尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

マンゾーニ「いいなづけ」を読む

2020年04月12日 23時02分16秒 | 〃 (外国文学)
 アレッサンドロ・マンゾーニ(1785~1873)の上中下3巻の超大作「いいなづけ」を読んだ。今回の新型コロナウイルス蔓延でイタリアの学校も休校となったとき、ミラノの高校の校長先生が感動的な呼びかけを投稿した。その中で、家での読書を勧めて「いいなづけ」の名前を挙げていた。その本は持っているじゃないか。日本では長いこと読みやすい翻訳がなく知名度が低かったが、1989年に平川祐弘訳が刊行され高く評価された。2006年に河出文庫に収録された時に買っていたのである。
(上巻=470頁)
 ということで、この機会に自分も読んでみようと3月末から取り掛かったが、さすがに長かった。この作品は「イタリア文学の最高峰」と呼ばれているらしい。1827年に刊行された当時は、まだイタリア王国の統一(1860年)前で、イタリア統一運動(リソルジメント)を文化面で支えた作品とされ、イタリアではダンテ「神曲」と並ぶ作品とされているという。特にミラノ周辺の地形や風景描写が印象的で、コモ湖近くの村から始まる物語によって北イタリアの社会をよく感じ取ることが出来る。また下巻で詳細に描かれるミラノを襲ったペストの悲劇を通して疫病の下で生きる人々のようすを感じ取ることが出来る。
(マンゾーニ)
 マンゾーニはミラノの伯爵家の出身で、母はイタリアの啓蒙思想家ベッカーリアの娘だった。ベッカーリアは「犯罪と刑罰」を書いて世界で初めて拷問と死刑の廃止を訴えた人物である。20歳の時に母とパリに行き啓蒙思想に触れたが、結婚とともにカトリックになった。「いいなづけ」も信仰の証明みたいな本である。イタリア王国成立後に上院議員になったが、文学者としては大著「いいなづけ」完成で燃え尽きたのか、その後は活躍していない。19世紀西欧ではフランス、イギリス、ロシアなどで大河小説が書かれた。「いいなづけ」はそれらに先立つ「国民文学」と言うべき作品で、時代的に早いせいか、勧善懲悪的な一大ロマンになっている。その点、不満を持つ人もいると思う。

 1628年11月7日が物語の起点である。コモ湖畔の村レッコの司祭アッポンディオは翌日に予定されていたレンツォルチーアの結婚式を挙げないようにとならず者二人に脅迫される。この二人は地区の領主ドン・ロドリーゴの手下で、彼は道でルチーアを見初めて、悪友の従兄弟とルチーアを落とせるか賭けをしていたのである。こうして、何の罪もない若い二人に突然災難が降りかかった。この村の司祭というのが傑作で、神の名の下に弱きを助けるような人物ではなくて、つねに世の大勢をうかがい強きに付く小心者である。こういう人物は結構世の中に多いと思う。一読忘れられない性格描写だ。
(中巻=457頁)
 二人は結婚式を強行しようとするが失敗、領主は手下を使って誘拐を企む中、唯一味方になってくれるのがカプチン修道会のクリストーフォロ神父。神父の配慮で修道院にバラバラに隠れることになるが、レンツォはスペイン支配下のミラノでパン暴動に巻き込まれる。そこまでが上巻で、続いてレンツォがミラノでお尋ね者とされ、アッダ川を越えてからくも逃げのびベルガモ(当時はヴェネツィア共和国領で他国だった)の従兄弟のもとへ。一方、ルチーアは匿われる修道院から誘拐されてしまうが、その事情はいかに。そして誘拐した人物の苦悩と回心…。
(下巻=457頁。物語だけでは380頁)
 そこに攻めてくるドイツ軍(神聖ローマ帝国軍)、それに連れてはやり出すペストの猛威。果たして二人は生き延びられるか。再会して結ばれる日は来るのだろうか。という次第なんだけど、途中の脇道がえらく多い。いろんな人物の生涯が語られる。そもそもこれは作者の創作ではなく、無名の人物の草稿を発見したものだと最初に出ている。もちろんそうじゃなくて、そういう体裁の小説ということである。書かれた当時のミラノはオーストリア(ハプスブルク家)の支配下にあり、スペイン支配時代を描くにも細心の注意が必要だったんだろう。

 メルヴィルの「白鯨」が主筋を離れてクジラ百科のような描写が続くのと同様に、「いいなづけ」も主人公を離れてミラノの歴史を語り続ける。その結果、下巻の半分近いペストの描写がすごい。病気もだが、ペストを認めず、これは「陰謀だ」と敵を見つけようとする有力者たち。差別と偏見が、確かに病原菌の存在を知らなかった時代だとしても、町を破壊す尽くす様が描かれている。そんな中で修道士たちの身を捧げた奉仕ぶりも印象的だ。物語としては、途中で水戸黄門になってしまい、最後の方はグレアム・グリーンの「情事の終わり」みたい。近代小説としては確かに弱いなと思う。

 一大講談という感じで神田伯山に連続講談に仕立てて欲しいぐらい。長いけど面白いことは面白い。バルザックやユゴーというよりアレクサンドル・デュマか。言語的に近代イタリア語を確立したと言われる点で、日本では三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」なんかの文学史的位置に近いかも。日本人は他にまず読むべき本は多いだろう。日本人が全員読まなくてもいいと思ったけど、ミラノの校長先生が勧める理由は納得できた。家で時間がある時期にしか読めないからチャレンジする価値はある。
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大林宣彦監督を追悼し、いくつもの映画に感謝!

2020年04月11日 22時48分33秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)が亡くなった。4月10日、82歳。亡くなったのは、奇しくも遺作の「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」の公開予定日だったが、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言で延期になった。一体いつになったら見られるんだろうか。ガンで闘病中で余命宣告を受けていたのは公表されていた。だから驚きはなく、むしろ「花筺」(はながたみ)と「海辺の映画館」と最後に集大成的な作品が二つも作られたことに感謝である。
(大林宣彦)
 大林宣彦は僕の世代にとって特別な映画監督(の一人)だ。溝口、小津などの巨匠は名前を知ったときにはずいぶん前に亡くなっていた。黒澤明は存命だったが、数年に一本大作を撮る人で全盛期は過ぎていた。大林監督は1938年生まれと世代的には年長だが、商業映画デビューは1977年の「HOUSE ハウス」だから、デビュー作から見ているのである。そして70年代から80年代に大きな影響力を持った角川映画でも撮ってヒット作を連発した。角川文庫と連動した「ねらわれた学園」(1981)や「時をかける少女」(1983)など僕らの世代は大体見てるんじゃないか。もちろんテーマ曲も歌えるだろう。
(「時をかける少女」)
 そういう人は他分野を見ても数少ないと思う。ただ大林監督は有名になりすぎたかもしれない。故郷の尾道を舞台に撮り続けたことで、「ふるさと創生」の代名詞のようになりマスコミや大企業にも受けてしまった。社会批判色が少なかったので、広告などにも起用されやすかった。それが僕には残念だったが、最晩年になって大震災後に今度はまた変わったと思う。反戦のメッセージを次代に残そうと努め、映像技法的にも自由奔放な映画を作り始めた。そこがやはり偉大な映像作家だった証だ。

