尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「紛争」は何を遺したのかー『学生反乱』を読んで④

2023年05月11日 22時34分52秒 | 自分の話&日記
 『学生反乱』を読んで考えたことを4回も書くとは自分でも思わなかった。僕にとって経過を書くことではなく、その後に遺したものは何かということが大切なのである。ただ「仏文科人事問題」や「村松問題」は今では知らない人が多いだろうと思って、是非紹介したわけである。登場する人も多士済々で、戦後史の一コマとしても興味深い。

 さて、その後文学部のカリキュラムは全面撤回に追い込まれ、全学ストも決議された。そのまま夏休みになったが、秋になって最終解決に向けて動き出してゆく。学生の多くは本気で「革命」を考えているわけではない。一部セクト学生は別として、4年生の大部分は卒業、就職に困る事態は避けたい。一方、大学側も入試中止は絶対に不可である。国立の東大と違って、私学は受験料、入学金がなくなってしまったら経営破綻である。学生も全員がバリケードに立て籠もるわけではなく、授業がないならアルバイトに精を出すとか自宅でノンビリするものも当然いるのである。そういう事情が背景にあって、次第に解決の機運が高まっていく。

 文学部教授会は自らの課題を「現代社会における人間学の再創造」と位置づけ、学生対象のシンポジウムを開催した。カリキュラムも作り直し、新規登録を推進した。10月7日に総長の所信表明集会も開かれた。高橋秀氏はこの時、総長の脇に立ち続ける野口定男学生部長の姿を印象的に記録している。中国哲学が専門の野口氏(日本文学科教授)は、他大学の学生部長がどんどん変わる中、紛争期間の学生部長を務めきった。野口氏は野球部初め多くの体育部の監督をしていて、後に日米野球の立ち上げにも関わった。酒豪で知られ、立大卒業の歌手、高石ともやさんが懐かしそうに回顧する話を聞いたことがある。

 この間、機動隊が2回キャンパスを捜索に入ったが、大学が要請したものではなく抗議している。11月11日には文学部集会が開かれ、多くの学生が参加した。中にはメモを取る学生もいて、高橋氏は「今回は行けそうだ」と思ったという。そして12月15日の授業再開が告知された。最後まで封鎖されていた6号館は、1970年1月3日に「六号館封鎖解除教職員行動隊」により、解除された。一部学生は抵抗したが、対立セクトの襲撃と思ったらしい。4階の最後のバリケードを突破したのは法学部の高畠通敏氏と高橋秀氏だった。残っていた16人は、神島二郎法学部長が説諭したあと教職員の車で都合の良い駅に送ったという。(周囲には機動隊がいたようだが、警察には突き出さなかったのである。)
(封鎖解除直後の六号館)
 この時の「紛争」は文学部に何を遺したのだろうか。まずは「研究室」である。それまでは「一人一室の教員の個人研究室」と「『大研』とよばれている助手・副手のつとめる学科事務室」からなっていたという。それが改革により、「学生のための読書室」「事務室に代わる資料室」が設けられたという。いやあ、そうだったのかとビックリした。その後しか知らないから、大学はそんなものとしか思っていなかったけど、それは「改革の遺産」だったのである。この読書室には歴史系の学術雑誌が置かれていて自由に読めた。授業の合間などに皆よく利用していたし、僕も毎日のように顔を出したはずだ。

 また本書には書かれていないが、カリキュラム改革も進められた。もっとも「内示集会」が開かれたとあるが、それは記憶にない。ただ、「学科単位」ではない「全学科共通科目」が設けられていた。例えば、新一年生には「共通基礎購読」(確かそんな名前)が置かれ、全員が何かに所属して指定された本をめぐって教師と一緒に議論した。学科ごとではなく、他学科の教員や学生と一緒なのである。希望・調整の結果だと思うが、僕は日本教育史の寺崎昌男先生(教育学科)の講座で非常に大きな刺激を受けた。寺崎先生はその後東大に移籍したが、定年後に桜美林大学を経てもう一回立教学院本部に戻ってきたようである。

 また夏休みを利用して、4泊5日の宿泊合宿「集中合同講義」(たしかそんな名前)もあった。テーマが設けられ、それに沿って各学科、および他学部からも教員を呼び、合宿討論するのである。テーマをめぐって深い議論を交わすのも面白かったが、最大の眼目は普段なら接しないかもしれない他学科(学部)の教員に接したことである。また他学科の学生と知り合う機会でもあった。場所は八王子の大学セミナーハウスだったが、後に見田先生の講座でも何回も使うことになる。

 そこでの面白いエピソードは幾つもあるけれど、私的な思い出だから省略する。この集中講義では教員も学生も学科を交えて討論した。つまり紛争時に問われた「学科セクショナリズム」を越える試みとして受け継がれていたと思う。実際に僕も他学科の教員に大きな影響を受けた。また他学部の単位も(限定があるが)卒業単位と認められていた。僕もそれを利用して、高畠通敏先生の「政治原論」とか住谷一彦先生の「社会思想史」などを取ったのである。それはともかく、ここでも単なる専門だけではなく幅広く「人間学」を学べる制度が整備されていたのである。
(「六人組」の人々)
 僕はこのような「改革」を遺した当時の教員たちに大きな影響を受けてきた。特に渡辺一民先生は「文学部改革推進のためには運動の成果の制度的定着による永続化が是非とも必要であると強く主張した」と松浦氏は指摘している。60年代の「政治の季節」は何も残さず消え去ったと思われている。だが立教大学では、小さいかもしれないがこれらの改革が残されたのである。それらを推進した人々は、その後も「同志」意識を持っていた。その「六人組」の写真を載せておくことにする。

 当時の立教大学にもセクトの活動はあったと記憶するし、当局側によるロックアウトも時たま行われた。学生自治会は学生大会でリコールされて、そのまま再建されなかった。そのような代償はあったわけだが、他大学のように「機動隊の実力行使による正常化」という国家権力への屈服や「一部セクトによる暴力支配」は基本的にはなかった。その方向に導いた「紛争の筆頭責任者」たる松浦氏の思想的背景は、この本で初めて明かされたと思う。マックス・ウェーバーの「責任倫理」とともに、天皇の退位なき戦後日本の無責任体制への怒りが、この「紛争」を自ら解決する強い意志へ結びついていたのである。
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松浦学部長代理の「戦闘的寛容」ー『学生反乱』を読んで③

2023年05月10日 22時32分50秒 | 自分の話&日記
 『学生反乱』を読んで、1969年の立教大学を考える3回目。この本のテーマは僕にとって私的に重要だが、もちろんそれだけではなく、もっと普遍的な問題につながっている。まず、文学部の最高責任者である文学部長は誰だったのか。1969年3月25日までは海老沢有道教授(史学科)だったが、健康上の理由で任期2年のうち半分を残して退任を申し出た。海老沢氏は日本キリシタン史の大家である。退任は了承され、後任には細入藤太郎教授(英米文学科)が選出された。

