尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

磯崎新、渡辺京二、矢崎泰久、藤井旭他ー2022年12月の訃報②

2023年01月08日 19時43分56秒 | 追悼
 2022年12月の訃報、日本人編。映画監督の吉田喜重を別に書いた。他の人では、俳優・歌手などの芸能関係者がかなり多かったので次に回したい。今回は主に芸術、学問などに関わって「本を書いた人」を取り上げる。まず建築家の磯崎新(いそざき・あらた)。12月28日に死去、91歳。名前はずいぶん前から聞いていたが、建築のことはよく知らなかった。訃報を聞いてから、こういう人だったのかと深く感じるところがあった。建築のノーベル賞と言われるプリツカー賞を2019年に受賞したが、磯崎は79年の賞設立から10年ほどは審査側にいたため受賞が遅れたと言われる。下の画像は受賞時に共同設計した施設の前で。
(磯崎新、背景はトリノのパラアイスホッケー施設)
 磯崎新は70年代以降の「ポストモダン」と呼ばれた動きの中心にいた。1983年の「つくばセンタービル」がポストモダン建築の代表作と言われる。そういう知識も今回知ったことだけど、80年代以降の東京では都庁舎を初め、東京芸術劇場、江戸東京博物館、現代美術館、国際フォーラムなど巨大施設が次々と作られた。磯崎はこれらの建築を批判していたのである。お城のような都庁(91年完工)は師にあたる丹下健三の後期代表作と言われるが、磯崎はあえて低層の都庁舎プランで86年のコンペに臨んだという。発注元の東京都が「首都のランドマークとなる高層ビル」を求めていたので、落選覚悟の思想的行動である。「権力の象徴」みたいな高層を嫌い、4棟建てのビルの中に市民が自由に出入りできる巨大広場を作るという設計だったという。
(つくばセンタービル)
 大分生まれで、早く父母を失ったが、苦労して東大に進んで丹下健三に学んだ。1963年に丹下健三研究室を辞め独立。初期作品には九州の建築が多い。「大分県立大分図書館(現アートプラザ)」「北九州市立図書館」「北九州市立美術館」などである。その後、国内、世界各地に多くの作品が残されている。自分が見ているのは、「利賀山房」「利賀村野外劇場」「東京グローブ座」「水戸芸術館」などである。著書に『建築の解体』『建築家探し』など多数。『磯崎新建築評論集』全8巻(岩波)にまとめられている。岩波書店から84年に創刊された雑誌「へるめす」の編集同人は、磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男だったが、これで大江以外は皆物故したことになる。時間の流れを感じる。
(北九州市立美術館 本館・アネックス)
 思想史家の渡辺京二が12月25日に死去、92歳。熊本で65年に雑誌「熊本風土記」を創刊、後に石牟礼道子の『苦界浄土』の原稿を掲載した。石牟礼の要請で「水俣病を告発する会」を結成して患者を支援した。石牟礼道子の文学的同志として最後まで支えたことで知られる。その間、98年に『逝きし日の面影』(和辻哲郎賞)で近代日本を江戸時代の目から相対化した。この本が評判になって、21世紀に出した『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(大佛次郎賞)、『バテレンの世紀』(読売文学賞)など大きく評価されるようになった。僕は持っているけど、それらは読んでいない。むしろ70年代に出た『小さきものの死 渡辺京二評論集』(1975)、『評伝 宮崎滔天』(1976)、『神風連とその時代』(1977)、『北一輝』(1978)などが刺激的で再評価が必要だろう。いずれも「近代」を問い直す志を持った書で、初志を一貫させたのではないかと思う。