 大林監督はもともと個人映画の作家として有名だった。上映される機会は少なかったが、時々池袋の文芸地下(今の新文芸坐の敷地に洋画専門の文芸坐があり、日本映画専門の文芸地下は下にあった)でやっていた。それらの映画は独特な長い名前を持ち、不思議に懐かしい思い出のような映像が魅力的だった。「Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道」(1964)、「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1966)、「CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅」(1968)などである。これが面白くて、僕は名前を記憶することになった。

 これらの映画は当時は自分で8ミリ映写機を回して撮影して編集するもので、そういう映画を作っていた人は当時は非常に珍しかった。それが認められ、CMディレクターとなり大活躍する。日本映画の海外ロケも珍しい時代だが、CMなら海外スターを起用できるとチャールズ・ブロンソンの男性用整髪料「マンダム」が大評判となった。「丹頂」から社名を「マンダム」に変えてしまったぐらいだ。他にも上原謙、高峰三枝子の「国鉄フルムーン」、山口百恵・三浦友和の「グリコアーモンドチョコレート」、ソフィア・ローレンの「ホンダ・ロードパル」、「レナウン・ワンサカ娘」など評判になったCMをいっぱい作っている。
(「マンダム」)
 そこで満を持して商業映画を撮ることになって、当時の流行でもあったホラー、パニック映画の「HOUSE ハウス」(1977)を東宝で製作した。批評家受けは悪くて、キネ旬ベストテンでは21位だったが、僕はとても面白くてその年のベストワンである。少女たちが家に食べられてしまうという話をポップな感覚で撮っている。今思えばガーリーなファンタジーとして先駆的な作品で、影響を受けた若い世代が後にたくさん出てくる。次が「ブラックジャック」を映画化した「瞳の中の訪問者」だが面白くなかった。主演が片平なぎさだから見たんだけど。その後段々判ってくるけど、原作があってヒットを期待される時期に公開される映画ほど面白くない。やはり「個人映画」の作家なのだった。
(HOUSE」)
 転機になったのは、1982年の「転校生」。2017年にフィルムセンターで再見した時のことは「大林宣彦『転校生』を35年ぶりに見る」に書いたので、ここでは省略する。ベストテン3位に入選し、初めて高く評価された。「尾道三部作」の最初で、山中恒原作だがほとんど自由に作っている。ATGで製作して大手じゃなかったのが良かった。次が角川の「時をかける少女」(1983)で、原田知世主演で大ヒットした。原作は筒井康隆のジュブナイルSFだが、何度も映像化されている中で一番いいだろう。あの頃僕らは「ラベンダーの香り」と言われても、謎めいて判らなかったのだ。
(「さびしんぼう」)
 尾道三部作の最後が「さびしんぼう」(1985)だが、ノスタルジックなムードが最高と言える作品で、僕は大林作品の最高傑作レベルだと思う。「ふたり」(1991)「あした」(1995)「あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~」(1999)を「新尾道三部作」と言うが、やはり最初の方がずっといいと思う。僕らも、監督も飽きたのかもしれない。「ふたり」はとてもいいと思ったが、どうも既視感が次第に強くなった。これらの尾道映画は「観光映画」ではなく、何気ない日常を撮ることで、全体として懐かしいムードを作り出し「ロケ聖地めぐり」の先駆けとなった。その功績は非常に大きい。

 作品が多くて長くなっているが、わざわざ16ミリで撮影した「廃市」(1984)は忘れがたい。福永武彦の傑作短編の映画化で、福岡県柳川の堀割を古びた町のムードを満喫した。もっとも数年前に再見したら、ちょっとガッカリしたところもあった。もっと大傑作に思い込んでいた。時間経過による思い込みの美化である。もう一つ、ノスタルジー映画ではないが、個人的な思いで作った「北京的西瓜」(1989)がある。中国人留学生のお世話に奔走する千葉県船橋の八百屋を描く。ちょうど天安門事件にぶつかり、中国ロケが出来なかった。あまり取り上げられないが、非常に特別な価値がある映画だと思う。
(「廃市」)
 残りは簡単にしたいが、原作映画化として「異人たちとの夏」(1988)、「青春デンデケデケデケ」(1992)、「はるか、ノスタルジイ」(1993)、「女ざかり」(1994)、「理由」(2004)などがある。「異人たちとの夏」は高く評価されたが、僕は設定に納得できない。素晴らしいのは「青春デンデケデケデケ」で、芦原すなおの直木賞受賞作を実にうまく映像化した。四国の高校生のバンド映画だが、ベンチャーズ世代なのである。これを見ると、やはり大林映画のキモは「失われゆく青春へのノスタルジー」にある。丸谷才一の話題作「女ざかり」は吉永小百合主演だが全然面白くなかった。
(「青春デンデケデケデケ」
 「SADA」(1998)という映画はベルリン映画祭で受賞したというので、一応見に行ったが面白くなかった。阿部定の映画なんだけど、大島渚、田中登に付け加えるところはなかったと思う。こうして次第に面白くない映画が多くなってしまい、「なごり雪」(2002)や「22歳の別れ」(2007)などは見逃した。そして大震災後に「この世の花ー長岡花火物語」(2012)、「野のなななのか」(2014)、「花筺」(2017)、「海辺の映画館~キネマの玉手箱~」(2020)の、いわば「山崎紘菜四部作」が作られた。その評価はまだ僕には出来ない感じだ。「海辺の映画館」を見られてからじっくり考えたい。

 ずっと追ってきたので長くなってしまった。青春時代からずっと見ていた監督で、ひたすら画面に夢中になって切ない思いに浸ってきた。まだ書きたい映画も残っているぐらい、作品数が多い。全部見た人はいないんじゃないだろうか。特集上映が行われ、また映画館のスクリーンで見られる日を待ち望んでいる。長い間素晴らしき映画を作り続けた大林監督に感謝したいと思う。
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今井清一、クリス・リード、ペンデレツキ等ー2020年3月の訃報③

2020年04月11日 14時03分16秒 | 追悼
 3回にわたって書くことになるが、今回は写真なしで訃報を書き留めるだけの人が多い。一方に中国現代史の野村浩一がいて、もう一方に前愛媛県知事の加戸守行がいる。大きく報道される記事の下の方に小さな訃報がいっぱいある。様々な死因がある。そのような多くの病む人を病院は放っておくことは出来ない。新型コロナウイルス感染症だけに掛かりきりになることはできない。 

