尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

フリードキン、福原義春、亀井俊介他ー2023年8月の訃報

2023年09月06日 21時45分53秒 | 追悼
 2023年8月の訃報特集。「布川事件」冤罪被害者だった桜井昌司さんを別に書いた。その布川事件の共同被告人二人を追った記録映画『ショージとタカオ』を作った映画監督、井出洋子も13日に亡くなった。68歳。その映画は2010年の記録映画賞を独占し、本にもなった。もとは羽田澄子の助監督だった人で、その後の作品に『ゆうやけ子どもクラブ!』(2019)がある。

 8月はあまり大きな訃報がなかったので内外を1回で。映画監督のウィリアム・フリードキンが7日死去、87歳。僕の若い頃は有名な監督だった。『フレンチ・コネクション』(1971)でアカデミー賞作品賞、監督賞などを受賞して、その次が世界的メガヒットになったホラー『エクソシスト』(1973)である。ところでこの両作品はキネ旬ベストテンでともに10位だが、72年に6位になったのが『真夜中のパーティ』(1970)だった。これはヒットした舞台劇の映画化で、ゲイ・パーティを舞台に、「同性愛者の苦悩」をテーマにしていた。全編を強い緊張感が漂う映画だったが、その後見る機会が無いのが残念。この問題に初めて気付かされた映画だった。77年に作った『恐怖の報酬』のリメイクがコケて、その後はエンタメ系に徹した普通の監督になった感じがある。
(ウィリアム・フリードキン)
 書く直前に飛び込んできたのが、資生堂名誉会長福原義春の訃報。30日没、92歳。資生堂創業家に生まれ、1987年に社長、97年会長、2001年から名誉会長を務めた。財界きっての文化人として知られ、「メセナ」(企業による文化・芸術支援活動)という言葉を日本に定着させた功績は大きい。企業メセナ協議会に深く関わり、その関係の著書も多い。2000年から2016年まで東京都写真美術館館長として、「写美」を支えたことで知られている。文化功労者に選定。
(福原義春)
 アメリカ文学者の亀井俊介が18日死去、91歳。東大名誉教授でホイットマンなどアメリカ文学研究が本業だが、アメリカ大衆文化全般に詳しく、何冊もの一般書を書いた。読書家にはよく知られていた人だが訃報が小さかったのが残念。『サーカスが来た! アメリカ大衆文化覚書』(1976)で、エッセイストクラブ賞。書評で読んで買ったが、ものすごく面白かった。その後も岩波新書『マリリン・モンロー』(1987)、大佛次郎賞受賞の『アメリカン・ヒーローの系譜』(1993)、ミネルヴァ評伝選『有島武郎』(2013、和辻哲郎文化賞)など、著書多数。こういう人がいてくれて、外国文化の奥深さを学べたのである。
(亀井俊介)
 指揮者の飯守泰次郎(いいもり・たいじろう)が15日死去、82歳。文化功労者だけど、僕はこの人を知らなかった。ワーグナーの指揮者として有名で、バイロイト音楽祭で音楽助手を長く務めた。日本のワーグナー演奏史に大きな足跡を残し、多くの賞を受けている。日本芸術院会員。ただ僕はワーグナーの音楽、オペラをCDやテレビでも聞いたことがないのである。ところで、この人をウィキペディアで見てみると、飯守重任(しげとう)元裁判官の息子として、「満州国・新京」で生まれたと出ていた。その人こそ知らないと言われるだろうが。
(飯守泰次郎)
 劇作家の岡部耕大(こうだい)が、25日死去、78歳。長崎県松浦市出身で、長崎を舞台にした作品が多い。1970年に劇団「空間演技」を立ち上げ、演出も行った。1979年『肥前松浦兄妹心中』で岸田国士戯曲賞を受賞した。今村昌平監督の映画『女衒』(ぜげん)の脚本も担当。最近も東京で『精霊流し』が上演されたが、風土を反映した作品で評価された劇作家だった。
(岡部耕大)
 アニメーション美術監督の山本二三(にぞう)が19日死去、70歳。宮崎駿監督のテレビアニメ『未来少年コナン』で初めて美術監督を務めた。その後『ルパン三世 カリオストロの城』の背景などを担当した後、1985年にスタジオジブリに移って『天空の城ラピュタ』の美術監督を務めた。他に『火垂るの墓』『もののけ姫』『時をかける少女』などの美術監督を務めた。迫力のある雲の描写が特に「二三雲」とファンから呼ばれていたという。故郷である長崎県の五島列島福江島に山本二三美術館がある。
 (山本二三)
・作家の森内俊雄が5日死去、86歳。代表作に『幼きものは驢馬に乗って』(芥川賞候補)、『翔ぶ影』(泉鏡花賞)、『氷河が来るまでに』(読売文学賞)など。芥川賞候補に5回なったが受賞出来なかった。SF作家で評論でも知られた石川喬司が7月9日に死去していた。92歳。評論『SFの時代』で1978年に日本推理作家協会賞。 
・吉本新喜劇座員の桑原和男が10日死去、87歳。新喜劇では「和子ばあちゃん」役で親しまれた。奇術師の松旭斎すみえが12日死去、85歳。日本を代表する女性奇術師と呼ばれた。古今亭志ん生の娘として一家を描く著書も書いた美濃部美津子が26日死去、99歳。金原亭馬生、古今亭志ん朝の姉にあたる。
・元検事総長の土肥孝治が1日死去、90歳。大阪地検検事正時代にイトマン事件を担当し、検事総長時代には薬害エイズ事件や旧大蔵省汚職事件などを担当した。元衆議院議員の畑英次郎が4日死去、94歳。1979年に旧大分1区から衆院議員に当選し、7期務めた。最初は自民党だが、93年に離党して新生党に参加、以後新進党、太陽党、民政党、民主党と移った。細川内閣で農水相、羽田内閣で通産相を務めた。発音が同じ羽田元首相の側近だった。
・戦時中の言論弾圧事件である「横浜事件」で、元被告木村亨の妻として再審請求を引き継いだ木村まきが14日に死去、74歳。
・「ダイヤモンドサッカー」の実況アナを20年間担当して世界のサッカー事情を伝えた金子勝彦が20日死去、88歳。日本サッカー殿堂入り。 