(渡辺京二)
 元「話の特集」編集者の矢崎泰久(やざき・やすひさ)が12月30日に死去、89歳。80年代には非常に有名人だったけれど、「話の特集」が95年に休刊しているからか小さな訃報だった。65年に発刊した「話の特集」は和田誠、永六輔、伊丹十三など各方面の多彩な才能を集めた自由な雑誌作りが評判になった。これらの人がエッセイストとして評価を得たのは、この雑誌の存在が大きかった。70年代後半には「革新」陣営に一石を投じる「革新自由連合」を設立した。中山千夏が参議院議員に当選(80年)したときは、公設秘書を務めた。様々な集会などで何度も話を聞いているが、晩年は恵まれなかったらしい。著書に『編集後記』『「話の特集」と仲間たち』など多数。永六輔、中山千夏との共著も数多い。
(矢崎泰久)
 天体写真家として世界的に知られた藤井旭(ふじい・あきら)が12月28日に死去、81歳。アマチュアの天体写真家として20代から世界的に知られた存在で、400冊にもなる著書で天体観測の楽しさを広めた。1969年に私設の天文台「白河天体観測所」を開設、所長には愛犬のチロが就任した。チロは81年に死に84年に刊行した著書『星になったチロ』は、課題図書に選ばれるなど大きな反響を呼んだ。天文台は東日本大震災と原発事故の被害により2011年に閉鎖された。2019年度日本天文学会天文教育普及賞。そう言えば、昔から藤井旭と名の付いた本をいっぱい見た記憶が蘇ったが、天文学者なんだと思い込んでいた。
(藤井旭)(『星になったチロ』)
 歌人、短歌史研究で知られた篠弘が12月12日に死去、89歳。短歌結社「まひる野」代表で、元日本文芸家協会理事長、現代歌人協会理事長、日本現代詩歌文学館長(岩手県北上市)なども務めた。と言っても、僕は短歌界には暗く名前を聞いても特にイメージが湧かない。短歌では多くの賞を受賞しているが、それと同時に短歌の歴史研究でも知られたという。2020年の『戦争と歌人たち ここも抵抗があった』が注目された。ところでこの人の本職は小学館で百科事典を編集したことだった。『ジャポニカ』シリーズで大いに当てて取締役に就任した。
(篠弘)
樋口覚、11月24日没、74歳。文芸評論家、歌人。05年『書物合戦』で芸術選奨文部科学大臣賞。
岳宏一郎、1日没、84歳。歴史小説家、作品に『群雲、関ケ原へ』など。
岩成達也、9日没、89歳。詩人。『フレベヴリィ・ヒツポポウタムスの唄』で高見順賞など。大和銀行常務も務めた。
北博昭、23日没、80歳。現代史研究家。二・二六事件の史料発掘に務めたことで知られる。著書に『二・二六事件全検証』など。
鈴木嘉吉、16日没、93歳。元奈良文化財研究所長。平城宮跡の大極殿、朱雀門、薬師寺東塔などの再建、解体修理などの指導にあたった。
篠田浩一郎、25日没、94歳。フランス文学者、東京外大名誉教授。当初は19世紀フランス文学を専門としたが、やがてロラン・バルトなどの影響を取り入れ、記号論などを駆使した文学評論を行った。一般書も多く翻訳も数多い。著書に『中世への旅 歴史の深層をたずねて』、『空間のコスモロジー』、『小説はいかに書かれたか 『破戒』から『死霊』まで』(岩波新書:、『都市の記号論』、『ロラン・バルト 世界の解読』など多数。翻訳には ポール・ニザン『アデン・アラビア』、ミシュレ『魔女』、ロラン・バルト『サド、フーリエ、ロヨラ』など。60年代後半から80年代にかけて思想的にも大きな影響を与えた。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペレ、ベネディクト16世、バーバラ・ウォルターズ他ー2022年12月の訃報①