 歴史学者(日本近現代史)の今井清一が9日に死去、93歳。1955年に出た岩波新書「昭和史」(1959年に新版)の著者の一人だった。もう二人の遠山茂樹藤原彰は理論家でもあり一般書も多かったが、今井清一は元々の専門である「大正デモクラシー」と同様に地味だったかもしれない。この本は亀井勝一郎から「人間が出て来ない」と評され「昭和史論争」を引き起こした。僕が思うに、「科学としての歴史学」は「文芸評論」とは土俵が違うから「異種間格闘技」をしてもあまり意味はない。問題は「党派的」な歴史観、「二元対立」的な見方(戦争を推し進める軍部対弾圧される共産党的なとらえ方)をどう克服できているかだろう。今思えば、基本的に左翼的であるこの本も「昭和史」という名前だったということに驚く。ところで、今井氏は退職後も現代史研究を続け、関東大震災時の中国人虐殺事件を追求し本にまとめた。僕は関東大震災関係の集会で講演を聞き、感動した思い出がある。
(今井清一)
 アイスダンスの選手だったクリス・リードが15日に死去、30歳。志村けん以上に驚いた訃報である。母が日本人で、姉のキャシー・リードとともにバンクーバー、ソチ、村元哉中(かな)とピョンチャン五輪に出場した。日本ではフィギュアスケートはシングル選手は有名だが、アイスダンスは盛んでない。僕も名前ぐらいしか知らないと言ってもいい。団体ではメダルが取れても、五輪は15位が最高だった。引退してコーチになることを決意し、日本へ帰国準備中だったという。心臓突然死でデトロイトで亡くなった。
(右=クリス・リード)
 第5代国連事務総長のハビエル・ペレス・デクエヤルが4日死去、100歳。ペルー出身の外交官で、国連事務次長を経て、1982年から1991年終わりまでラテンアメリカ出身でただ一人の事務総長を務めた。その後、1995年にペルー大統領選に出馬したが、2期目を目指すアルベルト・フジモリに敗れた。ウィキペディアを見ると、正式の名前は恐ろしく長くて、ハビエル・フェリペ・リカルド・ペレス・デ・クエヤル・デ・ラ・ゲーラと出ている。
(デクエヤル)
 ポーランドの現代音楽作曲家、クシシュトフ・ペンデレツキが29日死去、86歳。正直名前ぐらいしか知らないけれど、それでも名前は知っていた。1960年の「広島の犠牲者に捧げる哀歌」で知られた。創作の頂点は1965年の合唱曲「ルカ受難曲」だという。交響曲を見ると、「朝鮮風」とか「中国の詩」などという題が付いていてアジアへの関心がうかがわれる。映画音楽も手掛けていて、「シャイニング」に楽曲を提供したほか、アンジェイ・ワンダ監督の「カティンの森」の音楽を担当した。
(ペンデレツキ)
・中国近現代史の研究者、野村浩一が1日死去、89歳。立教大学教授だったが、法学部なので僕は直接接していない。「中国の歴史」シリーズの一巻「人民中国の誕生」(1974)には多く教えられた。今思えば文化大革命に甘かったかもしれない。
・元帝国ホテル社長の犬丸一郎が3日死去、93歳。帝国ホテルに関する著書も書いた。
・作家の勝目梓(かつめ・あずさ)が3日死去、87歳。バイオレンス小説を多く書いた。俳人でもあった。
・全柔連名誉会長の嘉納行光(かのう・ゆきみつ)が8日死去、87歳。嘉納治五郎の孫にあたる。
・東京都議会議員の古賀俊昭が9日死去、72歳。全国的には知らない人も多いだろう。七生養護学校事件を引き起こすなど、東京の右翼的な性教育攻撃、歴史修正主義的教育を推し進めてきた中心人物の一人だった。
・第12代最高裁長官の草場良八が13日死去、94歳。90年から95年に長官を務めた。
・日経新聞元会長の鶴田卓彦が13日死去、92歳。横綱審議委員会委員長も務めた。
・ハンセン病療養所栗生楽泉園自治会長の藤田三四郎が15日死去、94歳。
・前愛媛県知事の加戸守行が21日死去、85歳。99年から3期務めた。愛媛県は東京都と並んで、県立養護学校(当時)に「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択した。採択前に加戸知事が「扶桑社がベストと発言していた。」後に加計学園獣医学部新設問題では、国会に参考人として出席し、安倍政権寄りの発言を繰り広げた。元文部省官房長を務めるも、リクルート事件文部省ルートに関わり辞任。その後JAS RAC理事長などを経て現職を破って当選した。
・東大史料編纂所教授、歴史学者の山本博文が29日死去、63歳。「江戸御留守居役の日記」で日本エッセイストクラブ賞。

・カントリーミュージックの大歌手、ケニー・ロジャースが20日死去、81歳。グラミー賞を3回受賞。
・ノーベル賞物理学者フィリップ・アンダーソンが29日死去、96歳。量子力学の発展に貢献した。
・ソウル歌手のビル・ウィザースが30日死去、81歳。グラミー賞を3回受賞。
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マックス・フォン・シドー、松田政男、佐々部清等ー2020年3月の訃報②

