関東大震災関連の本を読んできて、これが最後。西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』(2018、ちくま文庫)を読んだ。先に書いた江馬修『羊の怒る時』の解説(西崎雅夫)の最後に、この本が紹介されていた。そう言えば、持ってたはずだと思って探したけど見つからない。あっちこっち探し回って、何のことはないすごく近いところに積まれていた。この本は基本的には証言集なので、全員が読むというのは無理があるだろう。しかし、様々な「証言」を積み重ねることで「量が質に転化する」凄みがある。この問題に関心がある人ばかりでなく、学校現場の「自ら考える授業」などで是非使って欲しい本だ。
この本は6つのパートに分かれている。「子どもの作文」「文化人らの証言 当時の記録」「文化人らの証言 その後の回想」「朝鮮人の証言」「市井の人々の証言」「公的史料に残された記録」である。人間ひとりひとりの見聞は狭いわけだが、関東大震災レベルの出来事になれば、非常に多くの人々が様々に書き留めていた。それを集合することで、ある程度全体像を再現出来るわけである。例えば、子どもの証言は一つ一つを検証すれば、思い込みや理解不足もあるはずだ。だが、学校で書いて公的に残された作文集などを通して、いかに「朝鮮人さわぎ」が恐怖だったかがよく判るのである。
文化人の中では、志賀直哉、芥川龍之介、寺田寅彦、和辻哲郎などの他、今はあまり知られていない人物もいる。また、その後の回想には戦後に書かれた自伝なども集められている。それらの証言は文章を書く人がまとめたものだから、最初に出てきた子どもの作文を大人の目で理解しやすくしている。ところで、芥川龍之介「大震雑記」は、今では内容的にちゃんと読めない人がいるらしい。
「僕は善良なる市民である。」と始まり「しかし僕の所見によれば、菊池寛はその資格に乏しい。」「そのうちに僕は大火の原因は○○○○○○○○そうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論そう云われて見れば「じゃ、嘘だろう」と云う外なかった。」この調子でまだまだ続くが、これを芥川が「朝鮮人犯行説」を信じていた証拠と読む人がいるらしい。リテラシー(読解能力)の大切さをよく示す例だろう。短文だから是非読んでみて欲しい。
圧倒的なのは、「市井の人々」の証言だろう。被害者側の「朝鮮人」の証言もあるが、数としては少ない。一方「市井の人々」は120ページもあって、54人もの証言が収められている。この場合、注意するべき点は「生き残った人しか証言できない」ということだ。多くの人が「朝鮮人に間違えられた」という恐怖体験を語っている。しかし、何とか逃れることが出来たために、後になって証言出来たのである。中には証明出来なかった人もいるはずだ。例えば聴覚障害者が犠牲になったケースもあるが、そういう人は証言出来ないのである。
地域的には東京東部(東京市外)が火災も虐殺も多かった。当時の東京市は15区で、現在の新宿、渋谷、池袋なども市外(新宿、渋谷=豊多摩郡、池袋=北豊島郡)だった。江馬修は西側の東京市外に住んでいて、そのため火災にはあわずにすんだ。一方、隅田川の東では本所区(現墨田区南部)、深川区(現江東区西部)までが市内だった。JRの駅で言えば、錦糸町までが市内で、亀戸から市外の南葛飾郡である。そこが東京最大の工業地帯であり、労働運動も盛んだった。また1913年から荒川放水路の掘削工事が始まり、震災翌年の1924年に岩淵水門が完成して放水路への注水が開始された。
このような工場や工事があり、零細な朝鮮人労働者は東部地域に多かった。一帯が焼失し、逃げていくためには川を渡らなければならない。四ツ木橋や小松川橋を目指すことになり、亀戸署や寺島署管轄地域に朝鮮人が集結して悲劇が起きる。また「亀戸事件」(労働運動家の虐殺事件)が起きたのも、たまたまではなくそれ以前から労働運動と警察の対立が続いていたのである。しかし、本書では東京東部の証言が思ったよりも少ない気がする。それは虐殺事件が一番多かった地域では被害者は証言出来ないのである。そういうことに注意して読む必要がある。