 教授会では連休を返上して連日長時間の会議を開いていた。しかし、1969年5月10日に「文学部共闘会議」(文共闘)が結成され6項目の要求への回答が求められた。13日には文共闘によって6号館がバリケードで封鎖された。長時間の教授会が開かれ、1969年5月15日に、文学部集会を開くことが決まった。会場となったタッカーホールは満員の学生であふれたという。13時10分から3時間ほどの予定は、結局深夜1時まで12時間に及んだ。(『学生反乱』の表紙にその時の写真が掲載されている。)
(5・15集会)
 その集会中に細入学部長は体調不良となって、休憩を申し出た。事前にそういうこともあるかと代理の責任者を選定していたという。それは誰だか不明だが、細入氏は松浦高嶺教授(史学科)の前で立ち止まって後事を託して退出したのである。これは全く突然の指名で、その理由は謎だという。そして5月20日の教授会で、正式に松浦学部長代理就任が了承された。海老沢(1910年生まれ)、細入(1911年生まれ)の両氏に対し、松浦教授は1923年生まれで10歳以上若い。荒ぶる学生と対峙するのに、50代後半では体力的に持たない。「平時」なら長老トップで収まるが、ここで「戦時内閣」が発足したということだろう。
(松浦高嶺教授)
 松浦先生は「西洋史概論」かなんかをちょっと受けたと思うけど、個人的に言葉を交わしたことはない。政治的な声明に加わったりするような「進歩的文化人」ではなく、厳格な研究姿勢を保つ英国紳士といった印象を持っていた。今回の本を読んで、松浦先生のリーダーシップと先見性に驚いてしまった。その後も自分の体験を「伝説的」に語り継ぐことはなかったと思う。数年後に入学した僕は、松浦先生が「筆頭責任者」として収拾に当たったということは今回本を読むまで全く知らなかった。

 この本は前半が日録的に順を追って振り返られているが、それは高橋秀(さかえ)氏が記録したメモに基づいている。高橋先生は先に書いたようにローマ史の研究者であるとともに、パイプオルガン奏者として知られ大学行事などでも演奏していた。そのことは僕も知っていたし、聴いたこともある。この本には、年末恒例の「メサイア演奏会」始まりの秘話など、「闘争」以外の話題も豊富で興味深かった。高橋氏は松浦教授と研究室が同じで、信頼されていたからか「秘書」格で紛争解決に当たることになった。例えば、他学部教授会への説明には高橋氏が赴いている。

 文学部教授会はその後、「文共闘」を正式に交渉相手と認め、「団体交渉」(団交)に応じることになる。その過程をいちいち追っていくと長くなりすぎるので、ここでは『学生反乱』に譲って省略したい。ただ、この決定は他学部には非常に不評で、松浦氏によれば「学生自治の基本原則を蹂躙」とか「情緒過多のめろめろ学部」などと批判されたという。前者に関しては、正規の自治会があったのに対し、大学非公認団体の「文共闘」と「取引」したのは間違っているという判断である。

 しかし、他に方策があるのだろうか。松浦氏は学部長代理として「連合教授懇談会」の場で、当時の大須賀総長に以下のような質問をしたという。文学部教授会が学生との団交で、本学の従来のやり方と違うことを取り決めた場合、総長はどうされるかという質問である。これに対し総長は「文学部が他学部や本学の従来のやり方と違うことを取り決めるような事態にいたったとしても、もしそれがリアリティに根ざしたものであれば、それはやがて本学の中に定着してゆくことになるだろう」と答えた。高橋氏は「今私が顧みても、総長としてよくぞおっしゃった」と書いている。速水敏彦氏も「闘争初期の名場面」と評している。

 ところで、この頃文学部にはもう一つ頭の痛い問題が持ち上がっていた。震源地の仏文科教員の一人である村松剛(1929~1994)氏が辞表を提出したまま出勤して来なくなったのである。村松氏はちょっと年齢の高い人なら知っていると思うが、保守派の論客として有名だった。三島由紀夫とは親の代から親しく、三島没後に『三島由紀夫-その生と死』という本を著している。そういう思想傾向だからだろうか、文学部が文共闘の団交要求を認めたことに反発し、5月18日に辞表を提出したのである。そして経過をマスコミに知らせ批判したのである。学生側は村松を免職にせよと迫り、ついに懲戒免職が決議された。
(村松剛『私の正論』)
 本筋とは関係ないけれど、村松問題にちょっと触れておきたい。誰しも辞める自由は持っているが、辞任が正式に決定するまでは(健康に問題ない限り)勤務する責任がある。だから、文共闘の団交要求を認めないとしても、正式機関である教授会には出席義務がある。しかし教授会にも出なかったため、学生の処分要求を退けられないのである。ただ、Wikipediaには懲戒免職になったと出ているが、本書によれば事情はもっと複雑である。学院規則には「懲戒解職」という言葉が使われていて、「免職」という処分がなかった。法的な問題を弁護士と協議しているうちに、一ヶ月経ってしまい自動的に辞職の事前予告期間が来たと出ている。

 何となくなし崩しで、辞職になったような記述である。村松氏は問題の発端の仏文科教員として、学生に答えることなく学年途中で辞職するのはどうなんだろうと僕は思う。そこを学生側にも突かれて、教授会が機能していないことを白日の下にさらす結果を招いたのである。仏文科で起きた事態は、「大学の自治」の名の下に「教授会の多数決」という制度が形骸化していると言われても返す言葉がないだろう。文共闘から見れば「戦後民主主義の機能不全」の象徴である。そこで6月2日午前10時から、翌3日午前12時半まで26時間半に及ぶ団交では村松問題が議論の中心となり、「懲戒免職」が決議されたのである。

 その後、6月19日に「文学部学生諸君へ」という学部長代理の文書が公表された。後に「6・19文書」と呼ばれたというが、ここで文学部教授会としての「反省」「自己批判」を行うとともに、今後の改革の方向性が示された。ここで明らかにされたことは、今までは「文学部」と言いながら、事実上は「8学科連合」に過ぎなかったことである。教員は自己の研究と地位に安住し、大学進学率が向上し学生の質が変わったことを直視せず、「学生も変わったね」などと語るだけだった。「教育者」という面で学生と向き合っていたとは言えない。「文学部」としてどのような学生を育成するのかという共同の認識もなかったのである。

 そこで教授会では松浦氏のリーダーシップの下、大学の理念と機構カリキュラム人事教授会運営図書研究室など10あまりの小委員会を設け、全教員がどこかに所属して夏休み返上で討議を行い報告書をまとめたのである。「理念・機構」委員会に属した速水敏彦氏は、本書の中で報告書を全文掲載している。それを読むと、これは大変なものだなと思った。学生側の文章を今読んで、よくここまで書けたなと思った。(高橋氏もどこにこんな能力が潜んでいたのかと書いている。)しかし、この「理念」報告などを読むと、これは適わないなと正直思った。「学生反乱」が教授側の「本気」を引き出したのである。

 最終解決まで書くと長くなりすぎるので、ここで松浦氏の述べる「大学教員の対応の類型」を見てみたい。①は「過激・暴力学生と決めつけて学生の要求には一切耳をかそうとしない、頑なで権威主義的タイプ」である。②は「戦闘的学生に対して弱腰で、足並みがそろわず、優柔不断なタイプ」である。③は「学生と共同戦線を張って、学生反乱の大学反乱への飛躍をめざしたタイプ」である。そして④として「研究、教育関係の中で学生と共有しうる立場を可能な限り模索して、紛争の建設的な決着を求めたタイプ」である。松浦氏は④の立場を堅持し、学生側からは「松浦超近代化路線」などと決めつけられながらも、「戦闘的寛容」の精神を貫いたのである。それは何を残したのか、長くなったけれど最後にもう一回。
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仏文科人事問題ー『学生反乱』を読んで②

2023年05月08日 22時43分28秒 | 自分の話&日記
 『学生反乱』を読んでの2回目。1969年に起きた「立大闘争」はどこから始まったか。それは「仏文科人事問題」だったのである。卒業生でもそのことを知っている人は少ないだろう。その前に立教大学そのものの説明を前提として書いておきたい。立教大学には池袋キャンパス新座キャンパスがあるが、新座キャンパスは1990年開設なので僕の時はなかった。
(本館)
 池袋キャンパスは、山手線池袋駅西口から徒歩10分程度のところにある。画像を検索すると大体最初に出て来るのが、上記のような蔦の絡まるレンガの校舎である。これは本館(モリス館)と呼ばれ、東京都選定の歴史的建造物の指定を受けている。その近くには第一学食チャペルなど同じく指定を受けた歴史的建造物が並んでいる。「立教通り」南側に「美観地区」が広がっているわけである。そこでも授業はあるが、主に通っていたのは「立教通り」北側の「5号館」で、その隣に文学部と法学部が入る「6号館」がある。(その奥に、旧江戸川乱歩邸=平井隆太郎元立大教授宅があって、現在は立教大学が管理して公開されている。)
(5号館)(6号館)
 その当時、文学部には8学科があった。1922年に私立大学が公認されたとき、文学部には英文学科、哲学科、宗教学科が置かれていた。戦後に新制大学になったときには、キリスト教学科英米文学科、社会学科、史学科、心理教育学科が置かれた。その後、1956年に日本文学科を設置、58年に社会学科が社会学部に昇格して廃止。1962年に心理教育学科を心理学科教育学科とした。そして翌63年にフランス文学科ドイツ文学科が新設されたのである。
 
 69年当時に存在した8学科を太字にして示した。僕が通った70年代後半もこの体制である。(ちなみに2006年に心理学科は現代心理学部に昇格して新座キャンパスに移った。同時に文学系学科をまとめて「文学科」として、その中に英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修を置くことにした。従って、現在はキリスト教学、文学、史学、教育学の4学科体制になっている。)60年代の高度成長で、大学進学率も上昇していた。各大学も学部、学科の新設を進めていた時代だが、当時はヨーロッパ文化への憧れが強く「仏文」「独文」が大学の魅力を高めた時代なのだろう。

 もちろん、学内には仏文学科を支えられる人材はいない。そこで重要になるのが、東大と私大との「定年」の差である。東大教授は60歳定年なのに対し、立教は原則65歳だったので、東大を定年になった教授を迎えることが可能になる。(立教より定年年齢が高い私大も多く、立教定年後に別の大学へ移る教授も多くいた。まあ、呼ばれるだけの学問的業績がある人の場合だが。)そこで東大を退職した渡辺一夫氏を62年に立教に招き、準備期間を置いて63年に仏文科を開設したのである。渡辺一夫氏と言えば、この人の本を読んで大江健三郎が東大仏文を目指したというフランス文学の大家である。立教に招いたのは、大きな意味があっただろう。
(渡辺一夫氏)
 また同じく東大元教授の杉捷夫(としお)氏を招き、川村克己渡辺一民村松剛の計5人体制で仏文科が運営されていた。ところで、東大から招いた渡辺、杉両重鎮は数年すれば立教の定年になる。(当時は「原則」65歳だが、定年を越えて在籍する教授も多かったという。「紛争」を経て、定年制の厳格実施が決まったと『学生反乱』に出ている。僕の時代に新進気鋭の教員が多かったのは、そのような理由があったのである。)そこで、2名の教員を補充することになった。

 そして候補となったのは、一般教育部助教授だった新倉俊一高橋武智の両氏だった。「一般教育部」は、大学生活前半の一般教育に携わる教員で構成された部だった。「リベラルアーツ」(一般教養)を重視した立教では、独自の教授会を持つ存在だったのである。特に当時は「第二外国語」が必須で、それもドイツ語、フランス語に限られていた。そのため、語学を教えることを中心にしてまず一般教育部に迎えられ、その後に文学部に転籍するというコースがあったわけである。

 そして一般教育部教授会は、2人の転籍を了承した。それに続き、3月13日に文学部教授会が開かれたが、予想外なことに両氏の受け入れを了承する票が「3分の2」(人事案件は重要事項のため、過半数ではなかった)に達せず、否決となったのである。松浦氏の記述によれば、これは全く受け入れがたい結果だった。何故なら、投票に先立って受け入れを否とする意見は出されず、討論も行われなかったからである。8学科もあって、それも学問分野がかなりかけ離れているから、他学科の業績評価は難しい。そこで従来は「学科自治」を尊重して、学科が了承した人事はそのまま教授会で了承されることが常だったという。
(新倉俊一氏)
 当時は一般教育部所属の教員も、学部の授業を一部担当し協力してカリキュラムを構成していた。ところが、文学部の受け入れ不可に驚いた一般教育部では、両氏の再受け入れを決めるとともに、文学部への出講を取り止める措置を取った。一般教育部を怒らせてしまったのである。そこでフランス文学科のカリキュラムを再考せざるを得なくなり、履修登録日も延期された。この状況に不審を抱いた「仏文科学生一同」が4月17日に「文学部教授会への公開抗議書」を提出した。そして5月になると、単に仏文の問題に止まらず、文学部教授会への不信を強めた学生たちが「文学部共闘会議」を結成したのである。

 その後の経過は次回に回すが、では何故両氏の受け入れが認められなかったのだろうか。無記名投票なので、誰が否としたかは判らない。その後の経過を経て人事案は再議され、結局両氏は文学部に受け入れられることになる。その中で、新倉俊一氏はさらに1978年に助教授として東大に移籍し、中世フランス文学の大家となった。新倉氏の学問業績は十分だろう。一方の高橋武智氏は、1971年に立教大学を退職することになった。その理由は21世紀になるまで不明だったが、『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…… - ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007)という著作により、事情が明らかにされた。
(高橋武智氏)
 高橋氏は「ベ平連」の中でも、脱走米兵を国外脱出させる秘密プロジェクトの責任者を引き受けざるを得なかったのである。だから、69年当時もベトナム反戦運動に関わっていたことは知られていたのではないか。そして、そのことを忌避する教員がいたのではないか。僕はそのように予想するのだが、正しいかどうかは不明である。
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『学生反乱-1969-立教大学文学部』を読んで①

2023年05月07日 22時52分49秒 | 自分の話&日記
 実はまだ「わが左翼論」シリーズが終わってないのだが、スピンオフとして『学生反乱-1969-立教大学文学部』という本の感想を何回か書きたい。この本は刀水書房から「刀水歴史全書71」として2005年に刊行された(2800円、現在も入手可能)。著者は松浦高嶺速水敏彦高橋秀の3氏である。僕は立教大学を卒業しているが、1969年に起こった「立大闘争」の詳しい経緯はほとんど知らない。だから、この本が出たときに新聞広告で見て早速注文したのだが、資料がいっぱい入った本で、その時点では読まなかった。今回「日本左翼史」を考える中で存在を思い出し、今読まないと一生読まないと思ったのである。

 1970年代半ば以後に進学した僕以後の世代は、通っている大学で「闘争」(あるいは「紛争」)があったことは何となく聞き知っていても、具体的な経過はほぼ知らないと思う。どこの大学でも同じようなものだろう。例外的によく取り上げられる「東大闘争」「日大闘争」は、中では知られているだろうが、でも東大生、日大生皆が関心を持って読んでいるわけじゃないだろう。だから、「そういう時代」「そういうこと」(スタンスは様々でも)があったとは知っていても、日本じゃ何も変わらなかったと決めつけて終わりにしている人が多いんじゃないか。

 この本の紹介記事が刀水書房のホームページにある。「あのころ全国で起きた『大学紛争』について、当事者自らがまともに総括した本はほとんど刊行されていない。このままでは風化し,非現実的な『神話』になってしまう」(速水)そんな思いが,三人を再び結び付けた。われわれは学生たちに何を突きつけられたのか?」とある。そして「紛争の筆頭責任者」だった松浦高嶺氏(イギリス史)、松浦氏とともに解決の道を探った高橋秀(さかえ)氏(ローマ史)、速水敏彦氏(キリスト教倫理)が、まさに当事者として総括した。(記事の筆者は共同通信の立花珠樹氏。映画記者として著名で、何回もトークショーの司会として話を聞いた。) 