2020年04月10日 17時55分06秒 | 追悼
 今までに書いた別役実、宮城まり子、志村けんに続き、その分野に興味関心が高い芸能界関係の人を映画を中心に。まず、スウェーデン出身で世界で活躍した俳優、マックス・フォン・シドー(Max von Sydow)。3月8日没、90歳。若い頃から「老け役」だった。まだ90歳だったかという印象がある。
(マックス・フォン・シドー)
 マックス・フォン・シドーと言えば「エクソシスト」だ、いや「スターウォーズ」だと言う人がいるけど、やはり「ベルイマン映画」だろうと思う。50年代末から60年代に書けて、スウェーデンの名監督イングマール・ベルイマンの傑作に連続して出演して世界を驚かせた。「処女の泉」の父親役も忘れがたいが、設定のトンデモぶりが際立つ「第七の封印」の死に神とチェスをする騎士は圧倒的だ。
(「第七の封印」)
 1965年の「偉大な生涯の物語」でハリウッドに進出、1973年に大ヒットしたホラー映画「エクソシスト」のメリン神父役で世界に知られた。「悪魔払い」をテーマにした強烈な作品で、70年代初期の暗いムードを反映している。その後はたくさんの名作にいっぱい出ている。カンヌ映画祭パルムドール受賞作「ペレ」でアカデミー賞主演男優賞にノミネート。フランス市民権を獲得していた。
(「エクソシスト」)
 映画評論家の松田政男が死去。3月17日、87歳。「映画評論家」というより、「政治運動家」だったのかもしれない。キネマ旬報のベストテン投票などを見ていて、案外鋭く、また僕も納得できるような投票が多かった。確かに「政治的投票」でゴダールや若松プロを高得点にすることも多かったけれど。大島渚の傑作「絞死刑」に検察事務官役で出ている。また「風景論」を唱えて、永山則夫事件の起きた現場を撮り続けた「略称・連続射殺魔」を製作した。これは1975年に公開されたが、面白くないけど「問題作」である。1974年に「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」をフランスで上映運動中に国外追放された。著書に「テロルの回路」「風景の死滅」など。読んでないけど、70年代には一定の影響力があった。
(松田政男)
 映画監督の佐々部清が死去、3月31日没、62歳。これはビックリした。山口県下関市出身で、よく故郷の映画を撮っていた。次回作の準備のため滞在中の下関のホテルで死亡しているのを発見された。心疾患だという。代表作として「半落ち」や「ツレがうつになりまして」などが取り上げられるが、キネ旬ベストテンに入ったのは「チルソクの夏」(2004)と「夕凪の街 桜の国」(2007)である。前者は70年代の「関釜陸上競技大会」で活躍した高校生の淡い交友を描く感動作。僕は大好きな映画で、定時制高校の校内映画鑑賞会で見せた思い出がある。後者は「この世界の片隅に」のこうの史代のマンガの実写映画化。田中麗奈が素晴らしく、どっちもどこかで見る機会があるといいなと思う。ここでは「東京難民」と「八重子のハミング」を取り上げた。社会派というより、「人間派」というべき素直なヒューマニズムの発露で、常識的な映画作りだが心に触れるものがある。遺作は「この道」。
(佐々部清)
 映画撮影監督の仙元誠三(せんげん・せいぞう)が3月1日に死去、81歳。松竹に入社して、退社後に「新宿泥棒日記」や「書を捨てよ町へ出よう」に参加。70年代後半に松田優作主演の「最も危険な遊戯」など遊戯シリーズで注目された。その後の松田優作映画、「蘇える金狼」「野獣死すべし」「ヨコハマBJブルース」「探偵物語」なども担当した。傑作「Wの悲劇」も担当している。テレビでも「大都会」「西部警察」などを担当したから、名前を知らずに見ていた人がたくさんいるはず。こうしてみると、現代日本のアクション映像に多大な影響を与えているんじゃないかと思う。
(仙元誠三)
 元宝塚歌劇団のトップスター、真帆志ぶきが9日死去、87歳。僕は宝塚のことはほとんど知らない。朝丘雪路と同期だと言うから、ずいぶん昔のことだ。50年代、60年代のスターで、1962年から1970年まで8年間も雪組トップを務めた。その時の相手役は加茂さくらだった。1975年に退団し、以後もミュージカルなどに出演した。実力も人気もあったスターだったという。
(真帆しぶき)
・声優の増岡弘が21日に死去、83歳。サザエさんの「マスオ」役を1978年から41年務めた。
堀川とんこう(本名堀川敦厚=あつひろ)が28日死去、82歳。TBSで「岸辺のアルバム」などを演出した。松本清張原作の「西郷札」などでも評価された。映画「千年の恋 ひかる源氏物語」の監督。
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宮城まり子と志村けんー2020年3月の訃報①

2020年04月09日 22時24分47秒 | 追悼
 2020年3月は記憶に留めたい訃報が多かった。劇作家の別役実をその時に書いたけれど、その後にもっと有名な宮城まり子の訃報が届き、その後もっともっと有名な志村けんの訃報が届いた。有名なだからというわけじゃないけれど、「ひと」以上に「時代」を思い起こさせる人名もある。
(宮城まり子)
 宮城まり子(1927.3.21~2020.3.21、93歳)をウィキペディアで調べると、日本の歌手、女優、映画監督、福祉事業家と出ている。まあその通りだろうが、歌手や女優としての活躍をリアルタイムで知ってる人は相当の高齢だろう。僕はほぼ肢体不自由児施設「ねむの木学園」の人という印象だ。宮城まり子はねむの木学園の子どもたちのドキュメンタリー映画を4本作った。岩波ホールで上映されて、2作目の「ねむの木の詩がきこえる」は1977年のベストテン7位に入っている。(「幸福の黄色いハンカチ」や「八甲田山」の年である。)上映機会は今ではほとんどないと思うがDVDになっている。こういう「良心的記録映画」は見なくても判る気がしてあまり見ないけど、一応最初の2本ぐらいは見たと思う。まあ「傑作」というより、大きな社会的反響を巻き起こした功績として記憶されるだろう。
(子どもたちと宮城まり子)
 「ねむの木学園」は今は静岡県掛川市にあるが、1998年に移転するまでは同じ静岡県の浜岡町(現・御前崎市)にあった。昔静岡県を旅行したときに寄った思い出がある。学園建設後に出来た「浜岡原発」がほぼ隣にあるのに驚いた思い出がある。学園内にはこどもたちが書いた絵を展示する美術館があって、そこは見学できるようになっていたと思う。ナイーブ・アートの先駆的な存在として、70年代後半には映画を日本、世界に紹介して周り、非常に高い評価を得ていた。その後、掛川の山の中に広大な敷地を確保して施設を移転、学校法人も設立して今も特別支援学校として続いている。本人の女優としての知名度もあるが、それだけではない情熱を注ぎ込んでいた。立派なものだと感服する。
(ガード下の靴みがき)
 宮城まり子はまず歌手だった。東京生まれながら、大阪で育ち小学校を卒業してすぐに吉本興業に入った。歌謡歌手としては、1955年の「ガード下の靴みがき」が一番大ヒットして知られているだろう。他の歌を見ても「夕刊小僧」「ジャワの焼鳥売り」など、名前に戦後色が強い。他にも「手のひらを太陽に」を最初に歌った。1961年にいずみたくが作った曲で、1962年にNHK「みんなの歌」で放送された。もう一つは「ドレミの歌」で、日本ではペギー葉山の歌詞で知られているが、岩谷時子の歌詞で宮城まり子がほぼ同時に歌ったという。紅白歌合戦にも8回出ている。

 女優としては川島雄三監督の怪作「グラマ島の誘惑」(1959)や市川崑監督の怪作「黒い十人の女」などがある。どっちも「怪作」なんだけど、今も時々上映されるカルト作。特に前者は戦時中に船が難破して皇族兄弟と慰安婦たちが孤島に流れ着くという設定だ。八千草薫も出ているが、女優トップは宮城まり子。歌手から女優になったのが30ぐらいで、年齢的に「アイドル」じゃなかった。他に東映アニメ「白蛇伝」で森繁久弥と二人で声優を務めている。私生活では作家吉行淳之介の生涯のパートナーとなったのは有名。しかし吉行には妻があり、壮絶な争いは吉行「闇の中の祝祭」に詳しい。今ではねむの木学園に「吉行淳之介文学館」まで作られている。なお亡くなったのは誕生日の当日だった。