2023年01月06日 22時52分22秒 | 追悼
 2022年12月の訃報。最初に外国人の訃報を書きたい。外国人の訃報は没後すぐに報道されることが多いので、日本人を後にする方がよい。非常に有名な人物の訃報がないなと思っていたら、月末に相次いだ。以下、29日以後の訃報が続く。まず「サッカーの王様ペレ。29日死去、82歳。日本でも非常に大きく報道されたが、ブラジルでは3日の服喪期間が発表された。本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメントで、ペレは愛称。父もサッカー選手で、父の所属チームのゴールキーパー、「ビレ」の大ファンだったが、幼児期にビレと発音出来ずに「ペレ」と呼ばれるようになったという。15歳でプロデビュー、通算1363試合に出場して1281得点。ブラジル代表のエースとして、ワールドカップで3回優勝、クラブ選手権でも2度の世界一となった。

 まあペレがいかに素晴らしい選手だったかは、様々な情報をすぐに得られるのでこれ以上は書かない。そんな素晴らしい選手だったら、現役時代の活躍を見ただろうと思うかもしれないが、ワールドカップ優勝時(58、62、70)は時代的に知らない。それに90年代以前はワールドカップのテレビ中継はほとんどなかった。日本チームも出場してなかったし、野球の大リーグもやってない。オリンピックだけしか外国のスポーツ大会の中継はなかったのである。しかし、日本でも引退試合が行われ、それを見に行ったという人もいたので驚いた。人格高潔で、単なるスポーツ選手を超えた影響力を持った人である。ところで案外報道されていないのは、ミステリー小説も書いたこと。『ワールドカップ殺人事件』は創元推理文庫から翻訳されている。なかなか面白いので、是非一読を。
(ペレ)
 前ローマ教皇ベネディクト16世が31日に死去、96歳。本名はヨーゼフ・ラッツィンガーというドイツ人で、保守的な神学者として知られていた。1981年に教理省長官となり、教皇就任までその地位にあって教皇庁を実質的に取り仕切っていた。2005年、ヨハネ・パウロ2世の死去後に教皇に選出されたが、その時すでに78歳という高齢だった。ドイツ人の教皇は約950年ぶりだった。教皇としては世俗化に対抗する保守化路線を維持した。2015年に高齢を理由に在位中の退位を発表した。これは約600年ぶりの出来事。カトリック教会による児童への性的虐待事件に関しては、隠ぺいしてきたとの強い批判を浴びた。
(ベネディクト16世)
 アメリカで初めて女性のテレビ司会者となったバーバラ・ウォルターズが30日死去、93歳。1974年にNBCの朝のニュース番組『トゥデイ』の司会者となった。1962年から番組に関わり、一部のコーナーのプロデューサーなどを担当した。出演者が欠席した時に自分で出演するようになり、やがて人気を得るようになった。1976年には『ABCイヴニング・ニュース』で女性初のアンカーとなり、2014年まで務めた。女性が深刻な政治、経済ニュースを議論すると思われていなかった時代に、時代を切り開いた人である。番組では有名人物へのインタビューで知られ、キューバのカストロ首相と自由に関して議論を交わした。1999年のモニカ・ルインスキー(クリントン大統領の性的スキャンダルの告発者)のインタビューは7400万人が視聴したと言われる。
(バーバラ・ウォルターズ)
 イギリスのファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッドが29日死去、81歳。70年代にパンクやニューウェーブの先駆的ファッションで知られた。店の常連だったロックバンド「セックス・ピストルズ」のプロデューサーとして活躍し「パンクの女王」と呼ばれた。政治的活動でも知られ、気候変動、核軍縮、公民権運動などを支持した。しかし、ファッションと環境保護活動が矛盾するなどと批判もされてきたらしい。2006年に英女王からデイムの称号を与えられた。
(ヴィヴィアン・ウエストウッド)
 フランスの女優ミレーヌ・ドモンジョ(Mylène Demongeot)が1日死去、87歳。17歳で出演した1957年の『サレムの魔女』で注目され、以後『悲しみよこんにちは』『黙って抱いて』『アイドルを探せ』など50年代後半から60年代前半にアイドル女優として活躍した。日本映画『ヨーロッパ特急』『東京タワー』にも出演している。
(ミレーヌ・ドモンジョ)
エドゥアルド・アルテミエフ、29日死去、85歳。ロシアの作曲家。タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』『』『ストーカー』の映画音楽で知られた。1980年のモスクワ五輪のテーマ曲も作曲した。シンセサイザーを使ってソ連の電子音楽の祖と言われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIなき社会ーもはや元に戻らないものごと

2023年01月05日 22時32分49秒 | 社会(世の中の出来事)
 「AIなき社会」。これは「artificial intelligence」(人工知能)について考えようという記事ではない。2022年という年は、安倍晋三石原慎太郎の二人がともに亡くなった年だった。そのことはどのような意味を持つのだろうか。「世界」全体に対してではない。自分の「人生」にとってである。

 この二人は、僕のいわば「仮想敵」というか、本人を直接知っているわけではないけど、自分の人生に大きく関わってきた政治家だった。簡単に言ってしまえば、安倍晋三は「歴史修正主義」の象徴的政治家であり、第一次政権の時に「教員免許更新制」を法制化した政治家でもあった。石原慎太郎は自民党議員だったときは、僕には単に保守派(青嵐会)の政治家というだけだったけど、引退後の1999年になって突然東京都知事に立候補した。そしてわずか30%ほどの歴代当選者の最低得票率で当選してしまった。

 当選後の様々な出来事はかつて各都知事を論じた時に書いたけれど、僕にとって意味があるのは教育行政である。現在は制度的に知事が直接教育にタッチすることは少ないが、「教育委員」の選任を通して「権力的教育行政」を推し進めた。米長邦雄(棋士)のように世の中で超保守派として知られた人ばかりを寄りによって教育委員にした。米長氏は園遊会に招かれ、天皇(当時)に対し「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と述べたぐらいである。(天皇は「強制になるということでないことが望ましいですね」と返した。)まあ有名なエピソードだけど。

