尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「石子順造的世界」ー絵を見に行く③

2012年01月08日 01時27分41秒 | アート
 さて、「ベン・シャーン展」を見た後、葉山から東京都府中市に足を伸ばし、府中市立美術館へ。東京の東北に住んでる僕からすると、東京の西の方で同じ方向に見えるけど、これが遠い。ここも車じゃないと行きにくい感じ。家から葉山までと、府中から家までに比べ、ずいぶんかかった。小島慶子「キラ☆キラ」を聴きながら。

 そこでやってるのは、「石子順造的世界 ―美術発・マンガ経由・キッチュ行」という展覧会。2月26日まで。


 石子順造?Who? と言う人がほとんどでしょう。1928年~1977年。もう早世して大分立ちます。僕は石子さんの「戦後マンガ史ノート」(紀伊國屋新書)を愛読しました。

 チラシにある説明を引用すると、「高度成長まっ盛り、テレビにマンガにビートルズ、学生運動アングラポップ、反芸術にハプニング、うねりにうねった喧噪の昭和40年代を一身に引き受けた評論家がありました。美術とあわせてマンガを論じ、そうかと思えばキッチュを語る。10年ほどの活躍を残しこの世を去った個性あふれるこの男、石子順造とは何者であったのか。」

 第1部、美術編。68年の「トリック・アンド・ビジョン展」を復元しながら、赤瀬川原平、高松次郎、横尾忠則らの作品を展示しています。次に、マンガ編。ここの目玉は、つげ義春「ねじ式」の原画公開です。最後が「キッチュ編」。「ゆ」ののれんをくぐって入ると、大漁旗やらモナリザのパロディ、招き猫、銭湯の背景画などなど、通俗的な雑貨物があふれています。ここだけ撮影可。

 「ぼくはキッチュといわれる諸現象の底に隠されているはずの、民衆の生活様式を発見したい。きっと、それはある。ないなら、歴史は、民衆にとってついに季節の交代でしかないだろうから。」

 ということで、面白いような、もうありふれているような。「ねじ式」は僕にとって、ゴダールの「気狂いピエロ」と同じくらい大きな影響を受けた作品です。でも基本的に、マンガは複製芸術なので、原画を見ても貴重だとは思うものの新しい発見がいっぱいあるわけではない。僕にとっては。まあ、数百年たてば国宝になるものかとは思いますが。

 キッチュ編も、今では「民衆芸術の宝庫」という問題意識は薄れてしまった感じがする。今では、商品として、あるいはマニアのコレクションとして存在することが許されてしまって、そこに既成の芸術観念を壊す起爆剤を見つけることができなくなってしまったというべきでしょうか。

 そういう意味では、一番面白いのが「美術編」だったけど、それも美術の意味を壊す「反芸術」が刺激的なのではなく、「あの反抗の季節」が懐かしいというような感じ。ほんと皆一生懸命「面白いこと」を考えて、時代のイメージを広げていました。アングラ演劇、アングラ映画が、この真横にあった。ちなみに、アングラとは、「アンダーグラウンド」の略ですね。

 僕は赤瀬川原平さんがすごく好きで、昔(旅の途中でもあったので)名古屋で開かれた大回顧展にも行っています。本も大体読んでいて、20年くらい前だけど「課内クラブ」なんてものが学校にあった頃に「路上観察クラブ」を作った年があるほど。赤瀬川さんは、お札のパロディで刑事裁判になったりした。でも年をとっていろいろと変わっていった。その変わり具合に関心があります。石子順造さんは70年代に亡くなってしまったけど、その後80年代以後の30年以上がありました。そこがすっぱりと抜け落ちて、突然60年代、70年代にタイムスリップしたような展覧会で、若い人が見て感想を聞かせて欲しいなあ。
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ベン・シャーン展ー絵を見に行く②

2012年01月06日 22時10分38秒 | アート
 神奈川県立美術館葉山館で開かれている、「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト―写真、絵画、グラフィック・アート―」展に行って来ました。遠い。初めて。車で行く方が早い。首都高から横浜横須賀道路を逗子で降り、逗葉新道を通って御用邸のそば。こんなところだったのか。海から相模湾の向こうに富士山が良く見える。(写真では良く撮れないけど。)
 (入口近くにある李禹煥の作品)