 宮城まり子をずいぶん長く書いてしまった。若い人だと名前を知らない人もいるかと思って、つい「ねむの木学園」のことなど記憶に留めたくなる。それに対し、志村けんは現役のまま亡くなったので、名前を知らない日本人は誰もいなかっただろう。新型コロナウイルス感染による肺炎で3月29日に死亡した。1950.2.20~2020.3.29、70歳。発病したのは17日で、陽性確認は23日、事務所による公表は25日だった。我々がニュースで知った日から数えると、4日後の訃報だった。公表時から肺炎で意識不明とされていたので、薄々覚悟していた人もいると思うが、あまりにも早い訃報は多くの人に衝撃と恐怖を与えた。もうこれ以上の「有名人」が亡くなることがないように願う。

 僕は志村けんについて語ることが余りない。入院公表の日に「結婚を考えた人の思い出」がたまたまテレビ放送されていて、それを見ていて、こういう人だったんだと思った。追悼特番は裏番組の「ガッテン!」が僕の持病の耳鳴り特集だったので見なかった。「鶴瓶の家族に乾杯」の追悼放送は見たけれど、10年前(2010年)に福島県小野町を訪ねた時の様子が感慨深かった。高校生が皆で「アイーン」とポーズをしていた。2011年だったら福島に行けなかっただろう。

 僕が志村けんについて語れないのは、要するにほとんど見てないからだ。荒井注が脱退して、志村けんがザ・ドリフターズのメンバーになったのは、調べてみると1974年4月1日だった。僕が高校を卒業して浪人になったばかりの時で、ドリフのメンバー交代のニュースは覚えてるけど、テレビどころじゃなかった。その後大学に入ってもテレビはあまり見なかった。80年代に結婚したらテレビをもたない生活をした。(時々誤解されるんだけど、僕が言い出したんじゃなくて妻がいらないよねと言ったのである。)だからずいぶんバブル期のドラマの知識などが欠落している。「東村山音頭」や「カラスの勝手でしょ」はもちろん知ってたけど、案外印象は薄いわけである。
(バカ殿)
 志村けんは様々なテレビ番組を持ち続け、世代ごとに違ったイメージを持っているとある人が指摘していた。確かにそうかなと思う。僕などはドリフと言えば「全員集合」がまず思い浮かび、それ以外は判らないぐらいだが、若い世代にも2004年から続いていた「天才!志村どうぶつ園」で知っているんだという。死後には「いい人だった」と語られるものだが、「いい人」だけでは長年コメディアンとして現役であり続けられないだろう。実際、芸に真剣に打ち込んだ姿も語られている。大の動物好きだというから、僕はそれだけで信用できると思ってしまう。特に犬が好きな人だったから。愛犬2頭が残されたが、引き取り手は決まっているという話。どんな人間にもまして、この愛犬がショックだっただろう。
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正気を保って生き延びる-緊急事態宣言の下で

2020年04月07日 23時37分22秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 いよいよ緊急事態宣言である。これが「遅すぎた」あるいは「危険なものだ」とする意見も多いが、まさに適切な時期に出されたものかどうか、もうすぐ判る。それまで「観察」を続けたいと思う。安易に結論を出せるほど、自分には感染症に関する知識も、日本の現状に関する基本データも持っていない。ここではいくつかの点を確認し、基本的に押さえておくべきことをいくつか書いておきたい。

 まず、この「緊急事態宣言」とは何なのか、よく判らない人がいると思う。いくら説明されても、「明日出ると判ってる緊急宣言」というものが判らない。2月末にあった「全国一斉休校要請」を思い出せば、あれこそ専門家の意見も聞かず、まさに「緊急」に言い出したのだった。それによって多くの人が困惑し、日常生活が激変したわけだが、「ここ1,2週間が山場」だというから、やむを得ず協力せざるを得なかった。あの時でさえ、全国一斉だったのに、今回は「7都府県」ということだが、感染者が100人を超えている愛知県京都府がなぜ除かれているのか。(北海道は最近の感染者が減少した。)

 今回は「都市封鎖ではない」ということを強調している。その結果「仕事をせざるを得ない人々」は外に出ないといけない。飲食店も開いているということだ。(まあ夜は閉めるだろうが。)じゃあ、「自粛要請」だったときと何が違うのか。よく判らないことが多すぎる。僕が思うに、政府が国民に強いメッセージを送るときには、今までに首相自らが「透明性の高い情報公開」を行っていたかどうかが問われる。「森友」「加計」「」「検察官定年延長」などで「論理破綻」の「説明」を繰り返してきた。だから今さら何を言われても、心に響かないのである。

 それにしても、未だかつてない事態である。これほど世界全体に恐怖と混乱が広がったことは、確かに第二次世界大戦以後で初めてだと思う。しかし、2011年の原発事故の時の方がもっと恐ろしかったと思う。怒りや悲しみも深かった。大地震そのものがかつてない揺れで恐ろしかった。1995年の阪神淡路大震災は東京ではテレビで見るだけだったが、3月の地下鉄サリン事件も恐ろしかった。そして繰り返される地震と台風災害。ここ何年か、恐ろしいことを毎年のように見聞きした。今回の危機も大変だけど、何とか「生き延びる」ことを目指すしかない。

 まずは自身と家族が「生命体」として「survival」しないといけない。しかし、武漢やニューヨークの死者数を見ても、中世ヨーロッパのペストのように人口の3分の1が死ぬというような事態は起こらない。日本でも感染率や致死率はほぼ同じと考えられる。だから、絶対に自分が感染しない、死なないとは断言は出来ないわけだけど、確率的には多くの人が生き残って「コロナ後の世界」を再建することになる。その時までに、また別のいくつかの「正気」「健全さ」が大事になると思っている。

 ウイルスに感染しないとしても、家にずっといたら他の病気になるかもしれない。心の健全さが失われるかもしれない。すでに中国や欧米では、家庭内暴力(DV)が激増していると言われる。家でゲームにのめり込んで「ゲーム依存症」になる子ども(大人)もいるだろう。どうしても運動が少なくなって、体重が増えたりする人もいるはずだ。スマホばかり見ていて、鬱屈した気分から極端な意見にばかり惹かれる人も出てくる。「陰謀論」で全てを考える人も増えるかもしれない。よりによって、こんな時に「補助金が出ることになったから、口座番号を教えてくれ」などといった電話を掛ける詐欺が現に出ている。ずっと一人で家にいると、引っかかる人もいないわけじゃないだろう。いろんな意味で「心の健全さ」が今ほど重要なときはない。踏ん張りどころだ。

