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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山崎今朝弥「地震・憲兵・火事・巡査」

2013年09月03日 00時47分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 明治から昭和にかけて、社会主義者かつ奇人弁護士として知られた山崎今朝弥(けさや、1877~1954)という人がいる。自伝的エッセイや社会批判の文を森永英三郎氏が編集した「地震・憲兵・火事・巡査」という本が岩波文庫に入っている。1982年に出た本だが、2013年7月に重版されて「11刷」とあるから、それなりに売れてきたわけである。今回久しぶりに読み直したので、簡単に報告。書名はもちろん関東大震災時の虐殺事件を批判する意味である。全員読むべしという本でもないだろうが、こういう人がいたということを知って欲しいと思って。

 山崎は1877年に長野県岡谷市に生まれたが、それを自伝では「明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、君それに応じて直ちに信州諏訪に生まる」などと書いている。生まれながらの逆賊というわけである。苦学しながら明治法律学校(今の明治大学)に入り、優秀な成績で卒業した。その後判検事登用試験、弁護士試験に合格し、検事代理として甲府区裁判所に赴任したが、一月ほどで辞めてしまった。よほど官僚が性に合わなかったのだろう。1902年、アメリカに行き苦労したようだが、どうもちゃんとした大学には行っていないらしい。自伝には、「ベースメント・ユニバーシチー」で学問をして米国伯爵に任じられた、などと書いている。前者は皿洗いなどをしたという意味らしく、後者はそんな称号があるわけなく勝手に自称しているだけ。そういう名刺を作って配った。

 この人生初期の出来事だけで、どうも明治日本の官僚にはなれない人物だったと判る。その後弁護士として社会主義者の事件を軒並み引き受け、レトリックをつくした弁論で知られていく。その当時の抵抗とレトリックの苦心が、この本の半分くらいを占める。この本を読む楽しみは、そのレトリックを読み取るということにある。当時は言論の自由がなかった。だからこそ「ドレイの言葉」「敵の言葉」で書く必要がある。一方、弁護士として法廷内では比較的言論の自由の幅が広い場合もあった。

 そこではわざわざ挑発的な表現をして、あえて問題を起こすというやり方もある。その場合でも、「あの人はもともと奇人変人のたぐいだから」として、見逃しの幅が広くなる。山崎今朝弥の奇人ぶりや奇文は、半分は本当の茶目っ気であるけど、後の半分は戦略だろう。この本を紹介するのも、レトリックなき言論がはびこっている現在こそ、この人の文章を読む意味があると思うからである。

 エロシェンコという盲目のロシア人がいた。エスペランティスト、童話作家で、大正時代に日本に来て一部に影響を与えた。中村彝の有名な肖像画がある。日本では「過激派」と思われて1921年に国外追放された。その事件について自分の雑誌の片隅に「エロセンコ事件の建白書」を載せている。「(前略)露国盲詩人エロセンコの退去命令が果して世間伝うる如き事実に基づくものとせば、日本過激派の事情に精通する同人を遠く海外に放つは、虎を野に放つよりもなお危険なり。同人は永くこれを内地に保存し、盲目を幸いすこぶる簡易厳重に監視するを上策とす、しからざれば非難後悔たちどころに至らん。」という小文。これが「敵の言葉」によるレトリックをつくした当局批判の代表例である。

 こういう人が関東大震災の後、どういうことを書いたか。彼は根っからの「統一戦線論者」であり、というか「党派」的、イデオロギー的な人物ではなかった。弁護士は様々な事件を扱うのが仕事だから、大杉榮など無政府主義者も友人で、亀戸事件で殺された共産主義的労働組合の若者も知っていた。「地震・憲兵・火事・巡査」という題名は、山崎今朝弥が事件の本質をどうとらえ、正確に批判していたかを示している。ゴロ合わせの標語風題名でユーモラスな感じもするが、これは全身全霊を込めた、権力犯罪の告発である。自警団の民衆ではなく、一番の責任者は軍と警察だと明察していたのである。

 山崎は「朝鮮人の大虐殺、支那人の中虐殺、半米人の小虐殺、労働運動家、無政府主義者、日本人の虐殺」と書いている。今の時点で見ても、中国人や耳の聞こえない人、被差別出身の行商人など日本人も虐殺されたことをも捉えていることがすぐれている。「半米人」とは、大杉榮夫妻と一緒に殺された甥の橘宗一少年が米国籍も持っていたことを示している。そして、多くの朝鮮人虐殺、労働運動家を虐殺した亀戸事件について、事件後も責任を認めない警察、検察などの国家責任を追及している。「理が非でも、都合があるから何処までも無理を通そう、悪いことなら総て朝鮮人に押し付けようとする愛国者、日本人、大和魂、武士道と来ては真に鼻持ちのならない、天人共に容(ゆる)さざる大悪無上の話である。」

 大杉事件は一応裁判になった。この事件については裁判批判の形を取って、痛烈な批判をしているが、論点が細かくなるのでここでは省略する。山崎が書いた追悼文は、「外二名及び大杉君の思い出」という。この題が泣かせる。「大杉外二名」が殺されたと報道され、その外とされた伊藤野枝と橘少年を先にした思いの深さ。家族ぐるみの交際があったのである。大杉魔子(長女)と山崎の長男がケンカしたエピソードなどを書いている。その中で「竪公(僕の独り子で、もし僕と共にこれを殺しでもする者があれば、少しでもこれに関係ある者の九族は、その老幼たると男女たるを問わず、たちどころにこれを滅ぼし尽して見せるというほど僕が可愛がってる九歳の子)」などと激しい言葉を書いている。もちろん自分の子が可愛いと言いたいのではなく、そういう形を取って、大杉榮、伊藤野枝と共に子どもを殺した軍部の非人道を精一杯告発しているわけである。直接権力批判はできなくても、こうして誰もが思う、何故一緒にいただけで子どもまで殺したのかという思いを表したのである。

 そして、法律雑誌のアンケートなどの目立たない場で、「日韓併合の御趣旨に基づき、とうの昔に自治独立を許すべきだというのが私の持論」と言い切っているのである。もう少し引用してみる。
 「過般の震火災に際して行われたる鮮人に関する流言蜚語については、実に日本人という人種はドコの成り下がりか知らないが、実に馬鹿で臆病で人でなしで、爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思いました。その後のことは切歯痛憤身震いがします。」
 「今、日本が米国に併呑され、米国人が日本及び日本人を軽蔑しまたは虐殺するなら、僕はキットその時、日本の独立運動に狂奔するに相違ない。印度や愛蘭以上の深刻激烈のものであるに相違ない。(中略)僕は今朝鮮問題を考えて真に「自分を抓(つね)って人の痛さを知れ」ということをシミジミ日本人として感じる。」

 当時ここまで書いた人がいたのである。今の世で目を曇らされるなどあってはならない。(なお、愛蘭はアイルランド。「鮮人」は当時の略語だが、朝鮮人蔑視の意味合いがあり、今は使わない。「朝鮮」を上の字の「朝」で略すのは「朝廷」と重なり畏れ多いと思われたらしい。)
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