 ベン・シャーンって誰だ?という人も多いと思います。 1月号の「芸術新潮」がベン・シャーンを特集していて、昨日は買わなかったんだけど気になって今日買ってしまいました。素晴らしい特集ですが、そこでもグラフページの最初に「ベン・シャーンを知っていますか?」とあります。僕にはすごく大切な画家で、何しろ1970年に国立近代美術館で開かれた、日本で最初の本格的なベン・シャーン展を見に行っているのです。僕が自分のお金で見に行った初めての本格的な美術展。その頃映画も見始めて、「イージーライダー」「明日に向って撃て!」などをロードショーで見てるんですが、そういう時期にとても大きな影響を受けました。その時のカタログを引っ張り出して来たら、チケットと絵はがきが一緒になっていました。今回も出ている絵画の代表作「スイミング・プール」の絵はがき。


 そのチケットに「アメリカの詩と哀感」とあります。僕も当時はそんな感じで見ていたと思います。ホッパーやワイエスなんかもそうだけど、世界で一番経済的に発展した、移民で作られた国の中にある、孤独と憂愁。リースマンの「孤独な群衆」とかテネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーの演劇、シャーウッド・アンダーソンやスタインベックの小説なんかの、絵での表現。いや、中学生だったから、そんな難しいことは判らなかったけど、小説や映画にひかれ始めていた自我の目覚めの時期の自分の気分にあっていました。

 と同時に、むしろベン・シャーンは社会的な画家と思われていて、冤罪事件のサッコとヴァンゼッティ事件を描いたり、大恐慌下の農民、労働組合や反ナチスのためのポスターなどが出ていました。歴史が大好きで、文学や映画と同時に社会問題への意識が芽生え始めていた自分の中で、ベン・シャーンのように芸術を通して社会的メッセージを伝えるのはとても魅力的に見えました。こういう、左翼でありながら左翼勢力とぶつかる、具象でありながら抽象的なグラフィックに近づく、絵だけでなく写真、ポスター、版画、絵本などいろいろ手がけるという姿が、僕はとても好き。

 ということで、「ずっと好きだったんだぜ」(©斉藤和義)というベン・シャーン。だから見に行くわけだけど、その行為は「僕の中のベン・シャーン像」を再確認するということになってしまいます。そういう意味では、僕にはあまり発見がないわけ。これは他の有名な画家の場合も大体同じようなもんで、よほど好きな画家でない限り見なくてもいいかなということになります。今回の発見は、写真がいっぱい出てること。そして写真を絵に再構成した作品が、両方展示されていること。特に恐慌中に政府の仕事で各地の様子を写真に撮っていて、それを絵にしています。両者の構図や人物イメージが少し違う。絵の方が哀愁というか、人物の奥行きが深い感じ。

 もう一つ、レコード・ジャケットが出ています。(これに関しては、「芸術新潮」を参照。)シュバイツァー(あの「アフリカの聖者」でノーベル平和賞受賞者です)の弾くバッハ、ベートーヴェンの第九、ジャズやクルト・ワイルの「三文オペラ」などなど。これが素晴らしい。また、これは70年のカタログに載ってるけど全く忘れていたのが、リルケ「マルテの手記」の版画集(リトグラフ)。これが素晴らしいんで、リルケを読み直したくなりました。20世紀前半のドイツの詩人ですね。リルケなんて、今も出てるのか?今日、本屋で探したら、新潮文庫で「リルケ詩集」「マルテの手記」「神さまの話」、岩波文庫で「リルケ詩集」「ドゥイノの悲歌」「マルテの手記」がちゃんと生き延びていました。(読み直したいと思います。)

 ところで、この版画集「マルテの手記」、「芸術新潮」の「ベン・シャーンからのメッセージ 3・11後の福島で考える」という荒木康子さん(福島県立美術館)の文章を読むと、震災を経て再開した福島県立美術館の常設展示に選ばれました。テーマは「ふるさと・祈り・再生」。「人々、草花、動物、星、海、街、出会い、別れ、再生、生、死、様々な物事の先に一篇の詩が生まれる。」「この版画集は、観る者に、これまでのいろいろの出来事を思い起こすこと、そしてこれから先に思いを馳せることを同時に促す。」

 そして、ベン・シャーンは良く知られているように、「ラッキー・ドラゴン」シリーズを描いた人です。ラッキー・ドラゴン、なんだか判りますか?「第五福竜丸」です。それでも知らない人もいるかな。1954年3月1日、世界最初の水爆実験で、アメリカの設定した禁止海域外で被害を受けた焼津の漁船です。久保山愛吉さんが亡くなることになります。原水爆禁止運動が始まるきっかけになりました。第五福竜丸の船体は、保存運動がおこり東京都の「夢の島公園」に展示館ができました。「無言歌」でも書いたように、自国の間違いを直視する勇気と誠実を学びたい。

 ベン・シャーンと言う人は、実はアメリカ生まれではなく、1898年にロシア帝国(現リトアニア)に生まれたユダヤ人で、父親はシベリアに流刑となり、一家はバラバラにアメリカを目指し、1906年にアメリカに移住しました。貧しい移民で画家を目指すことはできず、石版画製作所で徒弟修業をしながら夜間高校をへて大学に通ったという経歴の人です。そうした、繁栄するアメリカではなく、底辺の労働者階級から出てきた画家なのです。東欧出身のユダヤ人的な文化背景が、都会の中の孤独を描く画風にも表れ、また「マルテの手記」にもにじみ出ているように感じました。1969年に死去。

 今、「3・11後の日本」でベン・シャーンを見ることの意味を考える展覧会でした。
 葉山館は、1月29日まで。その後、名古屋市美術館(2.11~3.25)、岡山県立美術館(4.8~5.20)、福島県立美術館(6.3~7.16)と巡回します。福島で再見しようかな。
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「ぬぐ絵画」展ー絵を見に行く①

2012年01月05日 21時42分49秒 | アート
 国立近代美術館の「ぬぐ絵画展」を見た。15日(日)まで。これは素晴らしく刺激的な展覧会だった。明治初期から戦前までの、日本で描かれたヌード美術をまとめて展示して、「日本の近代とは何だったのか」を考えてみようという企画。今まで見た展覧会の大部分は、誰か一人の画家の生涯を追って回顧するというようなスタイルだったわけだが、このようにあるテーマに沿って絵を集めた(彫刻や写真もあるが)展覧会を見るのは珍しい。

 そもそも「ヌード」とは何か?古代ギリシアでは、「ミロのヴィーナス」のように女性のヌードをモデルにしたことが明らかな彫刻が作られていた。当時のオリンピックは男だけが裸で競っていたわけだが、その男がスポーツする姿の彫刻も多く作られていた。これは「現実の人間の欲望を描く」のではなく、「理想化された人間の素晴らしさ」を再現しているわけである。そのような「肉体賛美」は、キリスト教の「勝利」で抑圧された。人間ではなく神の世界を描くことが美術の役割とされた。それがルネサンスをきっかけにして、再び「人間復興」の動きが始まる。ミケランジェロの「ダヴィデ像」などが典型。だから、「ヌード」とは「人間の本性(肉体)を理想化して美を主張するヒューマニズム」だった。

 でも日本では、そうした思想的葛藤はなかったから、裸を描く美術と言われたら、日本の伝統の中にある「浮世絵の春画」しか思い浮かばないわけで、「卑猥で社会秩序を脅かす」「風俗壊乱」としか思われなかった。そんな日本の現実の中に、ヨーロッパに留学した日本人画学生が、ヌード女性モデルのデッサンが絵の基本と言うことで、ヨーロッパの主題である「ヌード」を持ち帰った。この頃のごく初期のヌードはとても興味深い。「近代との格闘」というのが明らかに読み取れるので、まるで「もう一つの坂の上の雲」とでもいうような深い感慨を覚えた。「ヌード」だから欲情するというような絵ではなく、理想化された近代を描いているんだという気概を感じる時代。

 明治期に一番活躍したのが、黒田清輝。黒田清輝は偉大だったなあと改めて感じる。警察を巻き込んで論争となった作品も展示されている。「知・感・情」(重要文化財)という三枚の超大作は特に興味深い。解説によれば、日本人モデルを使っているが、実際の姿より身長を高くして、当時の日本女性には見られないような「7.5頭身」に描いているという。「ヌード」というものが、理想化された近代ヨーロッパを描くものだということがよく判る。現実の日本人女性の「貧相な肉体」をリアリズムで描くことではないのである。男も身長が低く、日本兵は精悍だけど背が低くて欧米諸国と並ぶと見劣りがした時代である。

 ところが黒田の弟子たちの時代になると、もう「はだかを壊す」時代となる。次の時代が始まったのである。萬鉄五郎のように、おかしなポーズ、ロボットのような造形。さらに熊谷守一、古賀春江の描いたヌードが展示され、日本女性の様々なフォルムが示される。もう明らかに、ヌードを通してヨーロッパを見るのではなく、ヌードは自分のヴィジョンを描くテーマの一つになっていく。そして、昭和になると、「もう一度、はだかを作る」と題される展示が示される。そこでは安井曽太郎梅原龍三郎らの絵が展示される。そこにあるのはもちろんヌードだが、見る側も梅原独自の世界を味わうことだけを目的として絵を見ることになる。ヌードは桜島や紫禁城と同じような梅原芸術のジャンルの一つになる。見る我々はヌードではなく、梅原を見るという意識で絵を見るのである。そこが黒田清輝の時代と違う。安井、梅原の近代洋画史上の偉大さを改めて認識させられた。(しかし、その「近代洋画」の「近代」は、北京風景を梅原が描くことに象徴されるように「帝国の近代」であった。ということを常設の戦争画展示で確認することができる。)

 ところで、日本の現実の中には、女性が立って活躍すること自体があまりなかった。野良仕事と台所仕事位である。「ヌードの農婦」では「絵にならない」。上中流夫人(モナリザもマハも上中流女性で、労働階級の女性ではない。)が日本で絵になるとすれば、お茶やお花などだろうが「花を活ける裸婦」という絵は現実味がなさすぎる。第一、座った姿勢ではデッサンも難しく、あえて人間を裸で描く意義が薄い。日本の現実を生き生きと描くには、小津安二郎の映画のような「ロー・アングル」で「畳の視点」で描くしかないのか。小出楢重は、ヌード女性を机にもたれて立たせると、日本では「女権拡張を演説する女性」みたいになってしまうというようなことを言ったそうだ。女性があえて立ってモデルになるということ自体が、「ある主張」めいてしまうという現実があった。

 一方、女性が裸であったり、労働することが不自然ではない場が日本には二つあった。それは「浴場」と「海女」である。だから日本画の主題としては、「湯浴みする女」とか「髪結いの女」とか「海女」とかが結構あるのである。それは常設展示の中で示される。そこでは、肉体の力感を再現する洋画と違い、ヌードの中に「ほのかなエロチシズム」が許されていた。そういう近代洋画と日本画の思想的な「立ち位置」の違いも興味深い。

 女性キュレーター(展覧会企画担当の学芸員みたいな職を指すらしいけど、よく判らないけどね、自分で書いてても)の企画した素晴らしい着想の展覧会で、特に芸術や社会問題(女性問題を含む)に関心が深い女性におすすめ。何だかヌードばかりなんて見たくないかもと敬遠するともったいない。実は自分も、ちょっとそう思って見ないでいたが、見逃さないで良かった。15日までである。850円。常設と工芸館も入れます。ちなみに高校生は「ぬぐ絵画」も含めてすべて無料。(他の国立美術館も無料)東京メトロ東西線竹橋下車ですね。
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映画「無言歌」

2012年01月04日 22時06分29秒 |  〃  (新作外国映画)
 ワン・ビン(王兵)監督の劇場初公開「無言歌」。2012年、僕が最初に見た映画。大変な傑作だけど、正月から暗いマジメ映画を見たくないからか、そんなに混んでない。この映画を配給、公開してくれた会社、劇場に感謝!(東京では、ヒューマントラストシネマ有楽町のみ。有楽町駅前イトシア4階)

 ワン・ビンは1968年生まれ。1999年から2003年にかけて作られたインディペンデントのドキュメンタリー映画「鉄西区」で有名になった。東北地方の瀋陽のさびれた工場を舞台にした映画だということだが、山形国際ドキュメンタリー映画祭で2003年に大賞を受賞しながら、全部見ると9時間になるという長大さに恐れをなして、まだ見ていない。劇場公開はされてないが、特集上映などではけっこうやっているが、時間が長くて料金も高いから、気力体力が充実してないと見る気にならない。その後の2007年の山形でも「鳳鳴(フォンミン)-中国の記憶」という老女性の一人語りと言う3時間のドキュメンタリーで大賞を得ている。「無言歌」はそういう記録映画で知られた監督の初の劇映画

 内容は、反右派闘争下の労働改造収容所のあまりにも厳しい現実を克明に再現した、ほとんど記録映画のような作品になっている。1960年、中国西部、甘粛省ゴビ砂漠の近く、恐ろしく不毛の地に「右派」とされた人々が送られ、食料もないまま重労働をさせられ、どんどん死んでいく。本当に毎日起きると誰かが死んでいるような過酷な日々である。映像は凄まじいまでに透き通り、飢えの苦しみ、風の痛みを砂漠の厳しい現実の中に描き出す。一度見たら忘れられない映像の力である。

 そこで起きる人間のドラマ。人間の尊厳と、尊厳を奪われるほどの現実。例えば、上海の病院に勤めていた医師は西北部支援を志願し、家族こぞっての反対を押し切り蘭州に行き、結局はここに送られてしまう。心から悔いていた彼は、死を覚悟し頼みごとをする。妻が訪ねてくるから遺体を渡してくれ、ここで葬られたくはない、そのため死んでもここで埋めず遺体はすみっこに隠しておいて欲しい、と。そして死んでしまうが、一人死んでることを隠せるものではなく、遺体は近くの墓地に埋められてしまう。果たして、本当に大変な中を妻が訪ねてくるのだろうか。そうしたら、ある日本当に妻が来るのである。死を伝えないわけにもいかず、泣いて泣いて泣きじゃくる妻の姿。そして墓地を教えてくれと言うが、教えてもらえないと判ると妻は一つ一つ墓地を掘り死者を確認し始める。このくだりの凄まじい描写は見たものに忘れられない印象を残すだろう。(これから見る人のために、墓地を教えてもらえなかった理由や展開は書かない。)

 1953年、ソ連のスターリンが死亡し、1956年にソ連共産党の秘密会でスターリン批判がなされた。この動きを恐れたか、「中国のスターリン」毛沢東は、朝鮮戦争後の厳しい経済状態の中で、中国共産党への批判を歓迎するという政策を打ち出す。「百花斉放百花争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」と言う。初めは批判もあまり出なかったので、毛沢東は自ら党への批判を呼びかけた。その結果、知識人はようやく批判を始め、やがて批判が続出する。そこであわてた毛沢東は方針を一転し「右派分子が社会主義を批判している」と「反右派闘争」を呼びかけた。これではだまし討ちではないか、毛沢東の「陰謀」だと言われても、毛自身は「陽謀」だと開き直ったことでも知られている。映画の中では、土木の専門家が党への批判をしてよいといわれて、「プロレタリア独裁という言葉は良くない。全民独裁と言うべきだ。国は全国民のものだから」と言って、それがのちに「右派」とされたというケースを描いている。この「反右派闘争」の傷は今も深く、知識人が党を批判することがなくなってしまう。その後の文化大革命の悲惨を準備した事件だが、文革があまりにも大変だったので反右派闘争と言っても知らない人が多いだろう。

 この映画は、正式に言えば中国映画ではなく、香港・フランス・ベルギーの合作。完全外資系なので当局の許可を得ることなく撮影して、フィルムをフランスに送って完成させた。何という勇気だろう。現地の砂漠にセットを作ってロケしているのだ。もちろん中国国内では上映できない状態だが、それでもこれだけのインディペンデント作品が作れる状況にはあるわけだ。

 世界には、虐殺・収容所映画というべき系列がある。主にナチスの収容所がテーマである場合が多いが、ナチの場合最終目的が殺害であっても収容所で日々死んでいくわけではない。ソ連の収容所を扱った「イワン・デニーソビッチの一日」(ソルジェニーツィン原作)があるが、外国で作られた映画。カンボジアのポル・ポト体制を描く「キリング・フィールド」もアメリカ映画、北朝鮮からの脱出を描く「クロッシング」も韓国。だから、自国の暗部を見つめる映画を作ってしまうワン・ビン監督の覚悟と力量はものすごいと思う。日本ではシベリア抑留がここで描かれた現実に近い過酷な体験だと思うが、本格的に映画で描かれたことがない。(「不毛地帯」は最大のテーマがシベリアではない。)シベリア抑留の本を読んだことがある人は、あれに近い世界だと言えば判ると思う。

 なお、毛沢東は「右派は5%いる」とした。そのため各職場で5%の右派を出さざるを得なくなり、どうしても不可能な場合は幹部が自ら引き受けたりした。東京や大阪の学校で、各校で必ず何%か、最低評価を教員につけなければならない、というような勤務評定がなされている。(大阪はまだ案だが。)そういう発想のもとは、この時の毛沢東にある(と僕は信じている。)

 かなりうっとうしいマジメ映画だから、全員が見るのはしんどいと思うけど、映画や社会や中国に関心のある人は見逃してはいけない傑作映画である。
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