 そして、人はただ個人で生きているわけではない。社会の網の目のような分業の中で生きている。その仕組みが壊れてしまうと、なかなか再建が難しい。今の政権は「文化が大切だ」というメッセージをほとんど発してくれない。広い意味の文化があって、僕らは生きている。例えば「映画」は残っても、大きな資本の映画館しか生き残れなかったら文化の多様性が失われる。公立の劇場が残っても、劇団やオーケストラが生き残れなかったら、そこに何の意義もない。レストランや居酒屋も街の文化だ。(だからミシュランガイドが評判になる。)僕は「3・11」の後で、大津波に襲われて壊滅した陸前高田を見た。今回は建物そのものは存在しているかもしれないが、終わった後に「何もない街」が残ってしまうかもしれない。「見えない津波」が襲ってきている。

 それ以上に、「コロナ後の世界」を構想していかないいといけない。どんなに「自由」が大切か、どんなに「文化」が大切か。プロ野球やコンサートや映画館が当たり前のように「そこ」にあったことが、どれほど大事なことだったか。それを守っていかないといけないと多くの人が考えるだろうか。それとも、もっと「強権政治」が必要だったと考えるか。中国を初め「外国」からウイルスがやってきたのだから「排外主義」に心をひかれるか。大きな歴史上の岐路がもうすぐやってくる。

 厚生労働省は2019年9月に、公立・公設の病院424病院の再編計画を打ち出している。全国の公立病院の25%にも当たるという。まだつぶされる前で良かった。この計画はまだ撤回されていない。全国の公立病院の4分の1をなくすなんて、そんなことが考えられるだろうか。そんなことが実現していれば、医療崩壊はもっと早く起こってしまったに違いない。(自分の地域の対象病院は検索を。)

 学校も「密」を避けよなどと言っているが、長年にわたって多くの人が「一クラスの生徒数を減らして欲しい」と要望してきた。教室に15人ぐらいならば、「密」にはならないし、自分で考える教育も、英語の「話す力」育成もずっとうまく行く。そして子どもが減っているんだから、教室は余っていた。しかし、教員数を増やすのではなく、学校を減らすことを行政は選んできた。東京の例で言うと、2019年に小学校が1331校、中学校が804校、高校が429校ある。(他に中等教育学校=中高一貫校、義務教育学校=小中一貫校があるが数字は略。)20年さかのぼって、1999年を調べてみると、小学校が1446校、中学校が848校、高校が458校あったのである。こういう行政を続けるのかを人々が問われるのだと思う。
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「供述弱者」の問題ー滋賀・呼吸器事件の再審無罪判決

2020年04月05日 22時50分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2020年3月31日に大津地裁で行われた「滋賀・呼吸器事件」の再審無罪判決はとても素晴らしい判決だった。非常に重大な問題を提出しているので、考えておかないといけない。最近は新型コロナウイルスが緊急で他の問題に気が回らないのだが、これは忘れないうちに書いておきたい。
(再審無罪判決を喜ぶ人々)
 この事件は名前もまだ確定していない。僕も「湖東病院事件」と書いたことがあるが、別に病院が事件を起こしたわけではない。「事件性」がない自然死と考えられるケースで無理やり犯人を作ったのだから、「滋賀県警事件」とでも呼ぶべきかもしれない。昔は「犯人の名前」を付けることが多かった。無実であって犯人じゃないのに、今でも「免田事件」「袴田事件」と呼ばれる。それはおかしいので、地名や事件内容で呼ぶことが多くなった。救援運動をした国民救援会では「湖東記念病院人工呼吸器事件」と言ってるが長すぎる。マスコミでは「滋賀・呼吸器事件」と表記することが多いようだ。

 この事件の持つ重大な意味に関しては、弁護団長井戸謙一氏の朝日新聞インタビュー「無実の罪、晴れてなおが詳しい。有料記事だがリンクを貼っておく。井戸さんは金沢地裁裁判長時代に、志賀原発運転差し止め住民基本台帳ネットワーク違憲判決などを出したことで知られる。2011年に退官して、滋賀県彦根で弁護士となった。しかし、最初に依頼されたときは「断りたい」と思ったという。「外形的事実」を見ると「とても再審請求が通るとは思えませんでした」という。

 この事件は再審開始決定まで僕は全く知らなかった。東京ではほとんど知られていないし、支援運動が活発だったわけでもない。その中を最後まで頑張った元被告(再審請求人)と弁護団の苦労に敬意を表したい。再審事件の判決でも、時には「グレーの無罪」的な言い渡しがないではない。しかし、今回は「真っ白」の判決である。判決言い渡し後に、裁判長は「この事件は日本の刑事司法を変えていく大きな原動力になるでしょう。すべての刑事司法関係者がこの事件を自分のこととして受け止め、改善に取り組まなければいけません」と述べた。その言葉は非常に重いものがある。
(判決後の再審請求人)
 今回の判決の最大の意義は「自白の任意性の否定」にある。憲法には「自白」のみで有罪には出来ないとある。「自白」も本来証拠にできる場合は限られているが、「任意性」「信用性」の条件を満たす場合に認められることがある。多くの無罪事件では、鑑定などで「信用性」に疑いありとして「自白調書」の証拠価値を否定することが多い。それでも「任意性」(被告人が自ら進んで供述したか)を否定することは少なかった。「任意性」を否定してしまうと、捜査実務の大きな影響を与えるからだろう。でもなんで人がわざわざ「ウソの自白」をするんだろう。

 判決要旨から引用すると、「自白供述の任意性は、人権侵害や捜査手続きの違法性などを総合考慮して判断するのが妥当だ。捜査機関側の事情のみならず、供述者側の年齢や精神障害の有無も考慮しつつ判断すべきだ。取り調べをした警察官は被告の迎合的な供述態度や自らに対する恋愛感情などを熟知しつつ、これを利用して供述をコントロールしようとする意図の下、長時間の取り調べを重ねた。被告に対し強い影響力を独占的に行使し得る立場を確立し、捜査情報と整合的な自白供述を引き出そうと誘導するなどした。」

 「知的障害や愛着障害などから迎合的な供述をする傾向が顕著である被告に誘導的な取り調べを行うことは、虚偽供述を誘発する恐れが高く不当だった。諸事情を総合すると、自白供述は自発的になされたものではない。防御権の侵害や捜査手続きの不当によって誘発された疑いが強く、「任意にされたものでない強い疑いがある」と言うべきであるから証拠排除する。」

 この判断は画期的なもので、単に刑事事件捜査に止まらない影響力を持つと思う。一言で言えば「供述弱者」への配慮を認めたものだ。知的、精神的障害を持つ人が刑事事件に(加害者であれ、被害者であれ)巻き込まれることは多い。その時に強大な権限を持つ捜査官に囲まれると、正しい判断が難しくなることもある。これは「取り調べに対する弁護士の同席」が絶対に必要だということである。ゴーン事件で改めて日本の司法の異常性が注目されている。これは絶対に必要なことだと強調しておきたい。

