。だんだん関東大震災100年が近くなる。もう直接経験した人はほとんどいないだろう。そうなると、当時は誰でも知っていた事でも、全然知らない人が出てくる。それが「デマ」を生む素地につながっていく。
小池知事の対応に関しては、8月25日の定例記者会見で質問に答えている。それは「小池知事「知事の部屋」/記者会見(平成29年8月25日)」で見ることができる。なかなかこの問題に触れないのだが、質問の後半で共同通信、朝日新聞、ジャパンタイムズ、東京新聞の記者が立て続けに質問した。言っていることは大体同じなので、最後の東京新聞記者への答弁を引用する。
基本的に関東大震災という大変大きな災害があり、そして、それに付随した形で、関連した形でお亡くなりになった方々っていうのは、国籍を問わず多かったと思っております。その意味で3月そして9月の大法要ということについては、全ての方々に対しての慰霊を行っていくという点については変わりがないわけでございます。
これまで毎年出していたということについては、そういう見方もあるだろうと思いますけれども、私は今回は、全ての方々への法要を行っていきたいという意味から、今回特別な形での追悼文を提出をするということは控えさせていただいたということでございます。多くの方々が被害に遭いました。
以上です。(以上、引用)
さらに、その前の朝日新聞記者との問答を引用すると、
【記者】そういう民族差別ってものが背景にあるような形で起きた不幸な悲劇について、特別にその追悼の文、追悼の辞を述べる、送るということについて、ここには何かしら特別な意味というのは見出されないですか。
【知事】そこで民族差別という観点というよりは、私はそういう災害で亡くなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っております。
この記者会見の答えによって、小池知事の発想がかなり明確になったのではないか。それは「どっちもどっち論」と似ている。この場合は、事件があった、犠牲者がいることは否定しない。だけど、それは今となっては「どっちも同等に追悼する」とされる。加害者と被害者、天災と人災の区別があらかじめ取り払われている。そのことによって、加害者の問題が隠され、「人災」が免責される。
このような議論の立て方をする人が世界には多数いる。トランプ米大統領は、「白人至上主義者」に対する抗議運動に対して、衝突になると「どっちもどっち」と評した。世界の大多数の指導者、特に虐殺事件を歴史上に問われる国のトップは、大体そういうことを言う。アルメニア人虐殺事件に対するトルコのエルドアン大統領の対応などもそうだろう。
日本でも、東日本大震災に関して、大津波で亡くなった人と原発事故で今も避難生活を余儀なくされている人を同等に扱うことはできない。さらに、ため池が決壊したり、建物の天井が崩落したり、さまざまの出来事で犠牲になった人がいる。「皆同じ大地震の犠牲者」には違いないが、それぞれのケースで責任の度合いが違い、同じように考えることはできない。(津波の犠牲者の場合も、避難指示が適切なら犠牲にならずに済んだ場合もある。)
同じようなことは、靖国神社の「戦犯合祀問題」も同様。戦犯裁判をどう考えるかは別にして、指導者だった人と徴兵された兵士だった人を同等に考えることはできない。「非常に大きな歴史の目」で見れば「同じく戦争の犠牲者」だと言えるかもしれないし、靖国神社は日本国内の一宗教法人だから、国家としてはあれこれ言えない。だけど、日本政府高官が参拝すれば、日本は受け入れた裁判結果を蒸し返すのかという疑問が発生するのは避けられない。
応仁の乱や関ヶ原の戦いなんかだったら、今では「どっちもどっち」で済むだろう。国内で問題になってないのだから。でも150年を近く迎える戊辰戦争になると、まだまだ済んでいるとはいえない。会津の人は薩長に対して今でも複雑な思いを持っているだろう。国内でもそうなんだから、日本と朝鮮半島の間では16世紀末の豊臣秀吉の侵略戦争も終わったとは言えない。
当然のこととして、94年前の関東大震災に関しても、地震やそれに伴う火災で亡くなった人と、その時に起こった虐殺事件で殺された人とを一緒にはできない。「そういう災害で亡くなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々」とすべて一緒にしてしまうことは、虐殺事件の加害責任をウヤムヤにすることにつながる。もちろんそのことを判らないはずがない。それが目的だと自覚していることがうかがわれる。
これは全く間違ったメッセージになる。2016年7月に行われ、小池氏が当選した都知事選。増田寛也や鳥越俊太郎の他の候補は得票が少なかった。ジャーナリストの上杉隆が17万9千票を得て4位。その次が桜井誠、114,171票で、5位。その次がマック赤坂の5万票だから、この桜井票は決して少ないとは言えない。桜井誠という人は、「ヘイトスピーチ」を続けてきた「在特会」のリーダーだから、これは大問題である。そういう候補に投票する人が東京で10万人以上いるのである。
だから、次に東京で大地震が起こった時も、デマを発散する人がいる。阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、熊本地震でもあったんだから、もちろん東京で地震が起きたら同じようなことがある。東京には多数の外国人が居住している。どういうことが起きるか、少しでも想像力があれば、何事につけ「デマが人々を引き裂いた悲劇を東京では二度と起こさない」と発信するのが東京のリーダーの務めではないか。自分で怖くないんだろうか。ヘイトスピーチをする人に10万票集まる都市のリーダーだということが。そこでパラリンピックを開くのだということが。
今後数回続けて、関東大震災時の様々な虐殺事件を考えてみたいと思う。
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