・アメリカの歌手シクスト・ロドリゲスが8日死去、81歳。記録映画『シュガーマン』の題材となった歌手で、南アフリカで大ヒットしながら自国でヒットせず引退。死亡説が流れていたが、インターネット時代に「発見」された。ザ・バンドのギタリスト、ロビー・ロバートソンが9日死去、80歳。『レイジング・ブル』などの映画音楽も担当した。

・フランスの歴史家エレーヌ・カレール=ダンコースが5日死去、94歳。ソ連・ロシア史の世界的権威で、『崩壊した帝国』(1978、邦訳1990)で、諸民族の反乱でソ連が解体すると「予言」したことで知られる。
・そのロシアでは、民間軍事会社ワグネルのリーダー、エフゲニー・プリゴジンドミトリー・ウトキンが乗ったビジネスジェット機が23日にモスクワ北西部トベリ州で墜落した。プリゴジン死亡かと世界的にトップ記事となった。その後DNA鑑定で死亡が確認されたとロシア側は言っているが、それでも生存説も絶えない。プリゴジンは62歳、ウトキンは53歳。「ワグネル反乱」は許されたことになっていたが、遠からずこういうニュースが聞かれることは世界の誰もが予測していただろう。その意味ではプーチンによる「公開処刑」説に説得力がある。だが、それでも身代わり説、替え玉説が流れるところにロシア政治の闇がある。特にウトキンは紛れもないネオナチで、こういう組織が政府に代わってアフリカで利権漁りをしていたことに唖然とする。
(プリゴジン)
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亀戸事件殉難者、平沢計七『一人と千三百人|二人の大尉』を読む

2023年09月04日 21時45分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 そう言えば、関東大震災関連の本を何冊か持っていたと思い出した。直接の震災本ではないが、亀戸事件で犠牲になった平沢計七(1889~1923)の作品集を読んでみた。講談社文芸文庫に平沢計七先駆作品集と銘打ち、『一人と千三百人|二人の大尉』という本が入っているのである。2020年4月に出た本で、本体価格1800円もしたが貴重な機会だと思って買っておいたのである。

 「講談社文芸文庫」というのは、日本の昔の小説などを収録している。そこに労働運動家の平沢の本が入るのは不思議な感じがするかもしれない。しかし、平沢の特徴は労働運動には「文化運動」が伴わなければならないと主張した人なのである。小説もあるが、特に戯曲が多いのが特徴。労働者演劇の可能性を追求した人として忘れてはいけない人なのである。この本には小説13編、戯曲7編、評論・エッセイ7編が入っている。300ページ強の本にこれだけ入っているんだから、一編の作品は短いものが多い。