 刑事司法に止まらず、「強大な立場」に向き合うとき、「障害を抱えた弱者」がどのような振る舞いを見せるか。教育や福祉の現場でも、似たようなことが起こりうる。というか、現にたくさん起きている。一見すると「虚言癖」のように思える生徒に振り回されたことは多くの教師にあるだろう。その場その場で、愛着を覚えた対象に都合のいいように言い分を変えるような人は珍しくない。軽度の発達障害などは思ったより多く、企業などでも「パワハラ」「セクハラ」の対象になりやすい。この判決の重大な意義はそういうところでも意味を持つと思う。

 また、再審公判で検察側は立証を放棄したが、それは警察の持っていた未開示資料の中に「そもそも事件性がなかった可能性」を示す資料があったからだ。これは改めて「証拠開示」の重要性を示している。それも単に刑事裁判だけでなく、より一般的に「不利な情報でも公開する」という「情報公開」の問題として考えるべきだろう。捜査資料は「公文書」であるから、本来国民全体のものである。有罪立証に不利だから隠しておくなどとんでもないことだ。
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「世帯」か、「個人」かー新型コロナウイルスの緊急経済対策

2020年04月04日 22時47分01秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルスに関する緊急経済対策の骨子が4月3日にまとまった。「政府は3日、新型コロナウイルスの感染拡大により収入が減った世帯などへの現金給付の枠組みを決めた。給付額は1世帯あたり30万円とする。減収後の月収が一定の基準を下回る世帯に対象を絞り、高額所得者への給付は見送る。希望する人が市町村に自己申告して受け取る。」(日経新聞)

 これは大きく報道されたので、知ってる人が多いだろう。決まった経緯に関しては、以下の通り。「安倍晋三首相は同日、首相官邸で自民党の岸田文雄政調会長と会談し、1世帯あたり30万円とする意向を伝えた。岸田氏は会談後、記者団に「1世帯30万円で首相と認識が一致し、了解をいただいた」と述べた。(日経新聞)事前には20万といった観測を流しておいて、首相が上積みを決定し、党の政調会長を立てた形で公表するというシナリオだと思われる。

 なお、夫婦二人世帯には減額し、子どもが多いと増額する仕組みになるらしい。在住外国人にも支給される。ただし「減収世帯」に限られるので、誰でも貰えると誤解していると失望することになる。それはともかく、ここで問題にしたいのは「各世帯」ごとに給付するというやり方についてである。「公明党は3月末の提言で、「家計に深刻な影響を生じている方々」に「1人10万円」の給付を求めていた。同党の石田祝稔政調会長は3日の記者会見で、30万円の給付額について「1世帯あたりの人数は大体2・27人。3人世帯なら30万円と計算がピタリと合う」と容認する考えを示した。」(朝日新聞)
(4月2日の政府与野党連絡協議会 中央は西村明宏官房副長官)
 ところで、政府・自民党で決定する前日に「政府・与野党連絡協議会」が開かれた。「家計支援や倒産・失業防止に向け、立憲民主党などの野党共同会派は、全国民に1人当たり10万円以上、総額十数兆円規模を現金で支給するよう提言。「給付金は課税対象とすることなどにより、実質的に高額所得者への給付金減額を行う」とした。」(時事通信)なお、この協議会には、政府側からは西村官房副長官、自民党は田村憲久政調副会長が出ていた。トップの責任者は野党と会わないのである。

 さて、以上は事実関係の確認である。報道を見る限り、公明党と「野党共同会派」(立憲民主党、国民民主党、社会民主党および無所属議員)は「一人当たり」の支給を求めている。それに対し、自民党が「世帯支給」で押し切ったことが判明する。公明党は「計算が合う」と容認するという。しかし、僕が書きたいのは「お金の問題」ではなく、「思想の問題」である。世界にそんな支給方法を取る国はないだろう。「世帯」なんていうカテゴリーで国民を把握している国自体がないと思う。もちろん、どこの国だって「家族」で住んでいるわけだが個人で「住民登録」するだけだと思う。

 さすが自民党は「改憲案」に「家族条項」なるものを入れただけのことがある。その条項というのは、憲法24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と書き込むというものだ。憲法に「互いに助け合わなければならない」なんて、道徳の教科書みたいなことを書くのか。だから「立憲主義を理解していない」と判るのである。それにしても、なんで今どき「個人」じゃなくて、「世帯」なんだろうか。支給方法だけ取っても、個人に支給する方がずっと簡単だ。頭の中に今も「家族制度」が存在しているのだろう。

 これじゃあ、いろんなことが現実社会とずれてくるはずである。「選択的夫婦別姓」や「同性婚」などの問題意識を持つことが出来ないのも当然だろう。いろんな人がこの政策について語っているが、「世帯支給」に固執した自民党の「思想的背景」に触れているものが少ない。人は個人で「納税」している。「世帯ごとの納税」ではない。税金のペイバックも個人に対して行うというのが当然ではないか。お金の多寡以上に、自民党に彷徨っている「家制度」の亡霊が気になる。
(現金給付のポイント)
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都市の病としてのパンデミックー新型コロナウイルスと人口密度

2020年04月03日 23時10分21秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 小池都知事が示して以来「三密」がすっかり「流行語」になった。「密閉」「密集」「密接」が重なる空間を避ける必要があるという。その必要性は間違いないだろうが、「密接」や「密閉」はともかく、「密集」を避けるのは都市生活ではなかなか難しい。それこそ「ポツンと一軒家」にでも住んでない限り。農業なら「社会的距離」を取りやすいが、工場は大量生産するために労働者を「密集」させて「密接」に働かせる。都市そのものの成立条件が「密接」なのである。
(「三密」を避ける)
 そこで武漢のケースを再検討してみる。確かに「中国政治」や「中国の医療状況」に問題はあるだろう。だけど、「爆発的流行」が発生するための条件として、「人口密度」を調べてみる。ウィキペディアによると、武漢全市域だと郊外を含むので「市区人口」(858万)を見てみる。そうすると、15,170人/km²になっている。1平方キロメートル当たり1万5千人程度である。

 その他、感染が広がる世界の大都市を見てみると、ミラノ7423.3人/km²マドリード5,225.14人/km²テヘラン10327.6人/km²、そしてニューヨーク10,630人/km²になっている。ヨーロッパは人口密度はそれほどでもないが、高齢化が進んでいる。一方、日本の場合を調べると、東京23区部は、総人口965万人、人口密度は15,382人/km²になっている。武漢市全域では1100万だが、市区は850万程度で、これは東京都全域対23区の人口とほぼ同じだ。この数字だけから見ると、東京区部には爆発的流行の可能性が高く存在するということになる。

 歴史的に見ると、中世ヨーロッパのペスト、日本の明治期のコレラなど、いずれも「劣悪な都市環境」の中で起こっている。そして「都市」の成立過程では、「王権」を支える「宗教装置」としての「神殿」が必須だった。ヨーロッパの大都市には壮麗なキリスト教会があるし、イスラム圏には大きなモスクがそびえる。日本でも権力者によって首都に広壮な大寺院が作られてきた。宗教の意味は「先進国」では薄れているかもしれないが、一部には熱狂的な宗教集団が現れる。日本ではオウム真理教事件以後、カルト宗教に警戒が強いが、韓国ではキリスト教系新宗教が多くウイルス感染が発生することになる。

 一方、「クルーズ船」は洋上の「天空の城ラピュタ」みたいな存在で、「動く都市」と言っていい。しかも「歓楽装置」にもなっている。宗教とともに、都市空間には「歓楽」が欠かせない。あるいは「悪所」と呼ぶべきかもしれない。人口が多く、匿名性の高い都市空間には、様々に楽しめる娯楽産業が成立する。酒場などがなければ都市とは呼べない。仕事だけあっても、人が住むには楽しめる空間が必要なのである。そこでは「密接」「密集」が起こってくる。もっと言えば「密会」「密通」などの人々の「秘密」も集まることになる。都市空間でパンデミックが起こるという歴史が判る。

 こうしてみると、中国の武漢が原発地だったとしても、密集した大都市空間ではどこでも広がりうるものだったと理解出来る。大都市でなくても、「都市空間的状況」の場所では広がる。そして、日本では高齢化率が高く、もともとガンや心臓病や肺炎などで、毎日毎日多くの人が亡くなっている。新型コロナウイルスも大変だが、他の病も起こっている。大都市部には高齢貧困層が集住しているので、もともとが医療体制はギリギリだと想像出来る。医療崩壊が日本でも起こりうるという想定をしておく必要がある。また人口密度で見てみると、インドやバングラデシュ、インドネシアなどの大都市が高い。アフリカでもキンシャサやダカールなど密集都市が多い。世界には心配な都市が多い。
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学校再開延期と教員「テレワーク」の必要性

2020年04月01日 23時36分35秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 4月1日は東京の教員異動が発表になる日である。最近は都教委のホームページにも公表されているが、長らく校長以外の人事異動は東京新聞の別刷り特集を見るしかなかった。わざわざ新聞販売店にもらいに行った時もあるが、その後東京新聞を取ることにした。定時制に勤務していた時は、東京新聞販売店でアルバイトしている生徒がいて、余った分を持ってきて貰ったのも懐かしい思い出だ。一応入ってくるから異動特集を毎年チェックはするが、年々知人が少なくなる。それは当たり前で、自分より年長の教員は誰も載っていないのである。自分が勤務した時にリーダーシップを取っていた年長の教員たちは、とっくに定年になっている。当たり前なんだけど、時々驚いてしまう。

 それはさておき、東京都教委は4月からの学校再開を諦めて、5月の連休明けに延期することにした。正直言って「だから言ったじゃないか」である。多くの人はこうなると思っていただろう。

 3月25日に僕はこう書いた。「安倍政権が「無意味に全校休校」としたものが、先週になって「4月からの学校再開」を言い出したことは、国民をミスリードするものだったと僕は思っている。「地域によっては、入学式だけやって、授業再開は5月から」と言うべきだったのではないか。」 
 3月29日には「本当に学校は再開できるのだろうか。都教委は「都立学校版 感染症予防ガイドライン(新型コロナウイルス感染症)」を発表し、とても実行できるとは思えないような対応を学校に求めている。」と書いた。

 都教委がガイドラインを決定したのは、3月26日の定例会である。ところが4月1日当日になって、突然午後5時45分から「臨時会」を開くという告示がホームページに載った。そして、そこで教育委員が急きょ集まって事務局案を追認したんだろう。しかしながら、ここまでの増加は予想しなかったとしても、26日時点でも感染者が途切れく増えていることは心配されていた。今後のことを「最悪の場合」も予想し、第二案を示しておくのは、当然の責務だ。

 都教委の場当たり的対応は、児童生徒、保護者、教員など現場関係者を混乱させただけだろう。そして、その混乱を都教委が謝罪することはない。今まで何度も「おバカ事態」が起こっているが、一度も謝罪なんかしなかった。都教委が下した処分が裁判所で否定されても、蛙の面になんとかだ。教員じゃなくなっても、都民の一人として、この無責任ぶりに呆れてしまう。今回は非常に多くの人に示した方針が一週間も経たずに根本的に否定された。学校が再開されると期待させた子どもたちに「ごめんなさい」と謝らないのか
(1日の都教委臨時会)
 ところで、今までの「学校休校」は、学年末だったこともあり、教員は勤務を継続して成績処理や卒業式準備などに当たることを前提にしていたと思う。しかし、それは本来の「一斉休校」とは言えない。本来は教職員も含めて学校全体を閉鎖しないといけない。それが「一斉休校」が社会で意味を持つ前提だと思う。このままでは、教職員が感染した場合、5月に再開することも難しくなる。そして教職員の感染リスクも非常に高くなっていると考えられる。

 理由は幾つもあるが、最大のものは「異動・退職の時期」だったということだ。職場の歓送迎会は今年はほとんど見送られただろう。しかし、個人的にお世話になった関係、一緒に飲食に行った関係にある教員が退職、異動するとなると、仲間内の送別会をした例がないとは思えない。多くの教員でなくても、東京や大阪では飲みに行ったりした教員がゼロとは僕には想定できない。

 また学校には外国人の生徒も多くなっているし、主に米国から来る英語の指導助手など外国人職員もいる。3学期は一年の終わりで、卒業式、修了式で「気が抜ける」こともある。強いストレスにさらされていた期間が、「春休み」に緩んで風邪をひくことはよくある。教員もブラック職場と言われつつ、けっこうアクティブな人が多くいる。地域でスポーツ、文化活動をしている人も多い。春に海外旅行を計画することはほとんどないが、海外帰りの友人と会うことは多い。海外の外国人学校に赴任していて帰ってくる教員もいる。そんなこんなをまとめれば、教員の感染リスクは高くなっている。

 今は「教員の感染」があることを前提にして、それを見越した態勢を作っておくことだと思う。そのためには「教員のテレワーク」が必要だ。40代以下の教員はほとんど経験してないかもしれないが、昔の夏休みの「自宅研修」でいいんじゃないか。毎日出ないということじゃない。管理職は交替で、教員は学年内で輪番を決め、事務職員も交替勤務とする。家で教材プリントなどを作成し、学校のホームページに掲載するなど、いろいろ出来るはずだと思う。「通信教育」の学校は現実にあるんだから、この際全国の中高はしばらく「通信教育」でもいいんじゃないかと思う。
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