 立教大学の場合、その経過と内容は他の大学とはかなり違った面があった。そのことは在学中にも聞いていたが、ホームページに紹介された別の書評にある通り、「学生との対話という路線を選択した立教大学文学部」だったのである。先の3氏とともに、「紛争」解決をともに当たった教授会メンバーには強い連帯感が残ったようで、その後も長く会食などを続けたとある。特に「六人組」と高橋氏が呼んでいるのが、著者3人と渡辺一民(フランス文学)、塚田理(キリスト教学)、室俊司(教育学)各氏である。僕は渡辺一民先生の講義で、機動隊を導入せず教授たち自らがバリケード封鎖を解除した話は聞いていた。
(1969年10月7日の大須賀総長の所信表明集会)
 ところで、今回は「紛争経過」の中身には入らない。違う問題について気付いたので書いておきたい。上にある画像は、総長の「所信表明集会」だが、その前段階として「全共闘」学生との団交があった。それを受けて開かれた集会だが、この写真は立教大学のホームページの「写真で見る立教学院の歴史」に掲載されているものである。では、他大学のホームページでは、「紛争」に関してどのように掲載されているだろうか。どこの大学のホームページにも「○○大学について」などという項目があり、その中に「本学の歴史」「沿革」などの箇所がある。

 僕は幾つかを見ただけだが、早稲田大学には当時の写真はないようだ。年表には1972年に「川口君事件」とあるが、内容紹介はない。日本大学の場合は、年表にないどころか紛争当時の古田重二良学頭を「先見性」と評価している。「財政基盤を確立」って、巨額の使途不明金はどうなっているのという感じ。法政大学も出ていないと思う。東京大学の場合、さすがに年表には安田講堂事件が出ているし、入試中止も載っている。ただし、国際化を目指せと言われている日本の大学でトップたる東大の年表が何と元号表記なのには驚いた。国立大学法人の場合、文科省による基準でもあるのだろうか。他大学は見てないので判らない。
(69年の立教祭)
 ということで、「紛争」関係の写真が大学の公式ホームページに掲載されているのは、かなり珍しいのではないかと思われる。もう一つ貴重な写真も載っていて、それが上記の69年の立教祭の写真である。全学スト決行中、一部校舎バリケード封鎖中ながら、35学生団体が参加して11月8日から3日間、立教祭が開催されたのである。テーマは「泯滅(びんめつ)の饗宴」という不思議なものだった。この本では高橋秀教授が書いていた当時のメモが大量に使われている。いや、すごいものだと「歴史家」の現場感覚に感心した。高橋先生は学内では西洋史の教授という以上に、「パイプオルガン奏者」として知られていた。

 立教祭でも高橋先生のパイプオルガン演奏がチャペルで開催されたと出ている。また1月に亡くなったばかりの理学部教授で作曲家の松平頼暁氏の現代音楽コンサートも開かれた。高橋先生は『チャペル・ニュース』もまた大量に引用している。チャペル(諸聖徒礼拝堂=大学等に附設された礼拝堂)を通して、学生の心情なども出て来るのである。このようにキリスト教系大学ならではの、他の大学とちょっと違ったルートがあって、教授たちと学生のつながりが続いていたのである。そのことも「立大闘争」の特徴なのではないかと思う。具体的な「紛争」あるいは「闘争」の経過は次回に見てみたいと思う。
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畑正憲、片桐夕子、富岡多恵子、ハリー・ベラフォンテ他ー2023年4月の訃報

2023年05月06日 22時28分16秒 | 追悼
 2023年4月の訃報特集。4月には一面に載るような訃報がなく、ちょっと忘れていたような著名人の訃報が多かった。まずは「ムツゴロウ」の愛称で「動物王国」を作った畑正憲が4月5日に死去、87歳。80年代にはテレビに本当によく出ていて、誰もが知っている人だった。北海道・浜中町の島に「動物王国」を作り(やがて内陸の中標津町に移動)、そこでの生活を映したテレビ番組が大ヒットした。またエッセイ『ムツゴロウの○○』という著書を何十冊も書いていて、『ムツゴロウの青春記』など本当に面白い本だった。是非若い人に読み継がれて欲しい本だ。最初に書いた『われら動物みな兄弟』でエッセイストクラブ賞。1987年には知床原生林伐採計画反対運動の中心となり、東京で行われた集会で話を聞いた記憶がある。
(畑正憲)
 俳優の片桐夕子が2022年10月16日に亡くなっていた。70歳。日活ロマンポルノで曽根中生監督作品などに数多く出演し、曽根監督の特集上映などで話を聞いた。元気だったのに、こんな早い訃報に驚いた。日活がポルノ路線に転換したとき『女高生レポート 夕子の白い胸』で主演して、主人公の名前を芸名にした。明るい役柄でスターとなり、多くの作品に出演している。その時代の代表作は『㊙女郎市場』(1972)かなと思う。その後、一般映画にも出演した。村野鐵太郎監督『鬼の詩』(1975)での上方落語家の妻が代表作か。村野作品にはその後も『月山』『遠野物語』などに出演。テレビドラマにも多数出ていた。私生活では小沼勝監督と結婚、離婚、その後アメリカへ行ってアメリカ人と結婚、子どももいたが離婚とWikipediaに出ていた。
(片桐夕子)
 テレビドラマのディレクター、映画監督の生野慈朗(しょうの・じろう)が6日死去、73歳。TBSでドラマ演出を担当し、70年代後半以後の数多くの人気作品を演出した。『3年B組金八先生』『男女7人夏物語』『ずっとあなたが好きだった』『愛していると言ってくれ』『ビューティフルライフ』など伝説的作品を担当している(シリーズ全作品ではない)。映画監督としても『いこかもどろか』『秘密』などがあり、『いこかもどろか』の明石家さんま、大竹しのぶの軽快なやり取りは面白かった。
(生野慈朗)
 小説家、詩人、評論家の富岡多恵子が6日死去、87歳。大阪出身で、当初は詩人として出発し女性で初めてH氏賞を受賞した。70年代頃から小説が中心となり、『植物祭』(田村俊子賞)、『冥土の家族』(女流文学賞)、『波打つ土地』、『ひべるにあ島紀行』(野間文芸賞)などがあるが、実は一つも読んでない。また69年の篠田正浩監督『心中天網島』では脚本も担当(篠田、富岡、武満徹)し、篠田監督との電話が冒頭のシーンになっている。批評も多く書いたが、『中勘助の恋』(1993、読売文学賞)には本当に驚いた。他にも『釈迢空ノート』(2000、毎日出版文化賞)、『西鶴の感情』(2004、大佛次郎賞、伊藤整文学賞)などがある。上野千鶴子、小倉千加子との鼎談『男流文学論』(1992)はフェミニズム批評の傑作で大笑いして読んだものだ。
(富岡多恵子)
 英文学者で、鉄道ファンとしても知られた小池滋が4月13日に死去、91歳。本当に多くの著書、訳書があり、有名な人なのに訃報が小さかったのは長命で忘れられたか。ディケンズの研究者で、長すぎて訳されていなかった『荒涼館』『リトル・ドリット』などを翻訳した。シャーロック・ホームズ全集も訳している。1979年の『英国鉄道物語』は毎日出版文化賞を受けた。僕も何冊か新書を読んでるし、ちくま文庫4冊になる大作『荒涼館』も読んだ。達意の訳文で、エッセイもとても面白い人である。
(小池滋)
 評論家の海野弘が5日死去、83歳。80年代、90年代にヨーロッパの都市、世紀末芸術などを縦横に論じる本を多数著し、僕もかなり読んだ気がする。もともとは平凡社に入社して「太陽」編集長を務め、アール・ヌーヴォーの魅力にひかれて『アール・ヌーボーの世界 : モダン・アートの源泉』を刊行した。その後、次第にアール・デコを紹介するとともに、ファッション、文学、映画、江戸文化など非常に幅広く論じた。ものすごく多数の著書があったけどどのくらい生き残っているのだろうか。
(海野弘)
 ノンフィクション作家の川田文子が2日死去、79歳。元慰安婦を数多く取材したことで知られる。『赤瓦の家ー朝鮮から来た従軍慰安婦』『皇軍慰安所の女たち』など多くの著書がある。今年になって『女たちが語る歴史』上下(上=北海道・東北・上信越他篇、下=沖縄篇)を刊行した。歴史教育に関わる著書も多く、僕も何冊か読んできた。
(川田文子)
・元レスリング選手の渡辺長武(わたなべ・おさむ)が2022年10月に死去していた(死亡日は未公表)、81歳。64年東京五輪フリースタイル・フェザー級で金メダルを獲得。「アニマル」と呼ばれ、五輪でも全試合フォール勝ちした。
・元参議院議員、国家公安委員長の溝手顕正(みぞて・けんせい)が14日死去、80歳。自民党参院幹事長などを務めた有力議員だったが、2019年の参院選で落選した。自民党が広島選挙区に二人目の候補河井案里を擁立したあおりを受けた例の人。
・元日本IBM社長の椎名武雄が19日死去、93歳。米本社と異なる独自路線を取って売り上げ1兆円を87年に達成した。その成果を認められ、米本社副社長を89年~93年に務めた。退任後は経済同友会副会長など財界活動を行い、「ミスター外資」と呼ばれた。
・「ひめゆり平和祈念資料館」の館長を務めた木村つるが7日死去、87歳。戦後長く小学校教員を務め、退職後に資料館開設に向け活動した。2002年から10年まで館長。
竹山洋、脚本家。12日死去、76歳。テレビ、映画の脚本を多数手掛けた。テレビでは大河ドラマ『秀吉』『利家とまつ』など。映画では『四十七人の刺客』『ホタル』など。小説も書いている。
・歌舞伎役者の市川左団次(4代目)が15日死去、82歳。数々の敵役、老け役で知られた。様々なユーモラスなエピソードで知られたというけど、全然知らないからここでは省略。
松永有慶、高野山真言宗総本山金剛峯寺412世座主。16日死去、93歳。金剛峯寺座主を初めて2期8年務め、全日本仏教会会長も務めた。密教研究の第一人者で、岩波新書『高野山』『空海』などの一般書を含めて数多くの著書がある。
黒土始、第一交通創業者。17日死去、101歳。大分で5台から始めたタクシー会社を合併を繰り返して日本一のタクシー会社に発展させた。100歳になって代表取締役を退いた。
・陶芸家で人間国宝指定の加藤孝造が17日死去、美濃焼第二世代として荒川豊蔵を継ぎ活躍した。
・ボクシングのヨネクラジム元会長の米倉健司が20日死去、88歳。60年に東洋バンタム級王者となって5回防衛したが世界には届かなかった。引退後の63年にジムを創設して、柴田国明、ガッツ石松ら5人の世界王者を育てた。

 アメリカの歌手ハリー・ベラフォンテが25日死去、96歳。カリブ系移民の子としてニューヨークに生まれ、1956年の「バナナ・ボート」が世界的に大ヒットした。バナナを積み込む労働者の「デーオ」という掛け声が印象的で、日本でも浜村美智子らが歌ってヒットした。歌手として活躍すると同時に社会運動や慈善活動に熱心に取り組んだことでも知られる。キング牧師の熱心な支持者で公民権運動に積極的に関わった。また85年のアフリカ飢餓支援の「USAフォー・アフリカ」の提唱者でもあった。俳優としても多くの映画に出演している。
(ハリー・ベラフォンテ)
 イギリスのファッションデザイナー、マリー・クワントが13日死去、93歳。58年頃から「ミニスカート」をデザインし、60年代に世界的に大ブームとなった。高級注文服中心だったファッション界で、若者向けファッションを確立した。近年ドキュメンタリー映画が作られ、日本でも公開された。
(マリー・クワント)
ジョー・プライス、13日死去、93歳。江戸絵画のコレクターとして知られた。伊藤若冲、長沢蘆雪、曾我蕭白などの作品を多数収集し、「奇想の画家」として人気が出るきっかけを作った。日本でも21世紀になって知られるようになり、里帰り展も開かれた。コレクションの一部は出光美術館が購入している。
・最後に今回調べていて、日本では報道されていないけれど驚くべき訃報を見つけた。イギリスの女性ミステリー作家、アン・ペリーという人が4月10日に亡くなった。82歳。日本でも創元推理文庫から何冊か翻訳されているウィリアム・モンク・シリーズなど、ベストセラー作品を持つ人気作家だった。この人はピーター・ジャクソン監督が映画化した『乙女の祈り』というニュージーランドで1954年に起こった殺人事件の犯人だった。13歳の時に、15歳の親友とともにその親友の母親を殺害したのである。事件のきっかけは、二人の創作したファンタジー小説の中に有名俳優との妄想的な性的場面などがあり、驚いた親たちが二人を引き離そうとしたことだった。無期懲役の判決が出たが、二度と二人が会わないことを条件に5年後に釈放された。その後イギリスへ戻り(ロンドン生まれで、父がニュージーランドの大学学長に就任していた)、改名して作家となったという。
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映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』、イランの恐るべき連続殺人を追う

2023年05月05日 22時10分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 連休期間はどこも混雑で、人が多そうな映画に行く気がしない。そんな中で多分満員じゃないだろう映画を見に行った。思ったより入っていたけど、『聖地には蜘蛛が巣を張る』は最近見た中で一番恐ろしい映画だった。連続殺人を扱うが、ミステリーでもホラーでもない。そういう要素もあるが、基本は現代イランの恐るべき闇を暴き出す映画である。真相を追究する女性ジャーナリストを演じたザーラ・アミール・エブラヒミの身を張った活躍が素晴らしく、2022年カンヌ映画祭女優賞を受けた。

 イラン北東部マシュハドは人口300万もあり、首都テヘランに次ぐイラン第2の大都市である。ここはシーア派(12イマーム派)の第8代イマーム、アリー・アッ・リダーが殉教した地で、大きな墓廟に巡礼する人が絶えない。宗教的聖地としてイラン国内でも保守派が多い町として知られているという。そんな町で、2001年に娼婦ばかり16人が続けて殺される事件が起こった。犯人は「蜘蛛(くも)」を名乗って新聞社に電話して犯行を知らせていた。事件は「町を浄化する」ためだというのである。この実際の事件をモデルにした映画だが、イラン当局に認められずマシュハドでの撮影が出来ず、ヨルダンで撮影とクレジットされていた。
(マシュハドの位置)
 事件がなかなか解決しないことを疑問に思って、テヘランから女性記者ラヒミザーラ・アミール・エブラヒミ)がやってくる。予約してあったにも関わらず、ホテルでは女性一人の宿泊に難色を示す。ジャーナリストの身分証を示して、ようやく部屋に案内された。テヘランではセクハラ、パワハラを受け、逃れるようにこの事件の取材にやってきたのである。警察当局や聖職者に会いに行き、何故犯人が捕まらないのか、当局はちゃんと捜査しているのかと追求する。ラヒミが時と所によって、スカーフの被り方を微妙に変えるのも見どころだ。「道徳警察」がある国だから注意がいるのである。
(ラヒミ)
 「犯人当て」的な意味では、途中で犯人側の描写に変わるので「コイツだったか」という感じで観客には判ることになる。彼はバイクで娼婦を拾い、自分の家まで連れてきてすぐに殺害していた。妻子があるのだが、時々実家に帰ることがあるらしく、一人になった時に犯行に及んでいる。ラヒミは取材を重ねて、広場の清掃員がバイクに乗る犯人を遠くから見たことがあると突きとめる。警察は彼に聞き込みしておらず、やはり徹底捜査はなされていないのだ。そこでラヒミは地元の記者と協力して、自らオトリになって犯人をあぶり出すことを決意する。厚化粧して広場に立つと、案の定バイクに乗って誘う男が現れた…。
(警察で取材するラヒミ)
 そこから相当恐ろしい展開になっていくが、先は書かないことにする。監督、脚本はイラン出身ながら北欧で活躍しているアリ・アッバシ(1981~)で、『ボーダー 二つの世界』(2018)がカンヌ映画祭「ある視点」部門グランプリを受賞した。日本でも公開され好評だったけど、僕はなんか気持ち悪い設定が好きになれず、ここでは書かなかった。今作はデンマーク、ドイツ、スウェーデン、フランスの合作映画で、デンマークから米国アカデミー賞の候補作に推薦された。監督は連続殺人の映画を作りたいわけではなく、「連続殺人が起きる社会」、その女性嫌悪(ミソジニー)を描くのが目的だったと言っている。
(アリ・アッバシ監督)
 殺人も恐ろしいが、その殺人犯を英雄と讃える社会はもっと恐ろしい。この映画はまさにその恐ろしさを実感させる映画で、犯人の若い息子には父を継げと言う人までたくさんいるのである。最近読んだ『記者襲撃』で、殺人を何とも思わない「正義感」あふれる右翼を読んだばかりである。この映画の犯人も「麻薬中毒の売春婦」を神に命じられて排除しているという意識なのである。主人公を演じたザーラ・アミール・エブラヒミは、元婚約者から性的な映像をネットに流される事件があってイラン芸能界から事実上追放されたという。現在はフランスを中心に活動していて、今回の演技は自身の経験から来る鬱憤を晴らすかのような熱演である。イラン映画では見ることが出来ないイランの闇を追求した勇気ある映画で、見応えがあった。
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映画『アダマン号に乗って』、セーヌ河岸のデイケア・センター

2023年05月03日 20時47分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 2023年のベルリン映画祭で金熊賞(最高賞)を受けたニコラ・フィリベール(Nicolas Philibert、1951~)監督の新作『アダマン号に乗って』(Sur l'Adamant)が公開された。日本の映画配給会社ロングライドが出資していて、そのことは大きく報道された。そのため公開が早まって、ゴールデンウィーク公開になった。僕はテーマ的に是非見たいと思っていたが、公開早々に見たのは、他の映画が満員で入れなかったから。この映画は面白かったけれど、同時に「観客を選ぶ映画」だなと思った。ドキュメンタリー映画でストーリーがないので、寝てる人もいるようだった。

 ニコラ・フィリベールという人は、一貫して「ただ見つめる」ようなドキュメンタリー映画を作ってきた人である。日本では『音のない世界で』(1992)、『ぼくの好きな先生』(2002)などが公開されてきた。近作は看護学校の学生たちを描く『人生、ただいま修行中』(2018)で、自分が救急外来で集中治療室に入ることになり看護師の映画を作ろうと思ったという。その映画は見逃したが、『ぼくの好きな先生』は見たと思う。地方の小学校を舞台にした映画だった。
(ニコラ・フィリベール監督)
 今回はパリのど真ん中である。でもエッフェル塔とかルーブル美術館などは全く出て来ない。ひたすらセーヌ川に浮かぶ船のような建物だけで進行する。毎朝鍵を開ける女性がいて、窓を開けていく。そこにいろんな人が出入りするが、映画は全く説明しない。普通のドキュメンタリーだと、ナレーションや字幕で「ここはどんな場所か」を示すものだろう。チラシ等を見て行ってるから、ある程度のことは事前に知っている。「精神科のデイケア・センター」なのである。だけど運営主体などの説明は最後になってようやく出て来るだけ。見る者もひたすら映された人々に寄り添って、彼らの言うことを聞くのである。
(アダマン号)
 このように映画撮影そのものが一種のカウンセリングみたいな作品だ。通う人の中には、ギターを持って歌う人あり、絵を描く人あり。それがなかなかの出来で、つい見入ってしまう。自分の病気を語る人もいるが、何が真実かは判らない。自分たち兄弟がヴィム・ヴェンダース監督『パリ・テキサス』のモデルだと言う人もいる。その人は親が彼を画家にしようとしたという。それはヴァン・ゴッホと似ていたからだと言うのだが、まあ確かに似ている気もする。そういう現実なのか妄想なのか判別できない話も、突き詰めずにただじっくり聞いている。どうやらここでは絵や音楽などのアート活動が盛んなようだ。
(絵を描く女性)
 もう一つここで重視しているのは「カフェ」らしい。コーヒーを美味しそうに入れている。ジャムを作ったりして売ってもいる。ただ外部から一般の客が来ているかというと、そこはどうもよく判らない。川の上ということもあって、フリの客が入るような場所じゃない気がする。むしろ患者同士がフラッときていろいろできる居場所という感じでやってる気がした。しかし、運営は通所者がやってるので、お金の管理などは大変だ。現金のみでやっていて、何度も数えている。出て来る人は皆病気と長く付き合っている。薬の話なども出て来る。監督は話をさえぎらずに自由に語らせているが、逆に向こうから聞いてくることもある。
(ミーティングの様子)
 今彼らが取り組んでいるのは「シネクラブ」10周年を迎えて開く映画祭の企画である。この時は夕方から臨時にカフェを開き、7時から映画をやるという。上映する映画のポスターを見ると、『81/2』(フェリーニ)、『アメリカの夜』(トリュフォー)、『オリーブの林を抜けて』(キアロスタミ)などだから、相当映画に詳しいアート路線である。これを皆で見るんだから、大したものである。多分大変だろうと思うけど、その様子を映す前に映画は終わってしまう。最後になってようやく判るけど、どうやら船ではなく川に付きだして作られた船型の建物なのだった。

 監督の話によると、フランスでも精神科医療の予算削減などが起こっているという。この「アダマン号」はフランス精神医療の標準ではなく、むしろ珍し場所だという。医者も来ているから相談なども出来るし、かなり恵まれている。病気の内容は説明されないから判らないけど、統合失調症が多いのではないか。薬物療法で症状はかなり押えられるようになってきたが、社会復帰はなかなか難しい難病である。精神科医療に詳しい人が見れば、やっぱりフランス人でも病態は似た感じだと思うだろう。縁のない人からすると退屈かもしれない。でも余裕を持ってじっくり聞くと、味わいが伝わってくると思う。
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樋田毅『記者襲撃』、「赤報隊事件」を追う必読本

2023年05月02日 23時19分11秒 | 〃 (さまざまな本)
 1987年5月3日。と言われて、何の日だか思い当たるだろうか。むろん憲法記念日である。でも、この日はただの憲法記念日ではない。朝日新聞阪神支局が何者かに襲撃され、銃撃された小尻知博記者(29歳)が殺害され、犬飼兵衛記者(42歳)が重傷を負った「赤報隊事件」が起きた日である。事件後に「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」の名による犯行声明が時事通信社と共同通信社に届いた。死傷者が出たのはこの日の事件だけだが、その前と後に計8件の事件が起こされている。

 今ではまとめて「赤報隊事件」と呼ばれる。この阪神支局襲撃事件はもちろん良く覚えているし、その後、朝日新聞は事件前後に特集報道を続けてきた。しかし、2003年に公訴時効が成立してしまい、ついに真相は明かされないままになってしまった。僕も関連書を読むほど関心を持ち続けた来たわけではなかった。今回樋田毅記者襲撃』(岩波書店、2018)という本を読んで、改めて驚くことが多く衝撃を受けた。内容的に「今まさに読むべき本」だと思う。

 樋田毅(ひだ・つよし、1952~)という著者の名前を意識したのはつい最近である。大塚茂樹「日本左翼史」に挑む』を読んだときに、『彼は早稲田で死んだ』という本が出て来た。早稲田大学で「伝説的に語られてきたヒダさん」とも書かれていた。この本は「内ゲバ殺人」を追求し、大宅壮一ノンフィクション賞を受けた。そのことは記憶にあったけど、著者のことは詳しく知らなかった。調べてみると、樋田氏は元朝日新聞記者で退職後に何冊か本を書いている。地元の図書館を調べたら、一番近い図書館に最初に書かれたこの本が入っているではないか。時期もまさに36年目を迎える直前だ。これは今すぐ読めというサインだろう。
(樋田毅氏)
 僕は池上・佐藤氏『日本左翼史』を評して、「左翼の失敗を振り返り、左翼の再生を考えるのも大切だろう。でも、「日本右翼史」を振り返ることはもっと大切だと思う。」と書いた。そして、「「個別決起」で、社会を変えようという発想が広がる可能性はないだろうか」とも書いた。その後、衆院補欠選挙の応援に入った岸田首相に爆発物が投げられる事件が起こってしまった。その思想的背景は(あるかないかを含めて)まだ不明だが、何だか予言成就みたいで気持ちが悪い。それはともかく、樋口氏の本はその「日本右翼史」が書かれているのである。戦後の右翼勢力のおおまかな振り返りがこの本で可能である。

 この本には非常に重大な意味を持つ記述が幾つもある。著者は朝日新聞記者として、この阪神支局襲撃事件を追跡し続けていた。記事を書くと言うより、真相を追い続ける役目を負ったのである。そういう記者が何人もいて、この事件を追及してきた。しかし、最終的に時効を迎えるまでには事件の解決を見なかった。その間の取材の核心部分を書いたのがこの本。中には朝日新聞社の対応を厳しく批判している箇所もある。その第一は「野村秋介事件」である。行動的な「新右翼」活動家として知られた野村氏は、1993年10月20日に朝日新聞社役員応接室で当時の中江社長の前で拳銃自殺した。 

 野村秋介氏は河野一郎宅焼き討ち事件(1963年)や経団連襲撃事件(1977年)を起こしたことで知られる。興味深いエピソードがいろいろある人だが、今はそのことは措く。この事件のきっかけは1992年の参院選に「風の会」を立ち上げて立候補したところ、「週刊朝日」の山藤章二の風刺画「ブラック・アングル」に「虱(しらみ)の党」という表現で揶揄されたことである。風刺と言えど「選挙妨害」になりかねず、野村らの抗議がなされた。そして社長と野村氏の面会がセットされたのである。その時の社の対応に疑問を持った著者は、公にされていない中江社長の回想録を引用して、その真相に迫っている。

 この問題に関してはここまでにするが、野村秋介という人は今も右翼内部で評価が高い。それはこのような事件の起こし方にもあるだろう。つまり、世間的には無名の末端記者を狙うのではなく、抗議するならトップを標的にする。しかも、「他殺」ではなく自らを犠牲にすることで目的を達成しようとする。「これが真の右翼だぞ」と言わんばかりで、ある意味「赤報隊事件」への批判を感じ取れないこともない。今まで右翼のテロ事件は戦前から何度も起こっているが、「犯人」は大体自殺したり、すぐに出頭している。相手を殺害に及んだ以上、自ら逃げ回らない。それが「右翼」なんだという無言の訴えを感じ取れないでもない。
(殺害された小尻記者)
 そこから、この本ではある宗教団体への疑惑が追及される。「α教団」は、政治団体「α連合」とつながり、また「α日報」という新聞も持つ。その団体が絡んだ「霊感商法」を朝日新聞や系列の週刊誌「朝日ジャーナル」が鋭く追求していた。この「α教団」なる右派宗教団体が襲撃事件を起こしたのではないか。匿名で書かれているが、これは誰が見ても「世界基督教統一神霊協会」(統一教会=現世界平和統一家庭連合)である。その時点では匿名になっているが、今では誰もが知ることになったので「旧統一教会」と書くことにする。そして実に恐るべき事実が書かれているのである。

 捜査権のない新聞記者の取材だから、この本で真犯人は判らない。どちらかというと、素直に読めば旧統一教会犯人説はかなり厳しいと思う。だが、それは本当に秘密にされた部分には近づけなかったからかもしれない。何しろ、「統一教会」にはまさに秘密部隊があったらしいのである。韓国では統一教会系の銃器製造会社があり、日本でも教会の隣に銃砲店があったというのである。そして韓国へ行けば、合法的に射撃訓練が受けられたのである。実に恐るべき事実ではないか。

 朝日新聞は統一教会を厳しく批判する報道を続けていた。ただ、赤報隊事件の最後とされるのは、1990年5月に起きた「愛知韓国人会館放火事件」である。韓国由来の団体がそういう事件を起こすだろうか。しかし、これも疑問がないではない。今こそ「反韓」で活動する右翼は珍しくない。だが、この時点では「慰安婦問題」などは問題化していない。右翼からすれば、「朝鮮総連」を狙う方が自然ではないか。まだまだ朝鮮半島情勢は「冷戦」段階で、1990年に「反韓」事件を起こすのが不思議に思えなくもない。この韓国人会館事件が「赤報隊」の最後であある。最後に今までの襲撃対象から大きく外れた目標を選んだのも不自然に思える。

 ところで、この本で書かれたもう一つの重大な朝日新聞の問題。実は朝日新聞と「α日報」の幹部が会っていたという事実が書かれているのである。「裏で手打ちした」とまでは言えないようである。だが「不自然な会食」である。このような朝日新聞社の発表していない不都合な出来事もあえて書かれている。そこが貴重なところである。僕は自然に考えれば、犯人は「新右翼」的な思想の持ち主かと思う。ここで描かれる「右翼」は殺人を全く否定していない。朝日新聞を狙うのは正当だと考えている人がたくさん出てくる。恐るべき話で、そういう人に取材するのは実に大変な仕事である。
(NHK「未解決事件」)
 この本には驚くべき情報がいっぱいある。真犯人を想定して、「フィクション」として事件を描いた章もある。それは60代と30代の二人組とされている。犯行声明はワープロで書かれていて、80年代後半段階ではまだ使えない人が多かった。(もちろんパソコンが普及する以前である。)それにしても、左翼より右翼の方こそ危険だという僕の考えを実証するような本だった。警察が長いこと秘密にしていたが、この「赤報隊」は中曽根元首相竹下元首相に脅迫状を送っていた。「左翼」と違って、「右翼」は政権中枢とつながり影響を与えかねないのである。この本はまだ普通に入手出来る。是非探して読んで見て欲しい。
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映画に目覚めた頃、キネ旬ベストテンを見てーわが左翼論⑥

2023年05月01日 23時11分01秒 | 自分の話&日記
 「わが左翼論」の続き。中学1年で「文学少年」となったわけだが、中学2年の冬頃から今度は「映画少年」になった。当時の「アメリカン・ニュー・シネマ」に魅せられてしまったのである。映像だけでなく、音楽も素晴らしかった。中3の夏休みに『ウッドストック』のドキュメンタリーを公開初日に見に行った。だけど、僕は自分で音楽をやろうとは思わなかった。楽器や絵は苦手なのである。中学時代は映画雑誌「スクリーン」をよく買っていたが、高校に入ったら「キネマ旬報」を買うようになった。地元の本屋にはなかったが、学校近くの本屋にあったのである。高校生になってやっぱりレベルアップしたくなったのである。

 「スクリーン」も「キネマ旬報」も一年が終わると、評論家によるベストテンを発表している。自分が見てない映画、知らなかった映画がこんなにも多いのか。批評家の投票も多様である。ベストワンになった映画でも、入れてない評論家がいる。それでも多くの人が参加することで、何となく一定の水準が見えてくる。大正時代からあるキネマ旬報ベストテンには、今になると評価を間違ったと思える結果も多い。(世界映画1位に選ばれた『東京物語』は53年の2位だった。『七人の侍』は54年の3位である。)だが、それも含めてその時代の評価という意味はあるだろう。

 自分も映画を見るようになって判ったことは、自分の選ぶ10本と雑誌の結果は必ずしも一致しないことである。それはそれで良いとするしかない。映画の見方も、世界中の映画も「多様」なのである。価値の上下は付けきれない。ある程度の参考にはするけれど、自分の見方は変えられない。もっとも自分でも、時間を経て見直してみると評価が変わることがある。つまり最初に見た時は感動したけれど、大人になって見直すと「何だこの程度だったのか」みたいなものである。「テーマ性」や「芸術的感覚」も、時代や自分の変化で移り変わるのである。

 そして、ベストテン投票を長年見ていると、自分と割と近い映画を選んでいる評論家が判ってくる。僕の場合は、佐藤忠男氏や山田宏一氏などだが、そういう人にも偏りはある。佐藤忠男さんは「第三世界」の映画を日本に紹介した功績があるが、そのためアジア、アフリカの珍しい映画が公開されると上位に入れる傾向がある。山田宏一さんもいわゆる「名作」を落として、個性的作品ばかりを絶賛する傾向がある。今もベストテン号だけは買っているけど、誰がどういう投票をしてるかなど今はチェックしない。若い頃はそんなページまで良く読んでいたのである。

 さて、今までが長い前置き。そこで気付くのだが、すべての人に「党派性」があるのである。今書いた「党派」は政治党派ではない。「芸術派」とか「社会派」とかである。また巨匠の作品を上にする人もいれば、新進監督を積極的に上位に置く人もある。確かに巨匠作品は安定しているが、刺激が少ないこともある。若手は勢いがあるが、完成度には問題がある場合も多い。それでも違いを付けるのがベストテン投票で、「半分お遊び」ということで成立する世界だ。

 その中でもはっきりと政治的党派性をはっきりと表明している評論家もいた。「日本映画復興会議議長」(確か)という肩書きだった山田和夫(1928~2012)氏は、はっきりと共産党の立場だった。Wikipediaを見ると、1954年に入党したと出ている。エイゼンシュテインを紹介したり、世界の珍しい反戦映画などを紹介した功績がある。一方で、松田政男(1933~2020)氏は、はっきりと新左翼的な立場に立っていた。というか、Wikipediaを見ると映画評論家の前に、政治運動家と出ているぐらいだ。日本赤軍との関係を疑われてパリから強制送還された事件もあった。文章は面白かったので、キネ旬で良く読んでいた。

 この山田氏と松田氏の投票傾向を見てみたいのである。以下、僕の高校時代である1971年と72年の2年間の日本映画を見てみる。まず全体の結果を示し、その後二人の選出を見る。最初に出て来た映画作品を太字にする。その後、年ごとに寸評を加え、最後にまとめを書く。昔の映画に関心が無い人は適当にスルーして読んで下さい。

1971年日本映画ベストテン
儀式(大島渚)②沈黙(篠田正浩)③婉という女(今井正)④戦争と人間・第二部(山本薩夫)⑤いのちぼうにふろう(小林正樹)⑥真剣勝負(内田吐夢)⑦やさしいにっぽん人(東陽一)⑧男はつらいよ・寅次郎恋歌(山田洋次)⑨書を捨てよ町へ出よう(寺山修司)⑩八月の濡れた砂(藤田敏八) 次点男はつらいよ・奮闘篇(山田洋次)
(『儀式』)
山田和夫氏の選出
①男はつらいよ・奮闘篇②男はつらいよ・純情篇(山田洋次)③いのちぼうにふろう④戦争と人間・第二部⑤婉という女⑥鯉のいる村(神山征二郎)⑦狐のくれた赤ん坊(三隅研二)⑧幻の殺意(小谷承靖)⑨沈黙⑩この青春(森園忠)
松田政男氏の選出
①儀式②赤軍-PFLP世界革命宣言(若松孝二)③性輪廻ー死にたい女(若松孝二)④モトシンカカランヌー(NDU=布川徹郎)⑤塹壕(星紀市)⑥三里塚・第二砦の人々(小川紳介)⑦GOOD-BYE(金井勝)⑧顔役(勝新太郎)⑨関東幹部会(澤田幸広)⑩遊び(増村保造)
◎寸評
 これを見ると、山田氏も松田氏も党派的な投票をしている。特に松田氏は「政治的行動」として意識的に投票しているのだろう。若松孝二への高い評価は、完成度的には考えられない。それにしても、『書を捨てよ町へ出よう』に入れてないのは理解出来ない。山田氏は新しい作風に反発したのかもしれないが松田氏は入れるべきだった。それとともに、松田氏も小川紳介の三里塚シリーズは上位にするのに、土本典昭水俣』を入れてないのは何故だ。それは山田氏にも言えることだが。共産党も新左翼党派も関わりがなかった水俣病闘争には入れないのか。山田氏がこの年のベストワン『儀式』に入れてないのは、新左翼的な大島が嫌いなんだろう。この年の作品を完成度で見る限り『儀式』と『沈黙』を落とすことは考えられない。山田氏の10位『この青春』を知らなかったので、検索してみたら「働く若者たちの姿を通して、真の平和とは何かを描いていく」という映画だった。

1972年日本映画ベストテン
忍ぶ川(熊井啓)②軍旗はためく下に(深作欣二)③故郷(山田洋次)④旅の重さ(斉藤耕一)⑤約束(斉藤耕一)⑥男はつらいよ・柴又慕情(山田洋次)⑦海軍特別年少兵(今井正)⑧一条さゆり・濡れた欲情(神代辰巳)⑨サマー・ソルジャー(勅使河原宏)⑩白い指の戯れ(村川透) 次点夏の妹(大島渚)
(『旅の重さ』)
山田和夫氏の選出
①故郷②海軍特別年少兵③軍旗はためく下に④男はつらいよ・柴又慕情⑤忍ぶ川⑥どぶ川学級(橘祐典)⑦娘たちは風に向かって(若杉光夫)⑧大地の冬の仲間たち(樋口弘美)⑨約束⑩あゝ声なき友(今井正)
松田政男氏の選出
天使の恍惚(若松孝二)②夏の妹(大島渚)③アジアはひとつ濡れた標的(澤田幸広)⑤さそり(伊藤俊也)⑥叛軍No.4(岩佐寿弥)⑦岩山に鉄塔ができた(小川紳介)⑧旅の重さ⑨人生劇場(加藤泰)⑩空、見たか(田辺泰志)
◎寸評
 前年に続き、山田氏は山田洋次作品を上位に置く。一方、松田氏も政治的としか思えない選出である。この年は僕は『旅の重さ』がベストなんだけど、それはまさに高校生の映画だったから。作品的には『忍ぶ川』『軍旗はためく下に』は落とせない。と同時に日活ロマンポルノで作られた『一条さゆり・濡れた欲情』という傑作を入れないわけにもいかない。松田氏も大島渚『夏の妹』のような失敗作ではなく、なんでロマンポルノに入れなかったのか。それこそ見てなかったのかもしれない。山田氏は「お上品」な映画ばかりで、日活ロマンポルノには入れないんだということは、僕にも判ってきた。

 何でこんな記事を書いたかというと、要するに僕は映画(と小説)を通して、世界の多様性に触れたのである。それから今に至るも、ずっと多様であることを大切にしてきた。二人の投票だけで見てはいけないかもしれないが、とても共産党にも新左翼にも納得できないという気がしたのである。その後、共産党系の先生には何人も接したが、「寅さんしか日本映画では見るべきものはない」みたいなことを言う人が多かった。僕も寅さん映画が好きだったし、寅さん以外の山田洋次映画の魅力も評価している。特に『学校』は定時制高校生にもっとも受けた映画で、良く授業に利用させて貰った。だけど、同時代に作られていた『仁義なき戦い』シリーズや日活ロマンポルノも間違いなく面白かったし、映画としての完成度も高かった。「複眼」で世界を見る大切さを自然と映画体験から教えられたと思う。
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