 まだ文壇で「プロレタリア文学」が流行する以前である。それが「先駆」とある理由で、確かに素朴な正義感に基づき、労働者の覚醒を促すような作品が多い。「純文学」とはちょっと違うが、単なるプロパガンダでもない。作品としては自立しているものが多く、読めばなかなか面白い。では多くの人が是非読むべきかと言えば、そこまで傑作揃いというには躊躇する。労働運動と連動した社会史的な読み方をしなければ面白くない段階と言えるだろう。
(平沢計七)
 内容的には、「国家」や「会社」の示す価値観に囚われている人々が、労働者の真の価値に目覚めるまでを描く啓蒙的作品が多い。作品の発表母体も労働組合「友愛会」の機関誌である「労働及産業」が圧倒的に多い。初期プロレタリア文学の雑誌「新興文学」に発表された作品も2つあるが、そのひとつ『二人の大尉』は軍隊に召集されていた時代を描き鮮烈だった。シベリア出兵を控えた時期に、タイプの違う二人の上官を描き分ける。軍内のリアルな感覚が興味深い。

 平沢は小学校卒業後、ずっと現場労働者として働いてきた。鉄道院の職工となり、軍から帰った後は浜松で働いていた。その時に「友愛会」の存在を知り上京、東京府南葛飾郡(現在の江東区大島)で労働運動家として知られた。そこでの活動が評価され、本部の書記に抜てきされたが、やがて友愛会が急進化して行くにつれ孤立するようになった。1919年には友愛会を脱して「純労働者組合」を結成して、労働会館や「共働社」(消費組合)を作るなどした。また労働金庫、労働者のための夜塾、労働劇団を立ち上げるなど時代を先取りした活動を行っていた。

 このように平沢は急進的な共産主義的労働運動家ではなかった。しかし、震災とともに亀戸署に拘束され、虐殺された。その時点で34歳で、妻子もあった。日本共産青年同盟(民青の前身)の初代委員長を務めていた川合義虎は、1902年生まれでまだ21歳だった。平沢とは一世代違うのである。そのような平沢が何故殺されたのか。日本で一番労働運動が盛んだった「南葛」地区で、地域密着型の活動を長く続けてきた平沢は、日々の活動を通じて警察と常に衝突してきて「目を付けられていた」のだろう。

 やはり戯曲が一番興味深いと思う。もっとも終わり方がどうも都合が良いのが多い。それでも題名通りの『工場法』や造船所の大ストを扱う『一人対千三百人』は貴重だ。実際に労働者によって上演出来るかは難しいと思うけれど。特に大正11年に時間が設定された『非逃避者』(大正12年1月)は問題作である。それは「支那人労働者」に職を奪われるとして、「階級的自覚のない労働者」たちが、「河岸揚人夫頭」を訪れる。賃銀値下げに怒っているのである。その元凶は安く働く「支那人労働者」であるとし、その排撃を訴えるのである。ところが人夫頭は同調すると見えて、思いがけないことを言う。

 昔アメリカで人種差別にあったことがあり、「排日」はおかしいと思っていたのである。同じように、日本が外国人労働者を攻撃するのもどうかと思うと述べる。このような「排外主義反対」は職人の胸にストンと納得されるだろうか。それは現実によって証明されてしまった。震災時の中国人労働者の虐殺事件はまさに、平沢が活動してきた大島で起こったのである。そして、それは中国人の河岸労働者への襲撃に他ならなかった。中国人リーダーだった王希天と平沢は連帯出来たはずだが、そのような動きはあったのだろうか。逆に考えれば、排外主義を批判している平沢は警察からすれば警戒対象に他ならなかっただろう。そういう意味で、震災時の悲劇を予知した作品集でもある。
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ジャン・ユスターシュ映画祭を見る

2023年09月03日 22時10分45秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督ジャン・ユスターシュ(Jean Eustache、1938~1981)の映画をヒューマントラストシネマ渋谷で特集上映している。ヌーヴェルヴァーグが生み出した異端の映画作家で、2本の長編映画と数編の中短編映画を残して42歳で自ら命を絶った「伝説」の映画作家である。代表作『ママと娼婦』(1973)が1996年に公開された時に見た記憶がある。それでもこの人の名前を知っている人はよほどの映画マニアに限られるだろう。今回は長編2作と中編2作が上映されているが、他にも数本の映画があってアンスティチュ・フランセ東京で上映されるという。