 12月28日に地元山口県の安倍事務所が閉鎖されたというニュースがあった。それは安倍家の後継政治家がいない以上、いずれ来たるべきことだというしかない。それでも「やはり時間は不可逆」なんだなという思いがする。一度起こったことは、もう元に戻せない。安倍元首相の暗殺事件は、国葬旧統一協会問題と思わぬ形で波紋が広がったまま、どうにも心の中で整理がつかないまま越年した気がする。とりあえず、「悪法」教員免許更新制は2022年に廃止された。
(地元の安倍事務所閉鎖=12月28日)
 廃止までの11年間は長かったのか、短かかったのか。しかし、そのこと以上に問題なのは、更新制廃止が教員組合など教育界の力によって廃止されたわけではなかったことだ。どうにも現場がもたなくなってから、保守勢力の内部調整でなし崩しに廃止された。しかし、一度「教員」という仕事の意義を国家的に失わせた以上、もう元に戻らないものがあるだろう。それは石原都政下で進行した「東京の教育」を見ても理解出来る。石原都知事が辞任してから、すでに10年も経つ。しかし、石原都政の下で行われた「教育改革」は何の変化もなかった。都知事自体が多分二度と「リベラル系」候補が当選することはないだろう。
(石原慎太郎「お別れの会」=6月9日)
 東京で行われた大規模な「公立中高一貫校」は完全に全国に広がった。また教員の階層化競争的人事政策なども、まだ多少緩やかな地方もあるようだが、基本的には全国化しつつあるだろう。そしてそれに対する教員組合や市民運動などの抵抗運動は、あるにはあるけれど世論を揺るがすほどの大きなものにはなっていない。今後もならないだろう。20年も続いてしまえば、それはもはや「伝統」である。教員自身も批判的意識を持たなくなり、それが当たり前と思うようになる。

 一度壊れてしまえば、もう元に戻らないのである。多くのことがそうなってしまった。80年代の中曽根内閣から進められた「民営化」「臨教審」などは不可逆になってしまったと思う。例えば、今から「派遣社員」という制度を無くせるだろうか。「派遣」制度が法的になかった時代にも、季節労働者やパート従業員は存在した。各会社が自分で募集して、ある意味ではもっと待遇が悪かったのである。だから「派遣」が良いというのではない。「世界」全体が変わった中で、日本も変わったわけで、それが冷戦終結後に起こってきたことだった。

 困るのは自分がそういう流れに乗れないことである。乗りたくないから拒否して生きていける範囲はどのくらいだろうか。どんどん狭まっている気がするが。世の片隅で小さく自分の世界を守っていければ、それでもう良しとするしかないと覚悟している。それでも大塩平八郎の本を読んだりすると、このような偏屈で狷介(けんかい=頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと)な生き方は窮屈だな、自分はそうなりたくないなと思う。でも、世の中の方から踏み込んでくる時、どうしても最初に「抵抗」してしまうのである。困った未来が見えてくるようで怖いんだけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中公新書『大塩平八郎の乱』を読む

2023年01月03日 22時29分07秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書12月新刊の藪田貫(やぶた・ゆたか)『大塩平八郎の乱』をさっそく読んでみた。あまりにも詳しくて、多くの人になかなか勧めづらい本だったけど、歴史をきちんと考えたい人は頑張る価値がある。自分でも驚いたのだが、大塩平八郎の乱が何年に起きたのか、もう忘れていた。1837年(天保8年)に大坂で起きて、一日も持たずに鎮圧された。もちろん天保時代に起きたことは覚えているけど、考えてみれば詳細はもともとほとんど知らず、授業でも通り一遍のことしか教えてなかった。大坂の事件だから、土地勘がないのである。それにもともとこの事件は乱そのものより、その影響の方に大きな意義があった。

 大塩平八郎(1793~1837)は「大坂町奉行所元与力」であり、「陽明学者」である。それが教科書に出て来る大塩の公式的「肩書き」になる。この「与力」(よりき)というのが判らなかった。どのくらいエラい役職なのだろうか。武士には違いないが、大坂城を守る役職ではない。町奉行所なので、要するに町奉行の下で捜査、裁判にあたる。三権分立じゃないから、大阪府警と大阪地裁の幹部職員レベルだろうか。偉いといえば偉いけど、悪人相手の仕事に飽きていたのも確からしい。
 