(西崎雅夫氏。追悼碑の前で。)
多くの証言でよく判るのは、「社会主義者」と「朝鮮人」の虐殺は別々のものではなく、密接に結びついていたことである。当時の言葉で言えば、「主義者」と「不逞鮮人」である。(権力者側も「国家主義」や「天皇制絶対主義」などの「主義者」だったはずだが、当時それは「主義」とはされず、国家に反逆する「社会主義」や「無政府主義」だけが「主義」だったのである。また「朝鮮人」の「朝」は「朝廷」に通じるとして、下を取って「鮮人」と略称された。朝鮮を「鮮」と略すのは差別表現である。)
外国と結んで「日本」を滅ぼそうとする「主義者」、その手足となって放火や暴動を起こす「不逞鮮人」というセットで「陰謀」が成り立つ。双方が「敵」であり、日本人であっても長髪だった画家や作家などは「主義者」と疑われて、自警団の検問でひどい目にあったことが多い。このような「陰謀論の構造」はどこかしら現代のそれと相通じるものがある気がする。「主義者」と「不逞鮮人」の「暴動」は、直接見た人が誰もいないのに、多くの人が信じてしまったこともこの本で判る。缶詰を持っていると「爆弾」、小麦粉を持っていると「毒薬」など、一度疑い出すと何でも疑惑の対象となる。
と同時に、誰もが虐殺に関与したわけではない。多くの人はそこまでは出来ない。怪しいとしても確証はない、怪しければ警察に突き出せば良いなどと思っていた人が多いようだ。(「わが町を守るため自分が殺した」という証言は一人もない。)それに対して、突然暴力を振るう人が現れた。そもそも「武器」を持って自警団に集結して、「天下晴れての殺人」だと思っているのである。そういう人はどんな人々だったのだろうか。仮に「敵」とみなしたとしても、人間に向かって「鳶口」を頭に振りかざすことなど、慣れている人じゃないと不可能だ。
軍隊経験があり(地域では「在郷軍人会」に組織され)、職業としては職人や小商店主など「労働者」や「旧中間層」に属する。都市の下層で、自分の生まれ住む「地元」意識が強く、労働力として競合する朝鮮・中国人を嫌っていた。そういう日常的に鳶口などを使い慣れた人々を想定出来るかと思う。これは恐らく20年後に「日本ファシズム」の支え手となった層(丸山真男の分析)と重なる部分が多いのではないか。そこら辺はもっと細かな分析が必要だが、証言を読んでいくと「どこでも似たような構図で虐殺が起きている」「同じようなタイプの人が虐殺を始めている」という印象を持つのである。
この本は6つのパートに分かれている。「子どもの作文」「文化人らの証言 当時の記録」「文化人らの証言 その後の回想」「朝鮮人の証言」「市井の人々の証言」「公的史料に残された記録」である。人間ひとりひとりの見聞は狭いわけだが、関東大震災レベルの出来事になれば、非常に多くの人々が様々に書き留めていた。それを集合することで、ある程度全体像を再現出来るわけである。例えば、子どもの証言は一つ一つを検証すれば、思い込みや理解不足もあるはずだ。だが、学校で書いて公的に残された作文集などを通して、いかに「朝鮮人さわぎ」が恐怖だったかがよく判るのである。
文化人の中では、志賀直哉、芥川龍之介、寺田寅彦、和辻哲郎などの他、今はあまり知られていない人物もいる。また、その後の回想には戦後に書かれた自伝なども集められている。それらの証言は文章を書く人がまとめたものだから、最初に出てきた子どもの作文を大人の目で理解しやすくしている。ところで、芥川龍之介「大震雑記」は、今では内容的にちゃんと読めない人がいるらしい。
「僕は善良なる市民である。」と始まり「しかし僕の所見によれば、菊池寛はその資格に乏しい。」「そのうちに僕は大火の原因は○○○○○○○○そうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論そう云われて見れば「じゃ、嘘だろう」と云う外なかった。」この調子でまだまだ続くが、これを芥川が「朝鮮人犯行説」を信じていた証拠と読む人がいるらしい。リテラシー(読解能力)の大切さをよく示す例だろう。短文だから是非読んでみて欲しい。
圧倒的なのは、「市井の人々」の証言だろう。被害者側の「朝鮮人」の証言もあるが、数としては少ない。一方「市井の人々」は120ページもあって、54人もの証言が収められている。この場合、注意するべき点は「生き残った人しか証言できない」ということだ。多くの人が「朝鮮人に間違えられた」という恐怖体験を語っている。しかし、何とか逃れることが出来たために、後になって証言出来たのである。中には証明出来なかった人もいるはずだ。例えば聴覚障害者が犠牲になったケースもあるが、そういう人は証言出来ないのである。
地域的には東京東部(東京市外)が火災も虐殺も多かった。当時の東京市は15区で、現在の新宿、渋谷、池袋なども市外(新宿、渋谷=豊多摩郡、池袋=北豊島郡)だった。江馬修は西側の東京市外に住んでいて、そのため火災にはあわずにすんだ。一方、隅田川の東では本所区(現墨田区南部)、深川区(現江東区西部)までが市内だった。JRの駅で言えば、錦糸町までが市内で、亀戸から市外の南葛飾郡である。そこが東京最大の工業地帯であり、労働運動も盛んだった。また1913年から荒川放水路の掘削工事が始まり、震災翌年の1924年に岩淵水門が完成して放水路への注水が開始された。
このような工場や工事があり、零細な朝鮮人労働者は東部地域に多かった。一帯が焼失し、逃げていくためには川を渡らなければならない。四ツ木橋や小松川橋を目指すことになり、亀戸署や寺島署管轄地域に朝鮮人が集結して悲劇が起きる。また「亀戸事件」(労働運動家の虐殺事件)が起きたのも、たまたまではなくそれ以前から労働運動と警察の対立が続いていたのである。しかし、本書では東京東部の証言が思ったよりも少ない気がする。それは虐殺事件が一番多かった地域では被害者は証言出来ないのである。そういうことに注意して読む必要がある。
(西崎雅夫氏。追悼碑の前で。)
多くの証言でよく判るのは、「社会主義者」と「朝鮮人」の虐殺は別々のものではなく、密接に結びついていたことである。当時の言葉で言えば、「主義者」と「不逞鮮人」である。(権力者側も「国家主義」や「天皇制絶対主義」などの「主義者」だったはずだが、当時それは「主義」とはされず、国家に反逆する「社会主義」や「無政府主義」だけが「主義」だったのである。また「朝鮮人」の「朝」は「朝廷」に通じるとして、下を取って「鮮人」と略称された。朝鮮を「鮮」と略すのは差別表現である。)
外国と結んで「日本」を滅ぼそうとする「主義者」、その手足となって放火や暴動を起こす「不逞鮮人」というセットで「陰謀」が成り立つ。双方が「敵」であり、日本人であっても長髪だった画家や作家などは「主義者」と疑われて、自警団の検問でひどい目にあったことが多い。このような「陰謀論の構造」はどこかしら現代のそれと相通じるものがある気がする。「主義者」と「不逞鮮人」の「暴動」は、直接見た人が誰もいないのに、多くの人が信じてしまったこともこの本で判る。缶詰を持っていると「爆弾」、小麦粉を持っていると「毒薬」など、一度疑い出すと何でも疑惑の対象となる。
と同時に、誰もが虐殺に関与したわけではない。多くの人はそこまでは出来ない。怪しいとしても確証はない、怪しければ警察に突き出せば良いなどと思っていた人が多いようだ。(「わが町を守るため自分が殺した」という証言は一人もない。)それに対して、突然暴力を振るう人が現れた。そもそも「武器」を持って自警団に集結して、「天下晴れての殺人」だと思っているのである。そういう人はどんな人々だったのだろうか。仮に「敵」とみなしたとしても、人間に向かって「鳶口」を頭に振りかざすことなど、慣れている人じゃないと不可能だ。
軍隊経験があり(地域では「在郷軍人会」に組織され)、職業としては職人や小商店主など「労働者」や「旧中間層」に属する。都市の下層で、自分の生まれ住む「地元」意識が強く、労働力として競合する朝鮮・中国人を嫌っていた。そういう日常的に鳶口などを使い慣れた人々を想定出来るかと思う。これは恐らく20年後に「日本ファシズム」の支え手となった層(丸山真男の分析)と重なる部分が多いのではないか。そこら辺はもっと細かな分析が必要だが、証言を読んでいくと「どこでも似たような構図で虐殺が起きている」「同じようなタイプの人が虐殺を始めている」という印象を持つのである。