 ジャン・ユスターシュは経済的に恵まれない家庭に育ち、高校へも行けなかった。母の故郷ナルボンヌ(フランス南西部、地中海に面した町)で育ち、電気技師の資格を取って国鉄職員となり、1958年にパリに移った。そこでシネマテークに通って、ゴダールやロメールと知り合った。秘かに『わるい仲間』(1963)をゲリラ的に撮影していて、それを仲間に見せたら絶賛された。若者二人組が町で出会った女性を口説こうとして、ダンス場まで一緒に行くがどうにもうまく行かない。そこで「悪さ」をしてしまう様子を描いている。なかなか生き生きと描かれた作品なんだけど、主人公に共感出来ないのが問題か。
(ジャン・ユスターシュ監督)
 その映画を見たゴダールが『男性・女性』の未使用フィルムを提供し、ゴダールの会社が製作したのが『サンタクロースの眼は青い』(1966)。トリュフォー、ゴダール作品で知られるジャン=ピエール・レオが貧しい若者を演じている。故郷ナルボンヌで撮影された映画。冬に向かってダッフルコートを買いたい青年がサンタクロースに扮して客と写真を撮るアルバイトをする。やがてサンタの着ぐるみを着ている方が大胆になれてモテると気付いて…。無職の冴えない青春を描く映画は日本で当時かなり作られたが、この映画ほどリアルな映画も珍しい。
(『サンタクロースの眼は青い』)
 上記2作はフランスで同時公開されたというが、今回も一緒に上映されている。その後、中編や長編ドキュメンタリー映画をいくつか作った後、1973年に畢生の大作『ママと娼婦』(La Maman et la Putain)を発表し、カンヌ映画祭で審査員特別グランプリを獲得した。215分もある長い白黒映画で、前見たときも長いなと思ったけど、どうも長すぎる気がする。題名と違って「ママ」と「娼婦」の映画ではない。「年上の女性」と「多情な女性」とでも言うべき中身である。ジャン=ピエール・レオ演じる主人公アレクサンドルが、僕にはよく理解出来ない。冒頭で別れた女性にまとわりつくシーンが、何だかストーカー的でやり切れない。
(『ママと娼婦』)
 アレクサンドルはその時、マリーベルナデッド・ラフォン)の家に転がり込んでいて、二人は性関係もある。だけど、心は別れたばかりの前の女性にある。そういうことはあるかもしれない。だけど、ここでアレクサンドルは町で見かけたもう一人の女性、ヴェロニカフランソワーズ・ルブラン)に声を掛けて付き合い始める。いわゆる「漁色家」というのでもなさそうなアレクサンドルが、その後二人の間で揺れ動く様を映画は見つめていく。これはユスターシュの自伝的な作品だという。実際フランソワーズ・ルブランは彼と付き合っていて別れたばかりだったという。性的なセリフが当時としてはスキャンダル視されたというが、今ではそこまで感じない。だけど、その分主人公にいい加減にしろよと言いたい気分になってくる。痛ましい映画だと思う。
(『ぼくの小さな恋人たち』)
 『ぼくの小さな恋人たち』( Mes petites amoureuses、1974)も自伝的な映画だが、もっと若い頃を描く。カラーで田舎の青春を描くので、他の作品のような痛ましさは少ない。ある意味、良く出来た「思春期映画」なんだけど、エピソードの羅列で「何も起こらない」映画である。いや、細かく見ると主人公の家庭的悩みが出ている。だけど、それはサラッと描かれるので、観客は重みを感じにくい。むしろ性の目覚めをずっと追っている。これは恐らく多くの人の実感だろう。自分ではどうしようもない家庭事情より、誰が好きとかの方が大きいのが普通だろう。いろいろあるけど、結局何も大きなドラマにならない。それが映画の魅力でもあり、多くの青春は実際に「何も起こらない」方が多い。青春の実感を伝える映画だ。

 結局、ジャン・ユスターシュ監督は「自伝」的な作品を作った人だと言える。「ヌーヴェル・ヴァーグ」を経て、誰でも映画を作って良くなった。映画どころか高等教育も受けていないユスターシュのような人でも映画を作れる。それは自分の人生を描くということだった。81年5月にギリシャで事故にあって、足が不自由になったという。それもあったかどうか、自ら死を選んだ。しかし、作品の中にも痛ましい人生を想像させる作品があると思う。トリュフォーやロメールの映画を見るときのような幸福感は得られないが、これも映画であり人生だ。
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西武デパートのストライキと売却問題

2023年09月02日 22時38分45秒 | 社会(世の中の出来事)
 池袋駅東口にある西武池袋本店で、8月31日にストライキが行われた。外資系企業への売却方針に対して雇用の維持を求めてきたが、一向にはっきりした方針が示されなかったからである。しかし、親会社のセブン&アイ・ホールディングスは、スト実施中の同日に外資系の「フォートレス・インベストメント・グループ」への売却を決定した。
(西武デパート本店)
 「そごう・西武」の企業価値は2200億円と算定されたが、有利子負債を引いて実質8500万円での売却になり、「セブン&アイ」は1457億円の特別損失を計上するという。フォートレス・グループと協力している「ヨドバシホールディングス」は、西武池袋本店の土地などを約3,000億円で購入する方針だという。このニュースを聞いて、何だか釈然としない思いをする人が多いだろう。いくら借金を抱えているとはいえ、その借金を棒引きさせて手に入れた物件をすぐに他に売りつける。報道が正しいのなら、有利子負債があったままでも儲けが出る。日本企業が労働者ごと外国資本に安く売られることへの反撃ストだった。
(スト実施中)
 西武デパートの売却問題は、昨年来高野之雄豊島区長(当時)が懸念を表明して注目されてきた。単に一企業の盛衰に止まらず、西武デパートは豊島区の文化でもあるからだ。一時は日本のデパートの中で売上高が1位になっていたこともある。70年代後半から80年代においては、堤清二社長の下、「セゾン文化」の発信基地ともなってきた。西武池袋線と直結していて、西武線沿線の経済・文化圏と密接に結びつくとともに、ファッションを中心にして「ニューファミリー」と70年代に言われた「中流」層を取り込んだ。その意味で、確かにこれは一企業の問題ではなく、「文化」の問題でもある。
(売却の仕組み)
 僕も「西武美術館」(1975年~1999年、1989年にセゾン美術館と改称)にはよく行った。池袋にある大学に通っていたからだ。自分の父が東武鉄道勤務だったため、買い物は東武百貨店を利用することが多かった。東武デパートは池袋駅西口にあり、通学時に利用しやすいこともある。このように「不思議な不思議な池袋 東が西武で西東武」(ビックカメラのCMソング)は、池袋を代表する商業施設として競い合ってきた。堤康次郎の死後、鉄道は堤義明、流通は堤清二が相続して、流通系は「セゾン・グループ」と改称して両者は分離した。バブル崩壊後に巨額負債を抱えた「西洋環境開発」破綻に伴い、セゾン・グループは解体された。
(セブン&ァイグループ)
 西武デパートは「そごう」とともに、セブン&アイグループに属していた。元はイトーヨーカドーから始まった会社だが、現在はセブンイレブンが最大の売り上げとなっている。コンビニ、スーパー、デパートを束ねる総合流通企業という強みは生かされず、百貨店事業は赤字だった。「セブン&アイ」の外資系株主からは、デパートを売ってコンビニに集中するよう求められてきた。スーパーマーケット事業も風前の灯で、近所のヨーカドーも閉店してしまった。次は祖業のヨーカドーも危ない。

 これで良いのかと思うが、そういう風に自分が言えるかとも思う。1957年に開館した有楽町そごう(フランク永井の「有楽町で逢いましょう」の舞台)は、すでに2000年に閉店してビッグカメラになっている。僕はそごうは利用したことが無いが、ビックカメラ有楽町店は利用している。新宿三越池袋三越も閉店し、前者はビックカメラ、後者はヤマダ電機になっている。デパートが家電量販店になるのは前例があるわけだ。ただ、池袋西武は旗艦店であり、駅に直結して影響力も大きい。「西武」が培ってきた戦後文化が変容してしまうと危惧するのも当然だろう。でも、西武デパートは利用しないが、ヨドバシカメラになれば行くという若者も多いだろう。

 自分の母親はデパートへ行くのが大好きだった。聞いてみると、同年代の女性にはそういう人が多いらしい。デパートは単に「百貨」が買えるだけではなかった。いろんな展覧会が開かれ、文化に触れる場所でもあった。(伊勢丹や東武にも美術館があった。)屋上には遊園地があり、家族皆で食べられる大きな食堂もあった。安心して子どもを連れて行ける場所でもあったのである。デパートの食堂で初めて洋食を食べたという人もいた時代である。

 もう僕の世代には、そういう「百貨店幻想」はない。今のデパートも「専門店」を揃えたブランドショップ街になっている。渋谷の東急百貨店、新宿の小田急百貨店は改築中で、今後東京のデパート事業は良くも悪くも大きく変わっていくのは避けられない。
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関東大震災100年、「虐殺事件」と日本国家

2023年09月01日 22時19分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連で、8月31日から9月2日頃にいくつかの集会が予定されている。参加する気でいたのだが、猛暑続きのうえ諸事雑事に追われていて、何だか行く気が失せてしまった。昨日も関連記事を書くつもりが、どうも疲れて頭がはっきりしないなと思って止めた。それに自分が昔書いた記事を読み直すと、それ以上のことは今では書けないなと思った。

 それは、2017年8月から9月に書いた「関東大震災時の虐殺事件」に関する4回の記事である。
①『福田村事件
②『王希天と中国人虐殺
③『亀戸事件
④『朝鮮人虐殺

 これは当時として、知名度の少ないだろうと思った順番に書いたものである。「福田村事件」は劇映画になったので、知名度は高くなったと思う。これは明らかに「朝鮮人と間違われた」ことで起こったと考えられる。そのような事件は数多く、日本人でも沖縄出身者や障害者などで殺された人は相当数いたとされる。しかし、②の中国人虐殺は朝鮮人と間違えられたものではなかった。明らかに中国人労働者を狙って虐殺したのである。中国人労働者のリーダーだった王希天も狙って殺されたのである。

 もちろん亀戸事件(現在の江東区、当時は南葛飾郡)で殺された労働運動家、社会主義者たち、あるいは9月16日に起きた大杉栄伊藤野枝らの虐殺も狙って殺された。大杉らの事件に関しては、震災当日から2週間以上経っていて、「大震災の混乱の中で虐殺された」という認識では理解出来ない。他にも刑務所にいた社会主義者を引き渡すよう軍が要請したとか、個人的に警察に付け回されたなどの証言もある。日本政府が全体として、大地震をきっかけにして社会主義者、あるいは朝鮮独立運動家などを「始末」する計画を立てていたというと言い過ぎになるだろう。だが間違いなくそう考えていた人が存在したのである。

 それは1917年のロシア革命、1922年のソ連成立、同じく1922年の「第一次共産党」結成、あるいは1920年に始まった「メーデー」集会などが背景にある。支配層からすれば、日本にも「赤化」の恐怖が「ひたひたと迫っている」と見えたのである。これはもちろん日本の社会主義運動を過大視している。でも、何事も始まりの時はちょっとした出来事でも大げさにとらえるものだ。(全然問題が違うが、新型コロナウイルス流行の初期を思えば判るだろう。)

 いま関東大震災を総括するとき、単に揺れや火事だけを語るのは一番重大な問題を外すことになる。当時の多くの体験者が共通に語っているのは、むしろ「自警団の恐怖」の方だ。これもコロナの時に起こった「自粛警察」を思えば、理解出来るだろう。政治家はこの機会に当たって、この問題こそ語らなければならない。その点、東京都の小池都知事は在任期間を通じて、全く逆の言動を行ってきた。その結果、虐殺事件の碑の前で「ヘイトスピーチ団体」が集会を開くような事態にまでなってしまった。
(小池都知事の震災対応)
 「すべての犠牲者を追悼する」という言い方は、もちろん判っていて発言しているのだろうが、「虐殺事件」の重みを相対的に低下させる役割を果たしている。2022年秋には、よりによって東京都人権部が関東大震災時の朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映を禁止した事件が起こった。何しろ都の人権啓発センターの責任者が「都ではこの歴史認識について言及していない」「朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と伝えたという。東京都の職員のレベルはこんなものだとは知っていたが、これでは都知事発言の表面的意味を逸脱している。(ということは「真の意味を暴露している」ということか。)
(東京都の「検閲」を批判する人々」
 日本政府自体の問題ももちろんある。残された史料は無数にあることを知っていて、「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」などと松野官房長官が述べている。これを見れば「調査」したというのだが、いつどんな調査をしたのか。ちょっとマジメに調査すれば、あちこちに記録は残っている。何しろ、中国政府は日本政府に公式に抗議したし、検察官はいくつかの自警団や大杉ら殺害の甘粕憲兵大尉らを起訴している。おざなり的な裁判だったけれど、日本国が公式に裁判をしたのだから、いくつかの記録はあるはずだ。(空襲で失われたり、隠ぺいされたものも多いとは思うけれど。)

 もちろん当時の日本政府は、きちんとした調査をしなかった。それは虐殺事件が「民衆が勝手に暴走した」というものではなかったことを逆に証明していると思う。そして、そのような政府が継続している。「殺した側」が権力を持ち続けているのだ。
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