 当時の有名な文人、賴山陽(らい・さんよう)が師にあたる儒学者菅茶山の杖を道中でなくした時、大塩が直ちに捜索して見つけ出したというエピソードが出て来る。盗賊方を務め配下の手下もいるから、遺失物を見つけ出すぐらいすぐ出来たのである。大塩には自ら「三大功績」と呼ぶ「業績」があり、それは今から見ればどうかと思うのもあるが大坂市民にも知られた名前だったらしい。しかし狷介な人柄もあって、上司ともいろいろあった。この本には近年明らかになった史料がふんだんに使われていて、ずいぶん当時の奉行所や与力社会の内情が明らかにされている。
(大塩平八郎の肖像画)
 大塩には有名な肖像画があり教科書にもよく出ている。これは江戸後期の知られた画家菊池容斎という人が描いたもので、どういう経緯で描かれたのか不明だという。画家富岡鉄斎旧蔵のものだが、東北大学図書館で「最近原本が見つかった」という。これを見ると、いかにも学問に厳しい文人風である。1824年に独学で修めた陽明学を教える洗心洞を開いた。そして1830年には与力職を養子に譲って隠居した。といっても大塩はただの学者ではない。当時の儒学の総本山である江戸の林家に接近し、経済難に際して1000両もの大金を融通している。独自の人脈、金脈を持っていたのである。そして水戸藩にも接触していた。

 そんな大塩が何故武装蜂起に至ったのか。「百姓一揆」も一種の様式化されたもので、江戸時代には武装闘争など誰の頭の中にもなかっただろう。まさに島原の乱(1637年)以来、200年目の大反乱であり、大坂で市街戦が行われたのは大坂夏の陣以来である。そこへ至るには大きな心理的ステップがあったはずである。それは著者にも完全には不明だが、恐らく当時の「天保の飢饉」が背景にあっただろうとする。単に困っている人がいるというレベルの問題ではなく、儒学には「国家の指導者が間違っているので、天が代わって罰を与える」、つまり「天譴論」的な考えがある。そして陽明学だから「知行合一」である。
(大塩平八郎の乱を描いた当時の画像)
 ただそのようなタテマエだけではなく、実際には当時の大坂政界の動きと密接に絡んだ「私怨」もあった。特に大坂東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)を襲撃するという明確な目的があって、奉行の巡行が予定されていた2月19日早朝に決起することになった。跡部は旗本ではあるが、実は唐津藩主水野忠光の6男で、時の老中水野忠邦の実弟だった。大塩の乱は単なる大坂での暴発に止まらず、幕閣中枢を指弾するものだった。大塩は飢饉中に大坂から米を江戸に送ろうとする幕府の方針を批判していた。そして様々ないきさつから、今までの奉行との関係も悪くなっていたのである。

 しかし乱そのものはあっという間に終わってしまう。昔の保元の乱平治の乱、あるいは昭和の二・二六事件などより、ずっと小さかった。砲を借りだして実際に町中に発射し大火事となったので、本来救うべき対象の町民に大きな犠牲が出た。奉行所関係者に死者はなかったのに対し、火事による町民の犠牲者270人以上、大坂の5分の1を焼き7万人が焼け出されたという。参加者は洗心胴門人の他に関係する村々から動員されたものを合わせて総勢300人を越えなかった。本当は被差別民の動員を計画していたらしいが、そのことをどう考えるべきか。やはり大塩は「支配者」の側であり、支配者内部の矛盾だったというべきか。

 大塩は反乱終結後も40日余り潜伏して逃げ延びた。昔はその理由が判明していなかったが、近年になって大塩は決起前日に江戸に建議書を送っていたことが判った。それは中身にお金があると思われて、飛脚に開けられて箱根で捨てられた。それが見つかって、伊豆代官の江川英龍に届けられ書き写された。それが発見されたのである。大塩は江戸に送った建議書が取り上げられ、返事が来ることに期待を掛けていたのである。それは甘い幻想だったが、単なる武力放棄に止まらない政界工作も志向していたのである。
(渡辺崋山「鷹見泉石像」=国宝)
 興味深いエピソードは多いが、当時の鎮圧側の総責任者というべきは、大坂城代の土井利位(どい・としつら)だった。古河藩主で後の老中、というよりも雪の結晶を研究した「雪の殿様」として有名な人である。そして家老として土井に仕えた鷹見泉石も大坂にいた。有名な渡辺崋山の「鷹見泉石像」で知られる。この絵は描かれた時代が一番新しい絵の国宝に指定されている。絵の中で鷹見が持っている脇差しは大塩の乱鎮圧の功に対して土井から拝領したものなのだという。

 大塩平八郎の乱はすぐに終わったし、乱そのものはむしろ傍迷惑なものだった。「救民」を掲げて、かえって多くの難民を生んだ。だが焼け出された市民の中にも、大塩を崇める声が高かったという。この後、同様な小規模の乱が相次ぐが、大塩の影響だろう。そういうこと(権力機関襲撃)が出来るんだというモデルケースになった。日本においては、この乱がバスティーユ監獄襲撃のようには広がらなかった。しかし、幕末の「世直し」運動の源流になったということは言える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする